「映画通視点ではなく、物語として」サバービコン 仮面を被った街 maruさんの映画レビュー(感想・評価)
映画通視点ではなく、物語として
映画通ではないので、物語の視点でこの映画をたのしみました。
この映画は、サバ―ビコンという住宅街で、2つの物語が平行しています。
①白人一家について
②黒人一家について
①では、マット・デイモンがチンピラを金で雇い、妻を殺させて保険金をもらい、不倫相手の妻の妹と再スタートを画策している。
なんかの会社で偉い立場にいるマット・デイモンは、ギャングから金を借りたり、なんかだらしない一面があるみたい。妻を殺す理由も、若い妻の妹との関係、性欲、お金、物欲と、なんとも本能的な直情的な感情で動いていく。
唯一「理性」が垣間見えるのは、子どもと接している時だけだ。しかしそれでもほんのわずかの「理性」。
結局、チンピラに追い込まれ、保険屋には疑われ、亡き妻の妹のおまぬけっぷりに計画は破綻寸前。後先考えず保険屋を殺し、なんやかんやでチンピラも死に、妻の妹も死に、いろんな偶然が重なり、マット・デイモンの『正体』を知る者が、いよいよ「子ども」だけになる。
そこで、父親であるマット・デイモンは、子どもに「忘れるか・死ぬか選べ」と選択を迫る。
翌朝、死んでるのはマット・デイモン。子どもは、となりの黒人の子どもとキャッチボールを始める。
②では、白人の街に引っ越してきた黒人の家族に対し、最初、
【第1段階】白人の住人たちは話し合いで、自分たちの置かれた状況を理解しようとした。
【第2段階】やはり、黒人は受け入れられず、柵を設けることで一段落した。
【第3段階】それでも、受け入れられず、歌を歌うことで「グレーな騒音」でいやがらせをする。
【第4段階】いよいよ、住民全員で、出ていけ!と直接的な、攻撃的な「騒音」でいやがらせをする。
【最終段階】とうとう、暴動にまで発展し、今にも黒人一家の家に入らんとばかり暴れる住民たち。
ここでも①と同様、直情的な行動、欲に任せた合理主義、こうあるべきだ!という視点の視野の狭さによって、「理性」が失われていくさまが、描かれている。
①と②の物語の共通点は、「理性が失われていく」ことだと思われる。
閉鎖的な空間に、同じような人が集えば、無意識に『同じような人たち』が求められていると感じてしまう。
郊外にある『サバ―ビコン』という名前でくくられた街はのことを大人たちは、理解している。
しかし、子どもたちはそうではない。『サバ―ビコン』ではなく、『家』に住んでいると思っている。だから、周りのしがらみも「知らない」し、だからこそ、黒人差別の価値観は薄く、男女の関係にも疎い。
「知らない」ということが、無意識の選択肢「他人を拒否する/受け入れる」という選択肢から「拒否する」が薄く、「どう・受け入れるか?」という思考になっている。
最後のシーン、子どもがマット・デイモンを殺したのか。マット・デイモンが、「理性」を取り戻し、保険金殺人の容疑を迷宮入りにして、子どもに保険金が行くように自殺を図ったのか。
絶望的なストーリーに最後だけ、「黒人の子どもとのキャッチボール」「父親の死」が、希望のシーンとして残っている。
俯瞰で引くとサバ―ビコンの街が地平線まで広がる画は、「こんな世界、結構続いているよ」というメッセージが感じられた。
おもしろかった。