わたしは、幸福(フェリシテ) : 映画評論・批評
2017年12月5日更新
2017年12月16日よりヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
昼と夜、闘いと諦め、生と死ーー理屈でなく響き合うものたちのグルーブ
セネガル系フランス人アラン・ゴミス監督の快作「わたしは、幸福」は、予定調和の物語の関節をぽき、ぽきっと小気味よく外していく。こうなるだろうと予期したことが必ずしもそうはならずに進む。といってどんでん返しをあざとくつきつけるわけでもない。アフリカはコンゴ民主共和国、首都キンシャサのナイトクラブで歌うシングルマザー、フェリシテ(=幸福)の歌と同調するように、日々の闘いと諦めとが融け合う所にふつふつとわき上がるゆったりと深い波動にも似た生の力、それこそを物語を超えた物語としてみせる。
ある朝、クラブの常連の女たらし、タブーがフェリシテの家の冷蔵庫を直しにやってくる。そこに息子が事故にあったと電話が入る。なんとしても手術をと、なりふり構わず金策に走るヒロインの姿は「サンドラの週末」や「ローサは密告された」を思わせもする。クラブの仲間がフェリシテのためにカンパする。心温まる小さな挿話はしかし、葬式なら金を出すが、助かりもしない者のためにはなどと渋るひとりの声も拾ってちくりと棘をさす。簡単に“団結”の物語を紡ごうとはしない。タブーとフェリシテの関係にしても男と女のありふれた物語に収まりそうで収まりきらない。息子をめぐる彼と彼女の位置も微妙に予想/紋切型を外れていく。それが秩序破りの嵐のようには語られず、むしろぽっかりとした平穏が彼らを包んでいくのがスリリングだ。
プレス所収のインタビューで監督は映画のヒントとしてメーテルリンクの「青い鳥」をあげ、「魂が転生を待っている感覚」をおとぎ話(メルヘン)とフェリシテの物語が分かち合うと示唆している。そんな監督の世界はエンディングで引かれる詩「夜の讃歌」の作者、ドイツロマン派詩人ノヴァーリスのこんな言葉と共振してもいるだろう。
「メルヘンとはそもそも夢の像のようなもので――脈絡がない」「メルヘンに見られるのは、自然の真のアナーキー状態である」
ゴミスの映画はほとんど唐突にフェリシテの夢――コンゴの夜の森を描き、昼のストリートのリアルと対置する。フェリシテとカサイ・オールスターズのゆる熱いサウンドの対極にアマチュア楽団の清澄な響きが並置される。あるいは昼と夜、闘いと諦め、生と死ーー理屈でなく響き合うものたちのグルーブ! アナーキーに融けあい支え合う物語の在り方。その幸福を映画はみごとに射抜いている。
(川口敦子)