劇場公開日 2018年10月6日

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「グローバル化ーこの映画は日本にたくさんいる子の心の代弁。」僕の帰る場所 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5グローバル化ーこの映画は日本にたくさんいる子の心の代弁。

2019年9月28日
PCから投稿

泣ける

萌える

長男ーカウン君ーの、物静かで、いろいろなことを訴える瞳が忘れられなくなる。

帰国子女の逆版。
二つの祖国。自分はどこに根差すのか。
産まれてから/もの心ついてからずっと染みついた文化。
自分のルーツの文化。

大人なら自分で選択していけるが、子どもはただ受け入れるしかない。
この映画の子どもたちは特殊なケースに見えるかもしれないが、東京都の幾つかの区では、クラスに数人、日本人以外のルーツを持つ子や、帰国子女は当たり前で、とてもとても身近な問題。(映画での、長男の友達も普通に長男を受け入れている)

UNHCR WILL2LIVE映画祭2019にて鑑賞。
映画の上映後、監督の話も伺えた。

あえて、”難民の〇〇”さんというレッテルではなく、日本に暮らすあるミャンマー人家族の風景として撮影したそうだ。
 だからか、彼らがなぜ自分を難民とみなしているのかが、伝わってこない。
 単に、日本で暮らしたい/育てたい/教育を受けさせたいだけじゃないかなんて思ってしまう。ミャンマーでダメなら、日本で、日本でダメなら、ミャンマーでと動いているだけのようにみえ、申し訳ないが、親の都合に子どもが振り回されているように見えてしまう。だから余計に、二人の子どもの心の叫びに身が引き裂かれる思いがする。

とはいえ、このように撮ってくださったからこそ、日本で暮らす、日本以外のルーツを持つ方々の子どもーダブルと言われる子も含むーや、帰国子女たちを思い出して、胸が痛くなってしまった。

不法入国労働者。
 彼らは自分の国で稼げないから日本に来る。けれど、彼らを必要としているのは日本だったりもする。いわゆる4K・5Kと言われる労働現場。失業率が0%でないのにも関わらず、後継者・労働者不足で閉鎖せざるを得ない零細企業。労災を産む、もしくは生み出しかねないような労働環境を整えられないくらいのギリギリの経営を強いられている下請け。そんな経営者にとっては、まじめに働き続ける外国人労働者は救いの手なのだ。
 不法入国労働者というと、すぐに犯罪というイメージが刷り込まれているけれど、それはマスコミ等の取り上げ方のせい。多くは、警察に目をつけられたら強制送還になるから、ひたすら目立たぬように地味な生活をしている。幼子を公園で遊ばせている時に、警察に捕まったら、家族離散になるからと、家の中だけで子育てしていた家族に出会ったこともある。3歳だという子の体格は1歳くらいしかなかった。救いは、ネグレクトされた子とは違い、愛着・精神発達の点では問題がなかったこと。

不法以外の人々も来る。
 すでに日本に定住している人を頼って、送り込まれる子ども達。日本で質の良い教育を受けさせるためだ。勿論、大学等は、もっとスッテップアップできる異国の機関を狙っている。子が望んでくるのならいいのだが、本人は国で親や友達と成長したいのに、親の意思で送りこまれる。受け入れる家族が、その子のために配慮できるならいいが、『シンデレラか落窪物語か?』という生活を強いられている子もいた。ディズニーランドに行くなら、その子も連れて行ってやれよと怒ったこともある。そこまでひどくなくとも、一族の期待を背負わされて、どれだけのプレッシャーなのだろうか。
 家族で来て、友人ともうまくいったケースでも問題が出る。宗教や親の考え方で、遠足や給食・部活・TV番組・コンサート等、友人と同じ活動ができないで、泣いている子も多い。
 親の都合・考え方で、あっちの国とこっちの国を行ったり来たり。自分がどこにアイデンティティを持っていいのか混乱して、引きこもりとなる子もいる。
 日本で叱られれば、あっちの国で暮らすからといい、あちらでうまくいかなければ、日本で暮らすからといい、努力しない子もいる。
 国・文化によって、認められるポイントや制度が違うから、どう頑張っていいのか混乱してしまい、最終的に努力する気がなくなる子もいる。

安定した生活・安定しかつ高度な教育を求め、ステップアップすることを望むことの、何が悪いのだろう。詐欺のような手法で誰かを食い物にしてのし上がろうとするのではない限り。
 悪いのは、自国でそれが叶わないこと。
 そして、相田みつを氏の「奪い合えば足りぬ。分けあれば余る」が頭をよぎる。

勿論、うまく適応している子もいる。
 留学の最大の長所は、世界各国に友達ができること。留学した先の人々だけでなく、その留学先に集まった人々とも友達になれる。そんな縁が平和に繋がるのだとしたら、日本人が世界に出ることを推奨する前に、今日本にいる外国籍の方々を大切にしなくちゃいけないだろうに。

言葉。それはコミュニケーション・意思疎通を助けるもの。
と同時に、文化の継承。
そして、考えを深めるためのツール。
 早期からのバイリンガルで、思索を深める手段を失ってしまった人たちもいる。
 この映画の母と子も、言葉が通じなくとも、気持ちは通じている。
 途中で映画に現れるディズコミニュケーションは、実は言葉の問題ではない。
 母の「こうあってほしい」と、子の「こうあってほしい/こうしたい」のぶつかり合い。それは、同じ言葉を話していても起こりうること。
 伝えたいことと伝えたいという思いと、理解したいという努力があれば、ボディランゲージだってなんだって伝わるんだ。母が怒っていること、嬉しがっていること、調子が悪いこと、良くなってきたことは、母をみている長男には全部わかっている。反対に、心配に押しつぶされて、子の心の動きを見なくなった母には自分の心配しか見えていない。

そんな一般家庭でも行われているような自然な交流がドキュメントのように紡ぎだされる。
 母と長男・次男は本当の親子だそうだ。そして、実際の撮影の1か月前から父役と家族として接してもらっていたそうだ。次男以外には”演技”をしてもらったが、次男には、映画として欲しい言動が起こるようなシチュエーションを作って、次男の反応を待って撮ったという。「演技ということを理解できない年齢だった次男役のテッ君に悪いことをしてしまった」とおっしゃっていた監督の、彼らを見つめる優しさが、そのまま映画の雰囲気となっている。
 初めて演技する出演者が、やりやすいように設定を工夫したとはいえ、父を演じたアイセ氏も、母を演じたケインさんも、初めての演技とは思えぬ姿に引き込まれる。
 そして、何よりも、長男を演じたカウン君。何もかも初めての中で、その時々に起きる出来事に、大きな目を見開いて、一生懸命、自分なりのやり方で対応しようとする姿が心に残る。

 異国の地、というだけでなく、同じ県内でも”転校”せざるを得ない子ども達。
 抑うつ状態の親を持つ子ども達。
 離婚や単身赴任等、家族が別れ別れになってしまった子ども達。
 家族や友達、保育士や教員他、慣れた場所とか、やり方がわかるということも含めて、子どもを取り巻く環境を考える上でも、カウン君のような経験をする子どもが見せる表情・サインを受け取れる大人でいたいと思った。

とみいじょん