「原作小説のメイはほとんど別人!」ザ・サークル 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
原作小説のメイはほとんど別人!
ハヤカワ文庫から刊行された原作小説を読んだ上で本作と比べると物語からキャラクター、結末までいろいろと違いがある。
ただ原作者のデイヴ・エガーズは普段から映画の脚本もこなす才人であり、本作の脚本にも参加しているので大幅な変更は納得づくなのだろう。
まずエマ・ワトソン演じる主役のメイベリン・レンナー・ホランド(メイ)は原作ではあまり好感の持てる人物ではない。
正直原作のままのメイをワトソンが演じてしまうと知的で清純な彼女のイメージを壊してしまいかなねい。
原作と本作との変更点を考えると、やはり『ハリー・ポッター』シリーズでハーマイオニーを演じたワトソンは欧米では数少ないアイドル女優なのかもしれないという想いを抱いた。
過去には『ウォールフラワー』で性に奔放な少女サムを演じたり、『ブリングリング』では犯罪者の役も演じていたが、大して過激な演技でなかったにもかかわらずそれほど話題にならず、やはり『美女と野獣』のヒロイン役に抜擢されるところがその証明ではないだろうか。
最近の出演作品の『スイス・アーミー・マン』で屁を推力にして水上を進む死体という美少年ハリーの面影を微塵も感じさせない役柄を演じたダニエル・ラドクリフとは天と地の差がある。
メイの元彼マーサーを本作では見た目が悪くないエラー・コルトレーンが演じているが、原作のマーサーは背は高いものの二重あごで肥っているし、性格も少し独善的でメイは終始彼を嫌い続けている。
なおコルトレーンは『6才のボクが、大人になるまで。』において、本当に6歳から18歳まで12年間をかけてフィクション映画の主役を演じている。
この作品は父親役のイーサン・ホークを含めた出演者全員が実際に12年間年齢を重ねていくのが観られるという不思議かつ希有な映画である。
また「トゥルーユー」の開発者としてサークル創設者の1人になり、メイにサークルの危険性を伝えるタイの役を本作では『スター・ウォーズ』新シリーズのフィン役のジョン・ボイエガが演じているが、原作では白人であり、メイとは肉体関係まで結んでいる。
本作でもタイはメイにサークルの地下を案内しているが、原作ではそこで1回、また透明化後にトイレで待ち合わせて1回、2人は性行為に及ぶ。
メイの親友アニーが自然の中で自分を取り戻すのが本作の描写だが、原作は全く違う。
透明化したことでサークルでの発言力が増したメイに対抗心を燃やしたアニーは「パスト・パーフェクト」という自分の家系の過去を透明化するプログラムに自ら進んで志願する。
元々アニーの家系は最初にアメリカに入植した名門の家柄(ピルグリム・ファーザース)だったのだが、過去を調べたら入植前の先祖がイギリス本国ではアイルランド人を奴隷として使っていたとか、アメリカ入植後の先祖も黒人奴隷を使役していたことが判明してしまう。
さらには両親が目の前で人が溺れ死ぬのを放置していたことも明るみに出てしまう。
それらが重なって精神崩壊したアニーはついに倒れてしまうが、原作の最後ではベッドに寝たままいつ目覚めるかもわからない昏睡状態となった様が描かれている。
そして何と言ってもとにかくメイが全然違う。
タイと肉体関係があることは触れたが、自分が優位に立てるという理由から他にも本作には登場しないフランシス・ガラヴェンタという性的には全く魅力を感じない相手とも肉体関係を持つ。
両親のプライベート映像を全世界にさらしてしまうことは本作も原作も変わらないが、その後のメイの対応が違う。
本作では両親に対してすまない気持ちでいっぱいだったが、原作では自分が引き起こしたにもかかわらず時には両親を非難して関係の断絶を肯定しさえする。
また本作では会場の提案からいやいやマーサーの居場所を探すことになるが、原作では彼女自らがマーサーを探すことを提案するし、ドローンを飛ばすのもメイ本人である。
マーサーがドローンで前方を塞がれたために事故死する本作の描写に対して、原作では追いつめられたマーサーが覚悟の自殺をする。
原作のメイは自説を曲げないマーサーに自分の正しさを証明させるのにやっきになっている。
そしてタイの協力を得て創業者の2人に手痛いしっぺ返しを喰らわせるのが本作の最大の見せ場になるが、原作はむしろ協力を申し出たタイを2人にチクり、タイはほとんど軟禁状態、サークルが全世界を支配下に収める透明化は完成してしまう。
原作のメイは実に計算高いいやらしい女なのだ。
タイ以外の創業者2人も裏では暗躍する腹黒い人物のように本作では描かれているが、原作では違う。
トム・ハンクスの演じたイーモン・ベイリーは、サークルで透明化を推し進めることが独裁国家に民主主義をもたらすなど世界を救うと盲信するカルトな宗教家のようである。
また本作でパットン・オズワルトが扮したトム・ステントンは、原作ではベイリーよりも力関係が明らかに上である。ただし裏で何をしているかまでは描かれていないので、そこも本作とは違う。
その他大きな相違点は2つある。
まずメイが透明化するきかっけだが、本作では船と衝突してシーチェンジを通して視聴者の目に触れて助けられた設定になっているが、原作ではカヤックとパドルを勝手に使用したことで警察に捕まったもののレンタル主に温情で許されたことになっている。
また本作でも透明化を押し進める政治家が登場するが、原作では透明化しない政治家への圧力が強くなり、その後わずか数ヶ月でワシントンの政治家の9割が透明化してしまい、世界中で透明化した政治家が何万人も存在するようになる。
本作のTwitterやLINE的なコメントに簡体字漢語とアラビア語がやたらと登場するが、原作では世界中から届くさまざまなコメントの言語への言及は一切ないし、漢族の亡命彫刻家にサークル内でオブジェを創らせる描写があったり、チベット問題に言及する箇所があったりと、わりと独裁国家には否定的である。
本作では単なる人探しの手段になっていた「ソウルサーチ」も、原作ではまさに犯罪を未然に防ぐためにその予備軍になりそうな人間を割り出すシステムとなっている。
読んでいてこの設定がアニメの『PSYCHO-PASS サイコパス』の犯罪者あるいは犯罪予備軍を数値化するサイコパスシステムに類似しているように感じた。
原作では結婚相手や恋人までこのシステムで見つけるのを匂わせているが、これもまさにサイコパスシステムそのものである。
また2015年にアニメ映画化された伊藤計劃の原作小説『ハーモニー』では、高度な監視管理体制を築いた組織「生府」が国家権力以上の力を持っていて、人間の意識まで同一化して個人の意識がなくなり、世界が完全に均一化されることで物語は終わる。
サークルが完全化してディストピアが現出する衝撃的な原作の最後に似ている。
『ハーモニー』では人々は自殺することすら許されず、発展途上国は「生府」の範囲ではないが、その設定もどこか似ている。
『ハーモニー』は日本では2008年に出版され、アメリカで英訳されて2010年にフィリップ・K・ディック賞特別賞を受賞している。
『PSYCHO-PASS サイコパス』も2012年に放映が開始されているが、『ザ・サークル』の原作小説は2013年に上梓されている。
ディストピア小説の元祖、ジョーシ・オーウェルの『1984年』の流れを汲む小説であるのは間違いないが、SNSの役割に焦点を当てて直近の未来的な作品にはなっているものの、筆者には上記2作品に設定が似ているように思えてしまった。
影響を受けている可能性があるだろうし、本作よりも原作小説の方が格段に面白い。
日本でもインターネットやSNSの普及で大手メディアで隠蔽されたり故意に語って来られなかった真実が表に出るようになったし、トランプ大統領がTwitterを既存メディアを攻撃する手段にしたことで日本でも有名人の間で同じ利用法が定着しつつあるように感じる。
ただし普段から衆人環視にさらされる政治家や作家などの有名人とは違って一般大衆のSNS依存は本作で描かれる危険性を常に孕んでいるのは疑いようがない。
筆者はTwitterをしたことがない。
過去にはFACEBOOKやミクシーも利用していたが、興味が持つのはせいぜい始めてから1・2ヶ月ほどで、それ以降は面倒臭さが先にたち、今や前者は退会、後者は何年もチェックしていない。
今年必要に迫られてLINEを始めて人とやり取りしていたが、スマホを持っていないためにPCで入力していたこともあって億劫になりやはり1ヶ月で飽きてしまった。
周りから何度かスマホやタブレットPCを持つ気はないのか聞かれることがあったが、外出時に持ち忘れることすらあるガラケーで十分である。
有名人ではない筆者からすると、本作のメイのように世界中の人々からコメントをもらってまたコメントを返すなどただただ鬱陶しいだけである。