劇場公開日 2018年5月25日

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「重いテーマに押しつぶされそうになる」友罪 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0重いテーマに押しつぶされそうになる

2024年7月4日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

難しい

社会に生きるすべての人に問うている作品
テーマは「贖罪」だろうか?
たくさんの登場人物がそれぞれの葛藤に苦しみながら、必死で答えを探そうとしている。
作品の中に登場する週刊誌 「世間の人が知りたがっている」ことを理由に、過去の事件の加害者の現在を嗅ぎまわっている。
YouTubeでも類似するものが度々ある。
元記者で工員の増田ジュンイチは、記者仲間だった杉本清美から17年前の事件の再調査の手伝いを依頼されるが、彼は清美に言う。
「青柳は幼少期の母の死によって、性的異常が発生した。男児殺害後の自慰行為も確認されている。破壊的衝動が彼を包むが、その欲望を抑え込みながら生きているのだろう。だから同じ心の空白を持つ者になら、彼のことが理解できるのではないか?」
そして清美に問う。
「もしも自分の恋人が殺人者だったらどうする?」
「私はそんな人を選んだりしない」
清美も枠の外の視点からしか事件を考えられない。
だから「彼のことを一番知りたいのはオレだ」と言った。
身近に見てきた鈴木が何を考えているのか知りたいと思ったのは、友だちだと思っていたからだ。
少なくとも清美に言われなければ、増田は鈴木が青柳かもしれないと追及しなかった。
しかし知った以上、増田は、大切な友達として、青柳とどのように向き合えばいいのかだけを模索していたのだ。これがこの作品の中心線だと思う。
彼と同等の心の空白は、増田にもあった。
それが中二で自殺した桜井学
彼と友達だった増田は、彼へのいじめが自分に降りかかることを恐れた。
そうしていじめに参加した。葬式ごっことみんなで書いた色紙に、自分も書いた。
それでも死ぬ前に掛かってきた電話
「もう限界だよ 死んだほうがいいのかな? どう思う? 君は僕が死んでもかまわない?」
「勝手にすれば」
増田が末期がんで死にかけている学の母の見舞いをしている。彼女はいつも彼を歓迎するが、彼の最後の告白を「聞きたくない」と拒否した。本当はわかっていたのだろう。でも一人息子にいた唯一の友達の裏切りの話は、最後まで聞きたくなかったのだ。
それさえできなかった増田
週刊誌によって暴露された青柳の写真 鈴木は、もう工場にいられなくなり去った。
増田は覚悟を決めた。
「どうしても来れなかったこの場所に来なければならなかった」
それは学が自殺した場所
そして、その時増田はようやく鈴木の気持ちに寄り添うことができた。
そして、鈴木がどこに行ったのかもわかったのだ。
「今度こそ死なせたくない友達がいるから 生きててほしい 友達だから」
青柳の2つ目の犯行現場
鈴木はそこで少年時代の自分の姿を見る。虫を追いかける姿。それは母が死んで間もない時。かつてそうだった自分を見つけ、ほほ笑み、涙し、そうだった自分自身を受け入れていくと、すぐそばには友達増田がいた。
この時二人はようやく同じ気持ちになれたのだろう。
自分自身の過去に向き合う。それができて初めて人は他人の気持ちに寄り添うことができるのだろう。
鈴木は殴られても蹴られても決してやり返したりしないのは、それがだめだと知っているから。
安全漫才のみやぞんさんが「怒るのをやめた」と言っていたのを思い出す。
彼は「怒りが何をするのかよ~く知っています」と言ったのとおなじ。
しかし、何故か世間はつも「過去」を取り上げようとする。
さて、
タクシードライバーの山内
彼の物語は世間一般の常識を描いている。息子が起こした交通事故 幼い3人の命 決して償えないこと。
山内が出した答えは、家族解散とそれによる苦しみを自分たちに与えること。
しかし息子が結婚することになる。どうしてもそれが許せないのは、山内自身が被害者家族に成り代わっているからだろう。
息子の妻に「私たちは幸せになってはいけないんですか?」と問われても、「家族を解散したのにまた家族を作ってどうする」と言い返す。
ここに日本の常識的な要素が詰め込まれている。
ちなみに、
交通遺児育英募金というボランティアを学生時代何度もしたが、遺児たちが住む寮で、誰かからもらったゴルフクラブでスイングをしていたら、見知らぬ通りすがりの人物が「君たちがなぜそんなことができるのか」とクレームを入れたことがあった。つまり「誰かの世話になっている奴はゴルフなんかしてんじゃねえ」ということだ。
これが日本社会の一般常識にこびりついているのだ。
作者が言いたかった重要なパートが山内の物語だ。
また、
藤沢ミヨコの物語
彼女は何かの夢でもあったのか、上京しバイトしながら生活していたが、時間だけが過ぎていくことに焦りを感じていた。そんな時声をかけてきたのがタクミ。
やがてAV出演させられ、心も体もボロボロになった。
それでもまだしつこく付きまとい、当時のビデオを関係者にばらまく行為をする。同時に実演レイプ動画まで撮影した。
そんな彼女にやさしく付き合う鈴木 マンションの呼び出しで喚くタクミの前に行きボコボコにされながら笑う。殺すことがどんなに容易いのか知る鈴木は、自らの頭を石で殴り流血しながら笑う。
タクミは鈴木の言動に付いて行けず去る。
手当をするミヨコ
キスのタイミング
でも鈴木は、しなかった。
それは性的遅延なのか?
おそらくミヨコには鈴木と心を共有するためのピースが足りていなかったのだろう。
少なくとも鈴木には「まだ」だったのだ。
夏帆さんではなく、客観的なミヨコを、果たしてどれだけの人が受け入れられるだろう?
そのような「閾値」は誰にでもある。
同時にミヨコにも受け入れられない「閾値」が存在する。
それが増田が清美に言った「もし自分の恋人が殺人者ならどうする?」だ。
週刊誌記事を見たミヨコは、東京を去った。
人を100%受け入れるとはどんなに難しいことだろう。
もしこれにチャレンジした時、例えば増田がこの事件と自分自身の告白を記事にしたら、それは、「世間の人々が知りたがっている」ものではないのだろうか?
そして、
少年院の疑似家族
これは少年の重罪には家族問題があると決められているような事項が存在する。
だから矯正施設では、疑似家族というものが作られ、一定期間重罪者の家族構成と同じ家族環境が作られる。そこで一般家庭を学ぶのだが、青柳には白石という母役がいた。
彼女の裸婦画は、青柳の心理描写だろう。それが彼の性への目覚めだったのかもしれない。
しかし彼女は仕事に忙しすぎ、娘のこともかまっていなかったことに気づかされる。
娘の中絶の日、突然病院からの電話、施設で起きた事件
「オレを見捨てるのか?」
騒ぐ受刑少年を無視して駆けつける。
家族以上の家族などない。それ以上に大切なものはない。
眠る娘に寄り添う彼女は、まぎれもない母親だ。
この作品は、
それぞれの物語がほんの少し交錯することで全体性を出している。
いなくなった猫は超えられなかった閾値の象徴
気を付けても気を付けても気を付けすぎることのない運転
贖罪とは罪の意識で、結局は自分自身の心の澱
そしてタイトルにはメインラインの友達と贖罪を意味しているのだろう。
内容の難しさよりも、増田が必至で友達を取り戻そうとする熱意は、喪失したもの以外わからないのだろうと思った。
逆に、それを取り戻そうとしない限り自分の枠のようなものが狭くなるように思った。
私自身人生の何に蓋を閉めているのか考えてしまう。

R41