「写実と抽象にたいする疑問」ジャコメッティ 最後の肖像 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
写実と抽象にたいする疑問
アルベルトジャコメッティはフランスで活躍した彫刻家・画家・版画家。
最晩年のモデルとなった男性の視点から、破天荒な天才との交流が描かれていた。
肖像画は完成するが、もともと写実的な作風ではないこともあり、似ても似つかない抽象絵が完成する。
ところで昔から、疑問に思うことがある。
モンパルナスの灯(1958)というフランス映画を見たことがある。
モディリアーニの映画で、往年の美男俳優ジェラールフィリップ主演。
不遇のまま夭逝した画家の痛ましい映画で、当時日本でも大受けした。
酒におぼれ、街で人物をスケッチしながら飲み代をかせぐ。
誰を描いても、写実とは遠い独特なタッチになる。描いた相手に「これが俺かよ」などと絵を難じられるシーンがあった。
モディリアーニといえば、いずれも、あの肩のない瓜実顔の、眼球のない虚ろな表情。──である。
それなら、モデルが要らないのではないか。と、私は思うのである。むろんピカソはじめほとんどの近現代の有名画家にそれが言える。ピカソの、あの酩酊でやった福笑いのような絵に、常用モデルが存在したのは有名な話である。
ルネサンスと違って、それが誰だか解らない絵なのであれば、なぜわざわざモデルを立てるのだろう──というのが、凡人の素朴な疑問なのである。
写実性がないことがいけないのではなく、対象を反映していない写生に、なぜ対象を置くのか──ということだ。
映画ではその疑問が、解消される──どころか、促進される。ジャコメッティは、彼とはほど遠い、黒々した何かを描いている──に過ぎない、にもかかわらず、しきりに低回しては、不機嫌に写生を中断し、モデルは都度それに翻弄される。
ゆえに、この映画は、わたしや、絵にたいする造詣のない人にとって、傲岸な老人の話にしかならない──可能性をもっている。
そもそもかれのじめじめしたアトリエには、針金に申し訳ていどの粘土をつけたようなトーテムポールのような彫像がならんでいる──だけであって、そのような不確実な物体──ジャコメッティの銘が無ければ価値を見いだせない造形物──を創作するのに、モデルをたて、作家魂が発揮され、ああでもなければ、こうでもない──となる話の総体が理解できない──可能性をもっている。のである。
が、ラッシュは難渋で雑味な老人が巧く、対するハマーは美しい無欠感のある男で、その対比は楽しい。天才芸術家には関わってはいけない、という諧謔的な体験談になっている。理不尽だが、滑稽なのである。アーミーハマーの爽快感が映画を明るくしていた。
わたしは、凡人なりに、芸術家が、モデルをたてることの意味について、考えてみた結果、三つの考え方を得た。
対象を発想(インスピレーション)の基にする。
対象が生身であることで緊張を得る。
対象を描きたい欲動(モチベーション)をかきたてる。
この考察と映画をあわせて、ひとつの答えに導かれた。
すぐれた芸術家ほど「さびしがり屋」だ。