聖なる泉の少女のレビュー・感想・評価
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【”癒し手・・。”幽玄なる自然と、信仰と風土が醸し出す静謐な雰囲気がジワリと来る作品。聖なる泉に棲む真白き鯉と、少女が”聖なる泉の守り手”になる決意をする姿が印象的な作品でもある。】
■ジョージアにある山深い村。
そこには人々の心身を癒やしてきた聖なる泉があり、ある家族がその水による治療を代々行ってきた。
今は家族はそれぞれ独立しており、年老いた父親は娘のツィナメに後を継がせようとする。彼女はその使命に思い悩むのだが、徐々に自らの使命を自覚し、聖なる泉の守り神である、白い鯉を自ら湖に戻すのである。
◆感想
・今作の様な幽玄な作品は個人的に好きである。故に、今作の様な作品にドラマティックな展開を求めてはいけない。
只、観る側はその幽玄なる世界観に浸れば良いのである。
<今作は、聖なる泉を守って来た父と、白い鯉に対し、最初は何で私が継ぐの?と思っていた少女が、その崇高な行為に目覚めていく過程を静謐なタッチで描いた作品なのである。
今作の、スピリチュアルな雰囲気も愉しみたい作品でもある。>
『誰の心が怖いの?どの男が怖いの?』
少女の前で先生が
『進歩は近代化の推進。人間は進歩のおかげで幸福に見える。しかし、物資と精神が時を併せて発展した時だけである』
まさか、ヨシフ・スターリンの言葉?
兄弟は男3人と末娘。
一人がキリスト教東方正教会でイスラム教(若しくはユダヤ教)で先生は唯物論者。そして、老人は火を扱う宗教つまり、ゾロアスター教!まさかね。
叙情的でタルコフスキーを彷彿させる綺麗な映像だと僕も感じる。しかし、
ヨシフ・スターリンの故郷のお話。言うまでもなく、ソ連時代に彼は『ホロドモール』と言うウクライナ飢饉を引き起こし、ユダヤ系のボリシェヴィキを粛清した独裁者と解釈されている。
つまり、この地は常に争いの絶えない多民族の交差点の様な国である。
それをうまく表現していると感じた。
因みに、宗教的には争いのない国で、信教の自由をかかげた民主的な国である。勿論、隣国とは争いが絶えないが。
我が親父はヘラブナ釣りの名人だが、親父曰く『魚は素手で触るな!火傷して寿命が縮まる!』
ウユニ湖?
ジョージア映画で観る、今や失った世界
黒海の東の国ジョージア(グルジア)の映画は、いつも美しく、静かで、素朴な人間関係が物悲しい叙情を生む。
過去に観たどの映画もそうだが、今回は泉と少女が主役だけに、その世界は一層非現実的、まさに山深い中世世界はこんな処と思わせる場面が続く。
しかし、内容は過酷だ。
明治以降の近代化と称してあらゆる利便を我がものとしたと同時に、その喪ったものの大きさに、今や呆然として悲しむ我々の姿が、この映画では隠喩だが克明に描かれる。
静謐なもの悲しい話
静謐な映像の中に、絵画が浮かんでくる。「真珠の耳飾りの少女」「雪中の狩人」「カード遊びをする人々」、映像の美しさは、息を呑むが、撮影技法は、やや凝り過ぎ。ストーリーは、多面性を持ちつつも、単純。因習的に、聖なる泉に囚われている少女は、その地から逃れることが可能かと思わせるエピソードもあったが、その可能性は消え去る。ダム工事の進展に連れて、川の水が白く濁り、その聖なる泉の水は、枯れて、少女に人生のやり直しが出来れば良いのだが、彼女には、多分、その容姿以外に、何も残っていない。
もっと、ジョージアという国がわかる作品なのかと思ったのですが…
予告でみた、幻想的なシーンが気になって鑑賞。
(最近、よくこのパターンで観る映画を決めている気がします…)
だったのですが、幻想的と思えたのは最後のシーンくらい。
湖。
映り込む背後の山々
そしてヒロインの姿
最後はいい感じで終わりました。
冒頭
死んでいるのかと思えた村人が、泉の水によって息を吹き返す場面
呪術をあやつる家に生まれた娘の不思議な話なのかと思ったのですが、
秘密の源、泉の水は枯れつつあったり
娘の兄3人はすでに村を逃げ出していたり
途中からは
いつの時代の話なのかな
とか
日本の田舎の言い伝えにもありそう
とか
そんなことを思って観てました。
土木工事現場や町の描写があるのですが
現代風の映像になるたび現実に引き戻されるような感じがして
それが残念な感じでした。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
聖き水を愛した少女
黒海に面したジョージア(グルジア〉に住むナーメ。俗世と切り離された神秘的な村で、火・風・土そして水の精霊に見守られながら暮らしている彼女。神が宿った大きな沼の水を信じ、ある男性の怪我を負った部分に「聖なる水」を丹念に塗り込んでいる。
村人がその沼の静寂や因習の守れているようで、実に神秘的である。ナーメが真っ白い魚を盥に水を張り飼っている。作品が非常に静かに淡々と流れていく。後半、その白い魚が盥のなかでグルグル泳ぎ回る。世界の流れと隔絶された社会が、ナーメと父親の日常を美しく描いている。ラストは、霧の中へナーメ消えていく場面は、保ち続けた環境の消えゆく様を描いている。
最後は、神秘的な沼さえ消えて行ってしまう所は、監督の環境への細やかな訴えに感じた。
グルジアの幽玄な自然と静寂に圧倒される
ジョージア(グルジア)のトルコにほど近い南西部の小さな村。霧に包まれた森や湖、その神秘的な美しさと静寂が幽玄な世界に導く。
「癒しの手」を持ち、人の傷を癒す聖なる泉を守る父とその娘ナメ。父はナメに後を継ぐことを望んだ。三人の兄は、キリスト教の牧師、イスラム教の聖職者、無神論の教職者となり、父の後を継ぐことはなかった。
ナメは恋をして普通に生きることを願った。そして村の近くでは発電所の建設が始まり、泉に異変が起ころうとしていた。
古くから受け継がれてきたグルジアの自然や文化への憧憬と、それを侵さんとする文明の接近を言葉少なに映像で語る逸品であった。
映像がきれいで音がきれい
山村の風景がきれいで、環境音が良かったです。川の流れる音や雨の水滴の音、魚を洗う水音、近くの工場の音。親子の対立では、口汚く罵り合ったりはせず、静かな話し合い。パンフレットで静謐という言葉が使われていますがまさにそれといった感じで、個人的にとても気に入ったので星5です。
伝統の儀式を残したい父と自由に普通に暮らしたい子の対立は、答えが出ないまま外的要因によって静かに終わりを迎えてしまいます。
自分はチラシに書かれていたような今日の物質文明に対する意義などは特に感じず、また喜怒哀楽や善悪なども感じず、諸行無常の理を感じ、ある物事の終わりを見届けたという厳粛な気分で映画を見終わりました。
45分の短編映画であれば佳作
古くから続く信仰の終焉。すぐそこに迫る環境破壊。
必ずしも個々のシーンの内容を理解できたわけではなかったが、テーマは分かる気がする。
だが、例えば、父親が椅子に座るシーンを長々と映すのが、“映画”なのか?
45分の短編映画であれば、印象深い佳作だったろう。
しかし、どうでもいい映像によって、かなり希釈されてしまっている。
そもそも、映像で何かを遠回しに暗示したり、注意深い鑑賞者のみが意味をキャッチできるような映像の出し方は、自分の好みではない。
映像の形でしか表現できないものは別だが、平凡な話を深遠に見せかけているだけだと思う。
最後のシーンは、キリストのように水面を歩く奇跡だったのだろうか?
それすらよく分からないくらい、良くも悪くも、しっとりした空気感を最優先したシネポエムであった。
人間ドラマとしても、掘り下げが浅い。
泉を守る父娘でさえ、街へパンを買いに行き、車に乗って移動する生活とは無縁ではない。
公式サイトにあるような、「今日の物質文明に異議を投げかける」のならば、父娘の生活の全体像をリアルに示してこそ、真の問題に触れたことになるのではないだろうか?
一方、この映画が、非現実的な“おとぎ話”の、美しい映像化に過ぎないとすれば、自分としては観に行って失敗だった。
自らの内在的な要因から魔力を失う巫女の話なのか、環境破壊という外在的要因で涸れる泉の巫女の話なのか、はたまたその両方なのか? 茫洋としており、自分にはよく分からない映画であった。
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