博士と狂人のレビュー・感想・評価
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どこかちぐはぐ。 まあ実話だからねえ。
なんかスッキリしなかった。
まあ実話は都合よく綺麗に進まないよね。
狂人のあの部分からしばらく早送りした。だからちゃんとは観れていません。
すいません。。
でも多分ちゃんと観ても評価変わらないと思う。。
圧巻のショーン・ペン、贖罪と狂人
事実は小説より奇なり、そんなありきたりな言葉がこれほどしっくりくる物語はそうない。特異な人物像に説得力を持たせたショーン・ペンの演技に見入ってしまった。
ベースとなる事実だけでもインパクトがある。オックスフォード英語辞典(OED)の編纂にあたり用例を公募していたこと。貧困で進学出来なかった身からOEDの編集主幹就任にまで至ったマレー博士や、精神病院の中から大量の的確な用例カードを送り続けたマイナーの学究の徒としての執念。彼らをはじめとした関係者の尽力をもってしても立案から完成まで約70年を要したOEDの情報量など。
そして、辞典編纂の過程と並行して描かれるマイナーの心のドラマはまるで荒海のようだった。南北戦争従軍がきっかけで心を病み、アイルランド人に狙われる妄想から無関係な男性を殺してしまう。入院後のマレー博士との邂逅、未亡人とのやり取りを経ながら、常に狂気と贖罪意識を抱えて揺れ続ける。後半、この二つが重なって強烈に発露し、物語が大きく転回するのだが、マイナーの精神の振れ幅に置いてきぼりを食らわず、心の動きを感じ取りながら観ることが出来た。脚本のよさとショーン・ペンの力量だろう。
贖罪から解放されることの難しさを考えさせられた。そして「博士」と「狂人」とは?
辞典編纂への貢献を考えると、マレー博士から見ればマイナーこそ博士の称号を与えたい存在だっただろう。また、狂人という言葉は精神を病んだマイナーだけを指すのか?別の観点で狂人の呼称に値する人間が他にもいたように思えてならない。
この作品のフライヤーに「博士」と「狂人」を表すアンビグラム(逆さから見ると違う文字に読めるグラフィック)が描かれているのを見て、余計その思いが強くなった。
言葉をもっと大切にしなければ、と諭される思い
コンピュータもデータベースもない19世紀、膨大な用例を集めるのは途方もないマンパワーを要する難事業であったことは容易に想像がつく。メル・ギブソンが演じたマレー博士は単に語学の天才だっただけでなく、広くボランティアを募って用例収集に協力してもらうという、IT時代の分散コンピューティングを先取りしたような独創的な発想の持ち主でもあった。
殺人を犯した“狂人”マイナーを演じたショーン・ペンは、前半は演技過剰に感じたが、マイナーに夫を殺されたイライザ(ナタリー・ドーマーが憎しみから愛情へ揺らぐ心情を好演)と関わるあたりから持ち味を活かせた印象。彼女が子供たちをマイナーと面会させた時の、長女が取った行動には胸を締めつけられた。マイナーによる「言葉の翼があれば世界の果てまで行ける」は名言で、言葉の力と可能性を端的に示している。精神病院の警備員に扮するエディ・マーサンも人間味を感じさせる名脇役だった。
辞書作りを意識しすぎてしまいました...
辞書作りってどうやって完成するんだろう・・全部の言葉の意味を入れるわけでしょ? 大変な作業なんだろうなぁ。それだけの理由でこの映画を観ることにしましたので何の予備知識もありません。
前半は、囚人ショーン・ペン(狂人)と辞書作りに励むメル・ギブソン(博士)がどう繋がっていくのか気にしてただけで特筆することは無し。。。
50分前。生活のため止む無くショーン・ペンに会うナタリー・ドーマー。この辺りから何となく繋がっていく流れではあったけど、基本的に博士と狂人を交互に映す演出のため、これはラストになるまで2大スターは会わないのかな、そんなこと考えていた。
会うようになってからは、何やら単語を言い合ってて楽しそう。目標があると苦痛も楽しみに変わる瞬間に見えた。
「A.B」だけで1冊の分厚い辞書の出来上がり!一体「Z」まで進んだら何冊になるんだ!?
(最後の説明部でわかるけど)
何が気に食わんのか「お偉いさん」達の企み、そしてショーン・ペンの苦悩ぶりなど見所はあるんですが、個人的にはどうやって辞書が完成するのかばかりに気にしてしまい、他の話は退屈になってしまいました。
全体的にはヒューマン系の良き話とは思います。
信念をもって
今まで聞いたことがない言語名がたくさんマレー博士の口から出た時、
お二人が、謎かけのように言葉を掛け合わせていた時、
だけでこの作品を観て良かったと感じました。
言葉については真剣勝負のようなお二人の鬼気迫る想いが伝わって来てそれがマレー夫人の気持ちも納得させたのかと。
未亡人との事は、フィクションだけれど、知らなかった文字を使い気持ちを表せる迄になった過程を通してこの作品のテーマである辞典作りの意義を表すためだと受け取りました。
フレディ、マンシー、チャーチル内務大臣など味方にも恵まれていて良かった。
(一度決めたら)迷いと恐れを捨て信念を持ってやり遂げる。
この上なき勤勉な人生を
私も座右の銘とすべく頑張りたいです。
重厚?暗い?
好きな人は重厚と言い、嫌いな人は暗いという映画です。
軍医が唐突に辞典作成に参加するところは、もう少し説明してほしい。
全般的に、陰鬱で暗くドラマチック不足なので、「映画から学びたい」的な人以外には少し退屈です。
ただ、ペン選手の絶倫演技は圧倒的です。ギブゾンの旦那を完全に喰いました。
まあ、どの映画でも喰いまくってますけど。
言葉を綴る終わりなき旅!
イギリスで英語大辞典を作るまでの2人の男性が織り成す、70年の歳月をかけたストーリーでした。
辞典を作ると言う目的が無ければ、出逢い
関わることの無かったマレー博士と元軍医だったマイナー。
苦痛の表情に歪む人間の写真の数々!
夫を亡くした女性の深い悲しみ。
トラウマがありながら時間をかけて赦し
マイナーに歩み寄っていく姿。
人間としての理性を失わずにいた場面は
セラピーで心が癒やされていく気持ちになりました。
2人の男性の旅は今も続いている、
尊大な作品でした。
補足、ナタリー・ドーマーを初めて見ましたが男性を支える瑞々しい演技でした。
OED編纂の実話
ありとあらゆる英単語の辞書を作るという壮大な構想を実現するために、70年という歳月をかける必要があるというのもすでにすごい話だけど、それ以上にそこに参加した人々の驚くべき話しがこの映画である。
辞書編纂のボランティアとして語釈を送り続けていた人物が実は犯罪者であり精神病患者という、まさに事実は小説よりも奇なり、である。
実話としてすでに面白いので、映画として面白いかはまた別だけど、描かれ方やショーンペンとメルギブソンの名演が光るので、おもしろく見れた。
ただ、エンタメとしての面白さはちょっと薄めで、ラストは尻すぼみ感があったかな。
友情と愛
辞書の編纂という途方もない作業とそれを完成させるためのお話かと思ったら、全くちがいました。
辞書の編纂に関わるところから、友情が育まれその友情と博士と妻、狂人と未亡人の愛が主題だなと感じました。
実話ということもあり、重みもあり音楽もストーリーに合っていたのが印象的です。
終盤の展開がかなり端折られており、もっと何がどうして大臣まで出てきたのかの説明が欲しかった。
英国舟を編む
70年もかけての辞書づくり、気が遠くなるような物語というか、実話でした。正規の専門家チームが長い間取り組んでいてもできなかったことを学士号をもたない独学の言語学者マレー(メル・ギブソン)が率いて成し遂げるまでの意外な真実。マレー博士が自分の学んだ言語を列挙するシーンに圧倒されました。台詞を覚えるだけでも大変そう!(汗;)。マレー博士とマイナー博士(ショーン・ペン)の友情を主軸に描かれますが、正直、どっちも博士でどっちも狂人みたいでした(笑)。殺人者と被害者との関係も丁寧に描かれますが、あそこまでいけるものなのか個人的には共感しづらかったです。
世界最高の辞書(オックスフォード英語大辞典)OEDの誕生秘話。
感動したと言うより、(知識)が多少増える映画でした。
そういう知的好奇心の旺盛なかた向きの映画でした。
まず、OED(オックスフォード英語大辞典)が編纂された目的ですが、
ヴィクトリア王朝時代(1837年〜1901年)の英国はなんと世界の4分の1を支配していたのです。
だから植民地を統治するための指針として「共通の言語」が必要だった訳です。
キャスティングも実力派の渋い俳優揃いです。
違うキャストと別のアプローチならもう少し面白くなったのではとも考えます。
もともとが辞書作り(オックスフォード英語大辞典)を膨大な年月をかけて編纂する・・
はじめから地味なのですが、そこに殺人犯で心を病んだ男マイナー(ショーン・ペン)が、
ボランティアとして協力したことから起こる、横やりと軋轢が最大の見せ場になります。
マイナーの心の闇も19世紀にこんなに複雑な心の男がいたのかと興味深かった。
オックスフォード英語大辞典(OED)は41万語を収録する世界最高峰の辞書です。
大学も出ずに独学で20カ国語を操る男・ジェームズ・マレーをメル・ギブソン。
辞書作りに膨大な資料を送って来る男マイナーが殺人犯でしかも狂人とは?
原作はノンフィクションのベストセラー。
「博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話」
(サイモン・ウィンチェスター著)
メル・ギブソンはマレー博士の落ち着いた嘘のない重厚な人物像を熱演。
対してショーン・ペンは自分の犯した罪の重さに押し潰され、そしてまた
被害者の妻を愛することで、自らを傷付けてしまう(ここは、ショッキングです)
やはり狂人役がこんなに似合う人は他にいないかも知れません。
オックスフォードの美しい景色や書籍が山積みの部屋。
そして何よりマレー博士亡き後も続けられて70年掛かって完成された(1928年)
「オックスフォード英語大辞典」こそが主役の映画でした。
しかしOEDのどこがそんなに重要で凄いのか?
あまり伝わってこなかった。
ネットの情報は360度に渡って多方向に検索できますね。
その情報を正しく選ぶことこそが難しい。
そう言える現代社会です。
「オックスフォード英語大辞典(OED)」より引用と書けば、
その語彙の情報の正確さにお墨付きが与えられる・・・
そんな価値があるのかも知れません。
・・・辞書は言葉の海を渡る舟・・・
目的はこの映画の《OED》も「舟を編む」の辞書《大渡海》と同じ。
しかし「舟を編む」程の、若く魅力的な人物が生き生き動くような感動には
至らなかったと言うのが本音です。
(私には難しすぎた?!)
過去鑑賞
オックスフォード英語辞典編纂の裏にあった実話。 重厚感があり、今ま...
オックスフォード英語辞典編纂の裏にあった実話。
重厚感があり、今までのイメージとは違うメル・ギブソンとショーン・ペン。2人熱演、良かったです。
マレーとマイナー、どちらもある意味狂人。だからこそ何か合うものがあったんだろう。
なんかおもしろくなかった、
レビューの評価は高めだけど、自分には話がちょっと複雑なような、わかんないような、おもしろみがそうなくて、、、見るのがちょっとつらくはなってきた。
ただ辞書を作っていくというよりは、ストーリーはわかるけど、わけわかんないシーンも多くて、話や登場人物がもうちょっとシンプルというかわかりやすかったら楽しめたかな、と。
純粋に、シンプルに辞書作りの話だったらまだわかりやすくよかったのに。
生き物としての言葉
青春映画の傑作から不良の象徴に今やオスカー俳優として演技派になったショーン・ペンと娯楽作でアクションスターとしてのイメージが強いメル・ギブソンは監督としてオスカーを手に入れた、そんな二人の初共演作。
互いに80年代から活動しながらも役者としてジャンル違いの相容れない関係性のようで、この二人の共演は個人的に衝撃的な出来事でありながら00年代位?から意外性のある共演は多々あるココ最近!?
にしても地味なテーマと映画としてのLookが一昔前のオスカー狙い的な要素にも思われ、実際の感想も小難しいイメージから物語の展開はテンポ良く分かりやすく進む反面、単純さは否めなくショーン・ペンに話の主軸が傾き過ぎで主人公としてメル・ギブソンの存在が徐々に霞んでしまい、作品全体がテーマから逸れてしまっている気もしてならない??
メル・ギブソンとショーン・ペンの監督としての手腕があるからこそ、本作の監督は残念ながら不甲斐無い。
『舟を編む』イギリス版
どこの国の言語であっても辞書編纂作業は似たようなものなんですね。殺人を犯した人間だって編集に参加するなんてのも素晴らしい話だ。日本なんて私立探偵が辞書の編集者やってますもんね・・・金田一耕助・・・ちょっと違うか。
ようやく完成したかと思ったらAからBまで・・・凄い量だよ、さすが英語!当時は世界の4分の1を支配していたというから、どんどん新しい言葉が生まれてくる。16世紀から17世紀までの単語が足りないとか、ちょっと考えられないくらいの膨大さ。また、古語にもこだわる辺りがすごいわぁ。
新しい言葉がどんどん生まれて、単語そのものも意味もどんどん変化する。「問題な日本語」なんてのも流行ったけど、インターネットの普及によってさらに新語が誕生している。その変化を許容するのもいいけど、雰囲気を「ふいんき」と読むのは許しがたい。何が嫌いかといって、語感が日本語っぽくないからだ。ウインクとかポリンキーとかオインゴボインゴみたいな感じがする。まぁ、使いやすい若者言葉もいっぱいあるけどね。
ショーン・ペンの過剰なまでの演技は震えがくるほどだったけど、イザベラがそこまで赦しから愛情に変化するもんかね。まぁ、似たような話は多いし、理解もできるけど、長女の反応を見てると、胸が苦しくなってくる。全体的にはもうちょっと地道な作業をメインにして貰いたかったし、政治的な部分は不要だと思いました。
まぁ、そうですね
実話ベースってことでとても含蓄のある作品だったと思う。
ショーン・ペンの演技が特に秀逸。
十分に面白いし見る価値があるとは思うんだけど
なんだか心に残るものはそんなになかった。
辞書をつくるってすごいことだとは思うけど。
はくらんきょうき
原作はイギリスの作家、サイモン・ウィンチェスターの1998年の著作「博士と狂人:世界最高の辞書オックスフォード英語辞典の誕生秘話」。
で、ウィンチェスターのウィキペディアに、以下の一文を見つけた。
『1998年にメル・ギブソンがこの作品の映画化権を買い取り、20数年を経て映画化された。』
(サイモン・ウィンチェスターのウィキペディアより)
1998年といえば、まだギブソンはリーサルウェポン(の4つ目)をやっていた。
なんか、すごく打たれた。ほんものの映画人は、小説に感銘をうけると、いつか映画化することを夢見て、買い取る。そして何年かかっても、ほんとに映画化する。
映画の能書きに「構想ウン年」が安易に使われることがあるが、野望も宿心もない奴が、使っちゃいけない。つくづくそう思った。
英語辞書の編纂(へんさん)の話。
へんさんを調べたら『いろいろの原稿や材料を集めて整理し、書物の内容をつくりあげること。編集。』とあった。
映画では「引用」探しが描かれている。
引用=そのことばが使われている文献をさがす作業。それも世紀毎の文献をさがして、意味の変遷もしらべあげる。
マレー博士(ギブソン)はそれを一般から公募するが、容易に集まらない。しかも編纂人は博士をふくめ数人しかいない。
ところで、じぶんは、いままで映画レビューをしてきたが、そのなかで、ひんぱんにウィキペディアから引用してきた。
このレビューでもやっている。
ウィキペディアだとパッと3秒でその言葉にたどりつく。
パッと3秒でコピペできる。(当然ウィキからの引用であることは明記しています。)
ウィキを使うと、なんも知らなくても、なんか、いっちょまえに、わかっているような体裁のレビューができる。ウィキペディアさまさま、である。
が、1870年代。ウィキペディアなんかなかった。インターネットもなかった。
紙媒体である書物からの引用は、博覧強記のなせるわざである。広く厖大な読書量。──だけでなく「この言葉はあの小説のあそこで使われていたぞ!」という記憶と閃き(ひらめき)の為せるわざである。
その作業に意外な人物からの佑助を得る。
ギブソンは気負っていた。監督のFarhad Safinia(P.B. Shemran)はアポカリプト(2006)の共同執筆者である。監督は初で、おそらくギブソンは自分で演じながらも指図をだせる旧知にチェアマンを任せたかった──のだろう。
配役も本気。ショーンペン。Natalie Dormerと名優Eddie MarsanやSteve Coogan。
20年かけて揃えた布陣だった。
編纂作業には体制との攻防がある。
あわせてマイナー博士(ペン)の贖罪が描かれる。強迫性障害によって良人をころした彼は、未亡人を経済援助し許しも請うが、結局彼女に免罪されることが我慢できない。──許されることが許せない。
淡い岡惚れを畏れた彼はみずからを去勢し、自我をうしなう危険な荒治療にも承諾する。強烈な自己処罰感情。むずかしい役をこなしたのはショーンペンだったからこそ──だろう。
辞書は、どんどん新しくなる言葉とのせめぎ合いである。その描写が映画中にもある。Steve Cooganが演じた共同編集者が、マレー博士に、炊事場の若い下女たちの話し言葉を聞かせる場面だ。
むろん映画中は昔だから昔のことばだが、ひとびとの使う言葉が刻々と変わりゆくこと──は昔も今も、ずっと常につきまとう問題である。それを拾うのが辞書の役目だと、この映画は言っている。
じぶんは無教育な一般庶民だが、けっこう文を書くので、きらいな日本語がある。
たとえばらぬきがだいきらい。ばかにしかみえない。だけど、辞書となれば、個人嗜好を言ってられない。らぬきが一般化するなら、それも立派な新しい日本語とみなさなければならない。そうやって変わりゆく時代(時間)と闘いながら、AからZまで一語一語、やっていく──わけである。
その──完成までに70年かかった、気の遠くなるような作業の端緒をマナー/マイナーの両博士がやったんだ──と映画は伝えている。
(紙媒体の)辞書をひかなくなって、もうどれくらい経つだろう。
一生涯かかっても使わない言葉は山ほどあるだろうがじぶんなりにいろんな言葉を使って文を書きたいとは思う。
感慨深い映画だった。
2人とも博士であり狂人では?
オックスフォード英語大辞典の創刊に関わった2人の博士の物語。ノンフィクションの原作の映画化。70年の歳月をかけて制作したとのこと。お疲れ様でした。
狂人のマイナーに夫を殺されたイライザが、マイナーを憎んで、最初のうちはお金の援助も断っていたが、お腹を空かせた子供達のことを考え援助を受けることに。当然受けていいことだが、会いに行ったり、好意を抱くのは不自然な気もする。
局長の治療法はインチキくさいが、なんとか逃れることが出来てなにより!
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