「天才一族版「アイ・アム・サム」」gifted ギフテッド 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
天才一族版「アイ・アム・サム」
年末で忙しいし、一度は劇場での鑑賞を見送ろうかと思っていたこの作品。でもなんだか作品の評判がとてもよろしいので、やっぱりみたくなって劇場に足を運びました。
マーク・ウェブ監督のことは以前から好きで、「(500)日のサマー」なんてドハマリした私。この「ギフテッド」も観ない理由はなかったはずだけれど、予告編を見て漠然と「こまっしゃくれた”天才子役”が小憎らしい演技で”天才キッズ”を演じることを賛美する映画だったら嫌だなぁ」と思ったのが一度はこの作品を敬遠した理由。でもそれは杞憂だった。ヒロインのマッケナ・グレイスはまぎれもなくい美少女だし演技も大人びていて本当ならそれが嫌みに見えてもおかしくないところなのだが、グレイスの抜けた前歯がただの美少女をチャーミングに魅せたように、カメラの前でのびのびとした子供らしさを見せていて嫌みがない。フランク伯父さんの膝の上でごろっと仰向けになったり、体をよじ登ろうとしたり自由気まま(に見える)。子役の鼻につく感じがなかったのは本当に救いだった。
と安堵した一方で頭をもたげてきたのは「なんかこの映画『アイ・アム・サム』そのまんま?!」ってこと。私は「アイ・アム・サム」が大好きなので、だったらこの映画も同じように愛せるのでは?と思いそうだけれど案外そうでもない。もちろんこの作品の主人公は知的障害者ではないけれど、彼らが辿る物語の道筋は「アイ・アム・サム」とほぼ同じ。子どもの養育権で訴訟を起こされて法廷に出て、一度は里親に出され、そして子どもを取り戻す。オクタヴィア・スペンサーの存在は「アイ・アム~」におけるダイアン・ウィーストで、担任教師ジェニー・スレイトは「アイ・アム~」におけるミシェル・ファイファーで・・・なんて置き換えまで出来そうなほどに既視感が付きまとい続けた。だからってダメってわけではないのだけれど、天才的頭脳をもった稀有な少女を前に、才能を伸ばし英才教育を施す意義深さとそれに反して年相応の「普通」を経験させてやる子との深い意義を対立させるという興味深さに目を向けているわりに、映画が提示する回答には目新しいことは何もなく、実にありふれた「愛し合う二人を引き裂かないで・・・!」みたいなメッセージに落ち着いてしまったのが極めて遺憾だった。
それでいて、この映画には分かりやすい悪役がいるのも大いに不服。リンゼイ・ダンカン演じる祖母が、俗に言われる「毒親」ってやつで、主人公二人に起こる悪いことはすべて彼女が元凶であるように描かれている。つまり彼女さえ言いくるめれば事が解決する仕組み。でもこの映画が取り上げているテーマって、天才的な能力を持った子供に与えるべき適切な環境とは?という、簡単には答えなど出ないようなもの(能力を伸ばすには子供らしさに犠牲を払う。子供らしさを優先させれば能力は芽を伸ばさない)。それなのに、分かりやすい善と悪を作ってしまったのは物語としてあまりに稚拙であり、そうすることで観客がメアリー少女のために何がもっとも大切で何を優先させるべきかを考察するに至らなかったのは残念だった。