日日是好日のレビュー・感想・評価
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遠仁者疎道、不苦者有智
地味で年配者から可愛がられるような良い子、普通だから目立たない事も多くて口下手だけれど、曲がったことはしない真面目で誠実な人柄。容姿も普通。こういう子こそ、日本人特有の美徳を秘める素質に満ちているのではないか。そして、こういう子、私の周りにわんさかいると思ったら、原作者と同じ学校卒だったので非常に身近に感じた作品。
竹を割ったような性格で要領よくテキパキ人生を切り開いているいとこの美智子は、常に今その瞬間よりも先を見て行動している。評価を得るための器用さも持ち合わせ、見た目の作り方も心得ている。
一方、主人公の典子は、今を誠実に歩むタイプ。一見不器用に見えてもそこに、その瞬間を五感を研ぎ澄ませて味わう茶道から得た感性が加われば、人生にも影響をもたらしていく。
まず就職。収入やききごこえの良いポジションを巡り百戦錬磨する周りを尻目に、ぶれずに自身のやりたいことを突き詰めた。
そして結婚。彼女は婚期よりも条件よりも、自身の心の声を聞き、気持ちの曇りを無視しない道を選んだ。流されずに、善悪の判断を下した。
最後に、家族との関係性。父の死の前日に父と会うのは叶わなかったが、予定があっても父のお酒に少し付き合うなど、同じお茶は2度とないという師の教えを聞く前からそう生きている。それでも、いざ失うともっと同じ時を過ごせば良かったという後悔は尽きないのだが。
様々乗り越えて、お茶の経験がフリーランスの物書きの仕事にも活きている。
まさに、遠仁者疎道、不苦者有智を体現しているのだ。
もともと茶道の才能や素質に満ちていたわけではないが、口を慎み言葉を選ぶ事を知っている平凡な学生だった主人公が、お茶のお稽古を通して所作を学び、不器用ながら人生を進めていく。主人公自身が大胆な発言や性格の変化を通して切り拓いていくのではなく、お茶を習いながらの月日の中で徐々に変化していくのが面白い。
毎週土曜のお稽古の中で、日本の暦で季節が巡り、その他の曜日での主人公の生活は一切描写されていないが、両親から精神的に自立していく様子やキャリアを積んでいる様子、行き詰っていたりイキイキしている様子が自然に伝わってくる。黒木華の演じ分けが素敵だった。
何事もないことの豊かさ
シンプルな映画です。一人の女性が、20歳から20数年間にわたりお茶の師匠の元に通う、ただそれだけの話。たまに、従姉妹と一緒に戸外に出たり、お茶会に出かけたりするぐらいで、主人公はほとんどの時間を茶室か自宅で過ごします。カメラも、ただそんな彼女のお茶のお稽古と、時折の人生の折ふしをじっくりと追いかけていくだけ。
それなのに、とても豊かさを感じさせる映画です。場面はほとんど狭い茶室と庭だけですが、その狭い空間には四季折々の自然の移ろいがあり、雪や雨や刻々と変わっていく陽射しがあります。風のささやき、水のせせらぎ、季節の花々や木々。お稽古の度に変えられる掛け軸、茶器、そして微妙な色彩と形で目を楽しませてくれる和菓子。何よりも、茶道の所作の切り詰めた美しさと、時にふっと挿入される唐突なアクション(それは見てのお楽しみです)が画面を活性化させます。
でも、もしかしたら、この映画の真の魅力は、茶室という閉じられた簡素な場所にあるかもしれません。映画を見ていると、ポッカリと広がる何もない空間に、世界が引き寄せられてくるような、不思議な感覚にとらわれます。実際、主人公は、掛け軸の書を通じて瀧を召喚し、さらに死者との交感すらも行います。それは、茶室という閉ざされた空間の神秘であり、同時に映画という世界の神秘でもあります。そう、映画はスクリーンという閉ざされた空間の中で、自然や歴史や人生や社会を自由に操ることができる素敵なアートなのです。
大森監督は、まほろ駅前シリーズからセトウツミへと連なる一連の作品を通じて、淡々と続く日常の中に生まれる豊かなドラマを描いてきました。この映画は、その延長上にありながら、さらに四季の推移や人生という時の流れを組み込むことで、新たな境地を開拓したようです。もちろん、その背景には、男たちの物語から女たちの物語へと移行したということもあるでしょう。それ以上に、樹木希林と黒木華という素晴らしい女優たちを迎えたことでこのような世界が可能になったと言ってもいいかもしれません。
樹木希林の暖かく包み込むような穏やか声と柔らかな物腰。それでいて、少し声のトーンを変えるだけで部屋の空気が凛と引き締まる緊張感。黒木華のすっくりとした姿勢の美しさ。何より、お茶のお稽古を通じて、女性として、人間としての魅力を増していくその佇まいの深さには目を奪われます。物語の終わり近く、樹木希林が初めて黒木華の身体に触れて言葉をかける時、この二人の間に何かが確実に伝えられたことを観客は感じます。それは、茶道の精神かもしれませんし、あるいはある特権的な女優のみにしか許されないオーラのようなものかもしれません。それに応えるように、黒木華は新たな一歩を踏み出します。
樹木希林の遺作となったこの作品は、同時に黒木華という稀有な女優の新たな旅立ちを告げる映画ともなりました。樹木希林という稀有な女優に感謝と黙祷を捧げつつ、最後にこのような美しい出会いの場を用意してくれた大森監督に賞賛のエールを送りたいと思います。
小さな変化に気づくほどの凝視。
大森立嗣監督×黒木華という組み合わせにそそられて見てきました。
公開前に出演者である樹木希林が逝去、そこはかとなく寂しい気持ちのする鑑賞となりました。
万引き家族のプロモーションの映像とか画像とか見ていると、あ、痩せたなって感じていて、長患いのがん患者が痩せるとどうしてもそろそろか、なんて思ってしまって、ひとりで腑に落ちていたものですから、突然の!という感じはしませんでしたが。
さて、映画本編についてですが、
前情報からして絶対地味だろうと思っていました。
予想通りの地味さで、わたしはとても満足です。
1993年から始まる25年の物語ですが、黒木華も多部未華子も1993年のもっさり感がない21世紀の女の子なので、全然90年代感はしませんでした。
多部ちゃんあたまちっちゃいな、華ちゃんの横顔美しいな、なんて思いました。お洋服も21世紀やなーて。辛うじて多部ちゃんのソバージュヘアーに90年代みを見出したかな。
1993年、わたしは12歳ですね。なので、典子たちがお茶を初めて数年後に現れた女子高生と同世代かなーとおもいます。
わたしは「道」がつくものに縁がないのですが、抹茶も和菓子も好きだから、飲み食いのカテゴリーとしてはお茶好きです。
でも「道」なので、哲学なんだと思うんですけど、その部分は全く疎いです。
映画を見て思ったのは、茶道が追求している道って、「今ここにいる」の実践なんだなということです。あくまでも映画で扱っていた茶道から、素人の私が思ったことですが。
「今ここにある(いる)」っていうのは、ゲシュタルト心理学で出てくるワードでして、わたしは全然詳しくないのですが、田房永子が著作で紹介していて知ったことなんですけど、過去も未来も見ずに、まずは今ここにいる(生きる)ことに集中することで、過去の後悔、未来への不安でパニックにならずに対処できるよっていう治療法?(ゲシュタルト療法というらしい)概念?なんです。
cf.『キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』
ふくさをこうして折り、帯に挟んで、畳を6歩で歩いて、ひしゃくの持つ位置、蓋の置く場所、音をさせない、茶碗から湯をこぼさない、雨の音がして、鳥の声がして、温かい、寒い、熱い、心地よい風、草のにおい、お菓子の味、お茶の味、それらに集中するっていうことが、樹木希林のいるお茶の先生のおうちで繰り広げられていたと私は思いました。
それって、田房さんがやっていた「今ここにいる」と同じだなって、思いました。
道ってのは、哲学の実践ってことなのかしら?とか思っています。
特に、お湯の音と、冷水の音が違うってところが印象に残りました。
その音の違いを見出すくらい、瞬間を見つめているわけでしょ。
その気づきってうれしいよねって思いました。
ほんで、実際にお湯の音と、冷水の音違って聞こえたんですよね。
お湯はとろみのある音、冷水は澄んだ音に聞こえました。
あと、掛け軸の「瀧」って文字から、名瀑をイメージするシーンも、いいなあって思いました。
すっごく地味な映画なんですが、自分でも見つけられる小さなよろこびが入っていて、結構感動しました。
失恋のところ、一緒に泣きましたよあたしゃ。
お父さんの突然の電話が死亡フラグだった、戌年にしか使わない茶碗がラストのオチになるってのは、ちゃんと気づきました!
『今ここで』を感じること
とんでもなく濃密な映画だと感じました。凄い観応えだった!
静謐な映画だからこそ、目を離すことができない。いや、この映画を隅々まで味わいたい!と思わせるモノがありました。
目の前の音を感じ、観て感じ、触感や温度を感じるお茶の世界が描かれていたからこそ、そう感じたのかしれません。
意識を集中し、その瞬間瞬間を丁寧に感じることは、なんと豊かなことなのだろうか。素晴らしかったです。
黒木華演じる典子の24年を描いた映画でした。そのほとんどを茶室の描写に当てているにも関わらず、彼女の成長や変化がバッチリ描かれていました。
また、黒木華がすごい。その時その時の心の状態がちゃんと外に現れていて、これもビックリしました。所謂達者な役者とはちょっと次元が違う印象です。
典子はお茶が好きなのかは不明ですが、典子はお茶を必要としているのですよね。支えと言えるかもしれませんが、もっと的確な言葉がありそう。典子はお茶とともに人生を歩むことが運命づけられているような印象です。
典子のエピソードは基本サラっと描かれてますが、父との物語はさすがに胸に刺さりました。お父さんを演じた鶴見辰吾も素敵でした。あと、『セクシーは気品に宿る(ただしラテン系セクシーは除く)』を持論としている私にとって、本作の鶴田真由はド真ん中でした。めちゃ艶っぽかったです。
しかし、お茶は豊かですね!普通ならば通り過ぎるモノをキャッチして、味わう。茶室の造りや謎の儀式性はそのためにあるんじゃないか、なんて感じてます。
そんな風に理屈っぽく考えると武田先生に怒られそうですが、水とお湯の音は聞き分けられましたぜ!私の耳には、水はキーンでお湯はトロッ、でした。
武田先生は樹木希林意外はあり得ないですね。彼女の訃報を聞いた時は、「あんな妖怪みたいなバーさんも死んじまうんだなぁ」くらいにしか思わなかったのですが、本作を観て、もうこの世に彼女がいないと思うととてつもなく悲しくなりました。鑑賞後に、特に実感してます。
ただ、本作には間に合ってくださり、とてもありがたいとも感じてます。本作で改めて樹木希林のバーさんに出会え、何かを感じることができ、嬉しい気持ちになっています。
心よりご冥福を申し上げます。
遺作として、樹木さんの「武田先生」は適役でした。
典子が大学を卒業し社会に出て一人を暮らしを、茶道を通して人生の
一片を描いた作品であり、そこに「師」と仰ぐ武田先生が寄り添っているいう感じの作品で、樹木希林さんの遺作としては、気持ちの良い作品であったように思える。私自身も茶道の作法の難しさを分かって良かった。「茶法」というのは、
練習を積めば自然に手が覚えるという。「茶道」の奥深さを感じ取れた気がした。気持ちを「無」の状態で一連の作業を行う。
映画の中に、フェリーニの「道」のエピソードが描かれている。それも作品に何らかのアクセントをつけていて、今の私の年齢だと理解できるだろうかと思った。一度、ゆっくり見てみてみたい。そんな上品な作品でした。
私としては、樹木さんのハチャメチャな作品を最後観たかったような気もする。
丁寧な良作
祖母が表千家の地方講師だったのですが、樹木希林の指導の言葉が、昔祖母から聞いた言葉と重なって、まずそれにしみじみしました。
お茶の世界は意外とローカルルールがないもんだな、という点に感心しました。
原作は未読ですが、茶道の心と、日々の生活にそれを活かすことというテーマを、よく消化していると思います。
?と思ったところ3点。
黒木華と多部未華子のカラオケシーンが無駄に長い(一瞬でよかった)。
時々挟まれる主人公の心象風景らしきものが、黒木華の演技力をもってしても浮いて見える時がある(海辺でずぶ濡れになって、亡き父に呼びかけるシーンとか)。
瀧のお軸から瀑布を感知するシーンは無音で映像だけ流す方が、観客も、無音だけど聴こえる、を共有できるし、没入感が出てよかったのでは。
庭木の若葉をズームインして細胞にまで入り込んでミトコンドリア?を大写しにするくだり(理化学研究所が協力でクレジットに入っていた)は、自然と生命の直結、悠久の時の流れと人の一生の儚さとか、禅的なものの含意だったのかなと思いますが…なんか唐突で押し付けがましかった。
ごめんなさい。
いい俳優さんを使って、丁寧に作られていたと思います。
布置(constellation)!!
“茶道”のことは全くわからないものの、楽しく観ることができた。
樹木希林さんが亡くなられたことは、いまだに信じられない。
ところで、日本の「道」には、まず型を覚え、心(魂)は後から入れると考えるものが多い。
鎌倉時代の名僧・明恵上人は「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を大切にした。細胞の映像が挿入されていたが、日本人には細胞・遺伝子レベルでこのような心性の連続性があるのだろうか?
茶道を習う者にとって、その型を守ることや茶室が心の成長のための容器になっている。その器に守られながら、様々な記憶や感情が想起され、時間をかけて受容されていく。
そして、物語にはいくつもの布置の存在が感じられた。
日本で成長する女性の美しい姿。
日本の美しい文化の中で成長していく女性を描いた作品。何も興味のなかった1人の大学生が茶道を通じて強く成長していくというベタな展開だけど見ていて応援したくなる。黒木華は途中一緒に茶道を習ってた友達が結婚したり、父親が亡くなったり、婚約者に裏切られたり様々な波があるがそれも茶道を続けながら乗り越えていく強い女性として描かれてるけど、月日毎に役もハマっていて自然です。この映画を見て強さ=美しさという事を改めて感じた。成長していく典子(黒木華)を見つめる武田先生(樹木希林の姿はまるで自分の跡取りとして見守っているかのような雰囲気でなんとも複雑な気持ちになった。
掛軸の魅力
黒木華ちゃんショートも似合う‼︎
樹木希林さん
やっぱり味があっていいですね
もう演技が見れないのはとても残念です...
掛軸から季節や想いを感じたり
海辺で亡くなった父親に有難うと叫ぶシーン
華ちゃん可愛かったです。
無条件で良い子だ‼︎
まったり感が良かったです。
様式を愛で、二度と同じ日のない日日を祝福する
なんとも心地よい映画だった。毎日この映画を見ながら眠りたいと思えるほど。そして日本の文化の美しさに改めて気づかされた。お茶を立てる、という行為が持つ深く大きな意味を、私はこの映画で初めて知った。
私は茶道の経験がないので、冒頭の若い娘たちと同じ感覚でこの映画を見始める。
「お茶って変なの」と言ってくすっと笑う気持ちが少しわかるような気もする。決まりごとが多く、様式に則った動きをしてお茶を立てる。そのことに何の意味があるのか?と尋ねても、樹木希林さん演じる武田先生も口ごもって「そういうものなのよ」なんて答えたりする。しかしこの映画を最後まで見ると、様式に則りお茶を立てると言う行為の真髄が確かに見えて実感できるから素晴らしい。
私たちは、毎日似たような一日を繰り返している、ように感じている。今日一日を振り返れば、まるで昨日と同じ一日のようだったと思うし、明日のことを考えれば、まぁ今日と同じような一日だろうと思う。しかし、同じ日などは本当にまったく存在せず、一日一日少しずつ違う日が訪れている。春夏秋冬4つの季節より更に細かい二十四節季よりももっと細かい、言葉さえ存在しない単位で季節は365日移り変わっているし、その都度お茶菓子も変わるし、掛け軸の文字も変わる。茶器も変わる。装いも変わる。天気も変わるし、気がつかないだけで自分自身も変わっている。そういった変化に気づくためには、変わらない「何か」が必要だ。そしてそれが「お茶を立てる」という動作だと私は思った。お茶を立てるという動作は様式が決まっていて、毎回同じ所作をする。様式を愛でることで、日々の変化に気づき、また一日として同じ日のない今日という日を慈しみ祝福する。12年に一度巡って来る干支の茶器を見て過ぎた12年という歳月を想い今日という日を祝福する。仮に、辛い失恋や永訣の日でもその日を祝福する。辛い日もあるからこそ何事もない日の好さに気づきそれを祝福する。それがお茶を立てるという様式の美学なのだと、私はこの映画を見て初めて知った。
するとこの映画のタイトルを思い出す。
日日是好日。
二度と同じ日のない一日一日すべてが素晴らしき日である。
茶道。なんて美しい道だろう。
日本人であるというだけで、少し胸を張りたくなるような、そんな気分にさせてくれる映画だった。
映画の後の帰り道。私は無意識に背筋が伸びて、歩き方もいつになく上品になりました。
染み入る、作品。
冬の朝のような、冷たさ。
春の光のような、優しさ。
夏の緑のような、強さ。
秋景色のような、豊かさ。
そういう様々な面を持つ、静かで温かなシーンとメッセージに溢れていました。
高校生の頃、茶道部で少しだけお茶を習いましたが、何で?と聞くことはなかったな。
袱紗捌きも、茶巾絞りも、そういうものだと言われたら、そういうものだと思っていた。
今の子はああやって聞きそうだなぁと思った。
大人に対して遠慮がないものね。
何か若いって怖いわ笑。でもそこが可愛かった。
足が痺れてひっくり返るとか、ただただ静かなだけじゃなくて、そんなちょっとした笑いや、親子あるあるとも言える「親に冷たくしちゃうと後悔する」シーンなんかも素敵でした。
鶴見辰吾も、昔は尖ったお坊っちゃん役とかしてたのに、いつの間にあんなにお父さんが似合う俳優さんになっていたんだろう。
同じ顔ぶれでお茶の会を開いても、二度と同じにはならない、といった意味のセリフが、心に染みて泣けてきます。
毎日を大切に。
そして、良い日に。
心がなんか落ち着きます。
茶道と言う文化はもちろん知っていても、それに触れる機会は限りなく少ないし、正直そんな時間も無いw
でも、茶道に限らず、習い事をするのは何処か自分に向き合う事でいろんな事を気が付かされる訳ですから、出来ればそんな時間を作る事を大切にしたい。
心が穏やかになるだろうなぁと思って、観賞しましたが、予想通り心が穏やかになりました。
樹木希林さんが亡くなられたと言う直前のニュース性で観るだけでなく、個人的にも沢山の人に観て欲しい作品かなと思います。
ふとした切っ掛けでお茶を習い始めた典子に共感出来るし、そんなちょっとした切っ掛けで習い始めたお茶の世界が自身の人生に大切な何かを教えてくれる。
なんか羨ましい。自分も習い事をしておけば良かったかなと思います。
樹木希林さん演じる武田先生、素晴らしいです。
凛とした中にユーモアがあって、こう言う人を師匠に持ちたいと思いました。
茶道を習うと言うのは何処かリッチで生活にも精神的にも余裕がある人達と思っていても、実はそういう時間を持つ事が大切な事なんですよね。
貧乏でも心を豊かにする大切さ。
雨が降れば嫌だなぁと思うのではなく、雨降りを楽しめる事何かを見つければ良い訳ですと気が付かされる。出来そうで出来ない感じではありますが、ちょっと霧が晴れた感じがしました。
タイトルの日日是好日。とても大切な事なんですが、なかなかそこまで自分に向き合う事が出来ない俗物な自分ですw
でも、心が穏やかになれる。本当にお茶の様なしみじみとした良い映画かなと思います♪
”すぐわからないもの”を感じさせる普遍的な空気感
樹木希林。「モリのいる場所」、「万引き家族」に続いて、今年はこれで3本目。最後の最後まで現役女優を貫いた生き様であった。
3連休に合わせた1週間前倒し公開は、ある意味で"便乗"だが、映画が興行である以上、いそいそと通って、故人をしのぶこともまた供養。館内も故人きっかけで話に花が咲く。
とはいえ、本作の主演は樹木希林ではなく、黒木華だ。希林さんの訃報がなければ、映画ファンとしては、"黒木華×大森立嗣監督"の初タッグが見どころである。あらゆる映画監督が皆、ラブコールを送る女優である。むしろ樹木希林さんのほうが、黒木華主演のオファーに引き込まれたとしても不思議はない。
本作は、森下典子のエッセイ「日日是好日『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を原作としたもの。作者の25年にわたる茶道経験を綴ったものだ。
ふつうの女学生・典子(黒木華)は、従妹の何気ない一言から二十歳で茶道教室に入門する。そこから就活・恋愛・失恋・従妹の結婚・独立・家族との別れ…人生を通して変わっていく自分をとりまく環境と、変わっていないようで変わっていく茶道が教えてくれる人生への気づきが、静かに淡々と語られる。
かしこまったイメージのある伝統文化の"習い事"には、つい身構えてしまいそうになる。しかし長い時間をかけて完成された様式美は、日々の暮らしに寄り添ったものであることを初心者に易しく、ときにコミカルに描かれる。
エッセイ集の忠実な実写化ということもあり、主人公・典子のモノローグが大半を占める。セリフは最小限で、茶道のシーンも無言であることが多く、そのぶん、"間(ま)"や"空気感"が際立ち、季節の移り変わりに伴う、"自然界の音"が重要な要素となっている。
静寂を楽しみたいと思うと、普段はまったく気にならない空調(館内エアコン)の音が気になるほどだ。季節外れの真夏日が恨めしい。
印象深いのは、季節とともに変わっていく、茶室の庭、掛け軸(の文字と絵)、着物、お茶菓子、雨の音などの変化。脚本も自身で担当する大森立嗣監督だが、セリフではなく、役者の所作と季節を捉えた画で見せる作品となっている。
そんな中で、黒木華はずっと出ている。茶道の初心者だった女学生が、手慣れた経験者になるまでの時間を演じる。
いつもは余裕さえ感じる黒木華の演技だが、40代だけは少々厳しかった。着物やかつらだけではごまかせない、肌はまだ若々しいしね(特殊メイクすることまでは及ばなかったのだろうか)。
対して、茶道教室の武田先生役を演じる樹木希林はさすがである。歳を重ねるほどに身体は小さく丸まり、動きはゆっくりとなる。なんとまあ。
自身の魅力であるひょうひょうとした滑稽さも出しながら、演技を達観した自然体に見える所作は、安心して観ていられる。大森監督の意図した仕掛けもあるだろうが、なにげなく金言を漏らす役柄は、樹木希林そのもの。
茶道でもっとも有名な言葉「一期一会」や、タイトルの「日日是好日」など、この作品には様々な名言が多く登場する。なかでも本作をいい表わす印象的なフレーズも出てくる。
「世の中には、"すぐわかるもの"と、"すぐわからないもの"の2種類がある。‥‥すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる」。
じんわりとしみ込んでくる言葉である。
(2018/10/6/シネスイッチ銀座/シネスコ)
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