「あるがままの二人に、名前は要らない」シェイプ・オブ・ウォーター REXさんの映画レビュー(感想・評価)
あるがままの二人に、名前は要らない
デルトロ監督の映画には、湿り気というものがある。
パンズ・ラビリンスにも、ミミックにも、そしてこのシェイプ・オブ・ウォーターも。
イライザの肌、バスタブに注がれるお湯、かき混ぜる指、茹で卵の煮沸している水、さらに踏み込んで自慰にふけたり性交するときの分泌液まで想起させる。
そういった生々しさを生理的に嫌悪する人もいるかもしれない。
でも私は、純愛ものでボカしがちな女性の性欲を生々しく描くことで、ある意味男性と対等な存在に引き上げた監督に敬意を抱いた。
また、何となく健常者が身体障害者に対して抱くイメージが「聖者のようにクリーン」であることが多いように思う。
パラリンピックなどのイメージがあるためだろうか。彼らの純粋な部分ばかりが前面に押し出されてしまい、性欲など超越しているかのような、はた迷惑な固定概念の押し付けをしている気がするのである(乙武さんの不倫騒動があったとき、世間が過剰に反応したのはそういう理由かも)
冒頭でイライザが自慰にふける場面をいれることで、それらの固定概念やステレオタイプのイメージをぶっ壊し、「あるがまま」の女性を描いたことは特筆すべきだろう。
イライザが半魚人に抱く気持ちを、とうとうと手話で説く胸を打つシーンがある。
彼女はあるがままを見てくれる彼が、かけがえのない存在だと訴える。
そこで気がついた。
イライザは、彼に名前を付けないのである。名前をつけるということは相手を自分のイメージに縛りつけることでもあり、何者であるかを制限することでもある。そして、あなたは私のモノだと宣言することでもある。
でもイライザは彼に名前を付けないのである。二人の関係には「私とあなた」しかなく、二人はまさしくどのコミュニティにも属していない「あるがまま」の存在なのである。これ以上の純粋な関係はあるだろうか。
この映画には偏見と差別が渦巻いている。
イライザを取り巻く親しい人々はみなマイノリティ。隣人ジャイルズはダイナーの若者に恋をする初老のゲイで、ふられた挙げ句相手は生粋の差別主義者であったし、友人ゼルダは黒人であることで会社で差別発言を受ける。
しかし二人はイライザに対して痛々しいほど誠実であろうとするし、真摯的である。
対して、ゲスの極み、ストリックランドという白人男の存在。
妻との性交のときに口を押さえる仕草は、弱き者の意見を塞ぐという独裁者への皮肉なのだろうか。
イライザらがせっかく掃除したばかりのトイレで小便を撒き散らし、手を二回洗うのは軟弱な男という持論を振りかざし、出世欲に取り憑かれ、独りよがりでマゾ。本当にゲスい。
人間性という点では、マイノリティ側の方がよほど優れている。人種や偏見にとらわれず、人間のあるがままを見よう、というメッセージかここでも込められている気がする。
最後、ストリックランドが引き裂かれた喉は、失われた声のイライザの痛み。そしてイライザの傷は「彼」の力で生きるすべとなる。彼女の傷はこのためにあったのかと、みごとな布石にため息がでた。
傷つけられた人々はそれを糧にして、立ち上がる強さを持っているぞ、というデルトロ流の人間賛歌なのかもしれない。
卵や緑などの隠喩、米ソ冷戦とミュージカル黄金期の光と影、デルトロ監督が敬愛する怪物映画へのオマージュ、様々な要素で成り立つ多重構造。
そして、クリーチャーと人間との純愛というリスキーな物語を、上品かつ生命力溢れる映画に仕立てた手腕に脱帽。
展開はわかりやすいが、賞を取るのもうなずける。