ナチュラルウーマンのレビュー・感想・評価
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「私は人間」人の尊厳を描いた作品
トランスジェンダーの役をトランスジェンダーであるダニエラ・ヴェガが演じているという点でも重要な意味を持つ作品だが、内容的にも社会の中でトランスジェンダーがどのように扱われているのか、人間関係の点でも制度的な点でも重要なポイントと突いた作品だ。
恋人の死に際しても彼女は、葬式に立ち会うことができない。同性婚の制度がなければ、法的にもその権利はないだろう。死んだ恋人の元家族に拒まれ、葬式に出ることすら叶わない。その他、多くの偏見に主人公は向き合わなくなてならない。
一方で、トランスジェンダーに限らず、自分は何者であるのか、自問を促す作品として本作は優秀だ。「お前はどっちなんだ」と聞かれ、主人公は常に「私は人間」と答えるのが印象的だ。男であるか、女であるか、トランスジェンダーであるかの前に人間であるという感性を忘れないこと。当たり前のことをスルーしないことが人間関係に大切なことだ。この問いがあるから、本作は女についての映画ではなく、トランスジェンダーについての映画でもなく、人間の尊厳についての映画になり得ている。
思ったよりも想定内過ぎか…
良さそうで?
素敵な女性
主人公はトランスジェンダーのマリーナで、彼女の最愛の人オルランドが急逝してしまう所から物語は始まる。
最愛の人、生きていく上でかけがえのない人。
オルランドを失った彼女が直面する、死別とはまた別の苦難の数々に、観ている私たちも打ちのめされるような思いがする。
マリーナの事情が事態をより複雑に、より困難にしていることは当然伝わってくる。
けれども、愛した人との出会いの形や、関係の結び方次第では、マリーナがトランスジェンダーでなかったとしても当然あり得るように思う。
「浮気相手と一緒になるから」と離婚を突きつけられた奥さんだったら、籍を入れないまま一緒に暮らしていたら、どうだろう。
「葬式に来るな」「親父の家から出て行け」くらいの当然あるべき権利を不当に奪われるケースはかなり高い。
これはLGBTの抱える問題が描かれつつも、それに特化しただけでない、普遍的な個人の持つ多様な生き方を否定する考え方を批判的に描いている映画だ。
少なくとも私にはマリーナのことを全くの他人事とは思えず、ヘテロセクシュアルな男女を一組のつがいと見なし、その血縁を継ぐ子どもを含めた「家族」だけが正常で普遍、とする社会の認識は、今や実態からあまりにも遠いのだと改めて思った。
マリーナほどでなくても、生まれついた性別の規範から外れる行動をした時、やいのやいの言われることはままある。
「男に生まれてたらもっと出世出来たのにな」とか、「もうちょっとおしとやかにしたら?」とか「大人しくしてれば可愛い」とか。
言ってる方は「良かれと思って」「むしろ褒めてるつもりで」言ってるのだろうけど、「お前は何様だよ?」と思う時もある。
そんな時、自分をまるごと受け入れてくれる人、人生を共に歩んでくれる人は、マリーナにはもういない。
逆風の中を、たった一人で歩き続けるしかない。
思えばきっとオルランドは、マリーナにとって冷たい風を遮ってくれる温かな壁であり、冷たい雨から守ってくれる傘のような存在だったのだと思う。
そんなオルランドの「不在」を受け入れたマリーナが、それでも「自分らしく」生きていこうとする姿に、勇気を分けてもらえる素敵な映画だ。
男女の型にはまらない人
切ない作品
声高に主張しないのもリアル
トランスジェンダーの女性が、同棲していた恋人が死んだことで
さらされる社会の差別。
恋人の家族にとっては、彼女は愛人なのだから
基本的に酷い対応はまあするだろうなってとこではあるものの、
それもトランスジェンダーだということで
より一層見下して人間とも思わない扱いである。
あまりにも酷い。
また、頭では理解しているつもりのものもいて
それも結局は彼女に屈辱的な思いを味あわせる。
しかし彼女は声高には主張しない。
ヘタな脚本なら彼女自身の口から叫ばせそうなとこだ。
彼女が反論しないのは、彼女がこれまでの人生で
聞く気のない相手に何を言ったって無駄だということを
嫌というほど体験してきているからなんだろう。
ヘタな理解を示すでもなく敵視するでも面白がるでもなく、
そう、ただ、普通に、人間の女性として
「あ、そう」くらいの反応でいられるのが一番楽なんじゃないだろうか?
彼女は多くを望んでいるわけじゃない。
普通に、愛してた人の死を悼みたいし、
思い出の品があるならそれを手に取りたかったんじゃなかろうか。
だから彼女には一番いやなサウナの男湯にまで行った。
そこに何もなく、でも最終的に亡骸と別れができたのは
過去の思い出にばかりとらわれずに
前を向いて生きていける、というあらわれだろうと思う。
トランスジェンダーというのも含めつつ
恋人との別れを乗り越えて強く進もうとする
一人の女性の決意の物語だと私は感じた。
愛の脆さ、愛の奥深さ
愛する人が死んだ。
だが、公表できる関係ではなかった。
愛する人の世間体を想い、これから起こるであろうわずらわしさから逃げるために、その場から黙って立ち去ろうとした。
後は、愛する人の思い出ー 物・匂いに囲まれて、愛する人が愛したペットとともに、愛する人を悼みながら、静かに慟哭して暮らしてゆくはずだった…。
けれど、”愛人”という立場では、それは許されなかった。
何もかも取り上げられて…。
住んでいる場所も、想いを分かち合うペットも。
それどころか、愛する人との聖なる場所に、無神経に踏み込んでくる。
そして、愛する人との最期の別れすら…。
そりゃ、オルランドの家族からしてみれば、マリーナは父を奪った極悪人だが。
だから、奪われたものを奪い返しに来ただけなんだろうが。
どんなに愛し合っていても、お互いを唯一無二と大切に思いやっていても、”法”的根拠がなければ、愛する人に対して何の権限もない。
愛する人との思い出の場を守ることどころか、
どのような最期にするのかーどこで葬式をして、誰を呼んで、どこで眠るか…。
この映画では、あっさりと逝ってしまったが、もし意識の戻らぬまま延命治療となった場合、看病できるのか。”脳死”となることが多い昨今、誰が、その”死”を決めるのか。
どんなに愛を捧げても、”法”の裏付けがない立場は、なんともろいことよ。
そんなもどかしい思いに胸を引き裂かれながら、映画を観ていた。
でも、まてよ。
『元妻』を強調している。ということは、離婚しているのか。離婚しているのなら、オルランドとマリーナはなぜ結婚していない?
マリーナが、まだ、戸籍を女性にしていないから。同性婚はまだ認められていないからなんだろう。
もし、婚姻が成立していれば、喪主はマリーナだ。
皆から、愛する人を亡くした立場を尊重され、ともに悲しみに暮れることができたはずだ。
オルランドの元妻や息子・娘が、参列するかどうかは、かれらが決めることだ。
病院から立ち去らなくてもよい。
警察から事情聴取は受けるだろうが、死因ははっきりしている。怪我の状況もちゃんと聞いてもらえ、事件にはなりえない。
息子が不法侵入しても、ペットを勝手に連れ去っても、警察に通報すればいいだけのことだ。
”法”的に結婚しているか、していないかだけで、こんなに差が出るなんて。
愛する人を亡くした悲しさは変わらないのに。
ただ静かに悼みたいだけなのに。
(ドラマ『きのう何食べた?』でも、このテーマを扱った回があったっけ)
加えて、浴びせられる、ここには書きたくないような言葉の数々。
向けられる視線。
その度に、マリーナは自分を鏡に映し自分を確かめる。
そして、オルランドの幻影が現れる。
誰がなんと言おうと、確かにあったオルランドとの日々。
オルランドがマリーナに向けるまなざし。
火葬の場面で、マリーナが飛び込むんじゃないかとハラハラしてしまった。
それほどの絶望と…。
でも…。
これだけの展開の後で聞く、
ラストの歌声が、天から降ってくる、もしくは天に昇っていくようで圧巻。
いつまでも浸っていたかった。
☆ ☆ ☆
原題『ファンタスティックな女性』(非常に素晴らしい女性)
邦題『ナチュラルウーマン』
どっちも、味わい深い。
アレサ・フランクリンさんの『ナチュラルウーマン』のある訳詞にはナチュラルウーマンを「自分らしく素直な自分」と訳している和訳もある(『あらしのよるの巡礼』というブログ)。「あるがままの」という訳もある(『洋楽譯解』というブログ)。
オルランドといる時のマリーナ。でも、この一件でアイデンティティが踏みにじられ、揺れる。
粗筋は説明してしまえば、一行で終わるかもしれない。
だが、マリーナがどうなっていくのか(これほどひどい事をされて堕ちていくのか)、
ディアブラはどうなるのか、
見知らぬ鍵。
先が読めない展開。からの、ラストの開放感。
見事な脚本。
そして、主役のベガさんが圧巻。彼女なしではありえない映画。
その時その時の表情に引き付けられる。
魂の底からの叫びが噴出さんばかりの眼。
少し卑屈になっている立ち振る舞い。
かと思うと、誰よりもパワフルで、己のなすべきことを成す姿。
何にも屈しず、何も傷をつけることさえできなさそうなプライド。
オルランドといるときの、くつろいだ表情。
繊細さ。
目が離せなくなる。
映像も見事。
元妻、元妻の知り合い、マリーナが乗るエレベーター。そんな何気ないシーンも印象深い。
加えて、チリと日本の違い。
救急車は呼ばないのか。呼んでいたら、怪我はしなくて、余計な疑いかけられなかったのに。
チリの火葬はあのようにするのか…。
☆ ☆ ☆
マリーナの生き方がヒリヒリと痛い。ただ、マリーナ自身をそのまま受け入れ愛してくれた人と生きたいだけなのに。
その分、オルランドのまなざしが心地よい。
(足立レインボー映画祭にて鑑賞)
忘れられない一作
強風のシーンが印象的
素晴らしい👏
【トランス女優、ダニエラ・ヴェガの強い眼差しと覚悟に魅入られる】
内面まで描けていない
イグアスの滝には何か共通項が?
映画『ブエノスアイレス』(1997)ではトニー・レオンとレスリー・チャンのベッドシーンなんかがあって話題を呼んだが、こちらの作品では冒頭に滝の映像が流れ、オルランドがマリーナをイグアスの滝に誘う場面がある。「白い封筒をどこに置いたか忘れてしまって・・・」などと、忘れっぽくなっている57歳の社長オルランド。恋人は生物学的には男性である、トランスジェンダーのマリーナ。いきなりオルランドが倒れ、病院で死亡するというショッキングな展開だ。
警察の取り調べは性犯罪を中心に扱ってる女性刑事。すぐに犯罪と結び付けたがる、いけ好かない刑事だ。そして、弟ガブリエル、元妻ソニア、息子ブルートと家族が現れ、彼女を偏見の目で見始める。そして、通夜も葬儀にも来るなと通告が・・・そんな中、ただ一人ガブリエルだけが「彼女は女性だ」と、援護射撃をしてくれる。この弟だけが人間を理解してる人なんだな~と、優しい気持ちになれる。
一緒に住んでた恋人という設定ですが、最初は「友達です」と言ってたマリーナ。その恥じらいと、遠慮がちなところがとてもキュート。徐々に女性らしさを発揮して、前向きに生きていこうとするところが心地よかった。あのサウナでの心境は難しいけど。
ストーリー的には普通の評価でしたが、ダニエル・ベガ本人もトランスジェンダーだということを後で知り加点(あの胸も自然だったのですね)。また、アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」も、アラン・パーソンズ・プロジェクトの「time」も作品にマッチしていて気持ちがいい。個人的には冒頭の「あなたの愛は昨日の新聞紙」(タイトルわからず)をもう一度聞いてみたい!
チリという馴染みのない国で、まだこんなにも偏見を持たれていることに...
映画を知りて生きていく活路を見出してきた35年の私が推す作品
男性が男性と思ってることが更々おかしな話。逆もしかり女性が女性と思ってることも同じ。簡単に言ったらそんな所だが本当に男性が男性しか無理な人もいるだろうし女性が女性しか無理な人もいるだろうし
男性が実は女性で女性目線でしか女性を見れない人もいるだろう。逆に女性でありながら男性でその目線でしか男性を見れない人もいる。私は幼少期女性になりたかった男の子とデートしたかった。それでも女性からバレンタインデーや誕生日プレゼントを貰ったりしてたのだが相手の女性には申し訳ないが男性とのデートが楽しかった。女性より男性のほうが優しいのだ。今も私はそう思ってる。女性は勝手気ままで自分中心の人が多いが男性は大半私の言うことを聞いてくれる。それこそ無償で性の関係なくで。更に女性は身体を求めたがる、間違いなく男性のほうが身体好きなのは間違いないが男性は単純明解なんで、そんな肉体好き変態野郎とは私はかなり距離あけてしかつきあわないようにしてる。肉体好き変態野郎のプレイは男女問わず共に知的要素が含まれてない。ここにまだ変態要素でも入ってたらまだましたが、その日その場の欲求を満たすプレイでいいのだが、ただの欲の発散だけなら寂しいもんだ。肉体的な話を精神的構造と織り交ぜながら話を出来る人達はおそらく、男性だの女性だのには捉われないと私は信じてる。美だ肉体美、内面的な美しさ、知的要素からの美・さまざまな美が人を惑わし人を翻弄する。いいじゃないか、短い道のりドタバタドタバタと様々な者に翻弄され様々な者に優しく接し様々な形で様々な愛を恋を楽しめば良いのではないかと思う。
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