劇場公開日 2018年3月24日

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「ド直球なタイトルと女優業の根幹」見栄を張る R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0ド直球なタイトルと女優業の根幹

2024年9月8日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

この作品は、女優業の根幹部分にド直球なタイトルで焦点を当てている。
綺麗とかかわいいではなく、なぜ泣くのか?
何故エリ子は現場で必要とされなくなってきたのか?
主役のエリ子のみならず、人は何かに対して見栄を張っているのは間違いない事実だろう。
何かの関係で会う人ごとに自分自身を作っているのが人かもしれない。
売れなくなってしまった女優業
これほどわかりやすい例もないのだろう。
少し売れた実績がプライドを作る。周囲に「私は女優よ」感をばらまく。
喪主のあいさつ 誰もが知る単語がわからない恥 ありもしなかったことを言う。
それに加え出てきた相続
カズマの養育問題
誰一人エリ子を頼ろうとはせず、弁護士相談をしながらカズマの今後を思案する。
さて、
泣き屋という聞きなれない職業
製作者はこれを知ったことで物語が生まれたのだろう。
小さなな田舎町に残る風習
姉の突然の交通事故死と彼女の職業だった泣き屋
いくつかの問題とあきらめと義務
すでに生活費も底をつき始めた。
泣き屋など女優として簡単な仕事だと思っていた。
しかし、その泣き屋に奮闘するエリ子の姿はあまり描かれず、ライバル会社や紐のように転がり込んできた芸人との関係で物語が描かれてしまっている。
この物語はエリ子の再生の物語
また、
カズマの養育問題はエリ子にとって大きな問題
本人が父と暮すことを決めたのでそこに問題はないが、そもそもカズマに父の連絡先を渡した近親者のおばさんがカズマの今後について心配していたと思われるが、弁護士相談したりかなり積極的に働きかけていた。
それがもととなってカズマは父を訪ねる。
さて、
物語の根幹の問題は主人公エリ子のうまく行かくなった女優業だ。
同棲する芸人の男はすべてにちゃらんぽらんで、相方の真摯さとは比較にならない。
もしかしたら相方は、彼とのコンビを最後にしたのかもしれない。
夕食が毎日ペヤングのカップ焼きそばというのは少しばかりデフォルメしすぎているが、そこにチューブしょうがを足すという味付けを批判した相方は、エリ子も彼も「何か間違っている」というということを表現したのだろう。
カズマは食べたことのなかったカップ焼きそばとチューブしょうがにおいしいふりをしたが、それはおそらく単なるフリでしかなかったのだろう。
同時にその食生活はエリ子が変わっていく象徴でもあるはずだが、そのシーンは登場しない。
昔の恋人だったユウタロウと彼の結婚
彼の結婚は姉の電話で知らされる。
夢を抱いて上京してもうそんな時間が経ってしまった。
彼との再会でエリ子が得たものは何だったのだろう?
「女優をあきらめたから泣き屋というのはちょっと違うと思う」
この言葉だけのために彼は存在する。
面白いのは彼が葬儀専門の花屋で働いていることだ。
彼はいくつかの職業の中でそれを選んでいる。
それは「ある中」からの選択で、夢を追いかけた結果ではない。
夢を追いかけ続けるのはしんどい。
オーディションでのダメ出しと台本のシチュエーションを理解できなくなったことは、女優としての終焉を意味する。
そうすべきかどうかをエリ子はわからないままでいる。
泣き屋 姉の仕事
死者の道を作り参列者を浄化する役目を持つ。
それは、ハナイが言ったようにスーパーのレジ打ちの方がいいのだろうか?
ハナイはあの時、エリ子を試したのだろうか?
「自分自身の気持ちがわからない」
これがエリ子の陥っていた最大の問題だったのかもしれない。
どこからも必要とされなくなった女優業にケリをつけることはできる。
ただ、
姉がエリ子の記事をスクラップにしていたことや、初めてTV出演したCMとその商品のビール
口では母の小言のようなことを並べていた姉がこんなにも自分のことを思っていたことを知ったエリ子には、半分諦めていた女優を本当にやめてしまっていいのかわからなくなったに違いない。
姉から様々なことを聞かされていたハナイは、姉の代わりにエリ子の再生を手伝ったのだろう。
人間的に成長しなければならないエリ子という人物の現状を、ハナイはすぐに見抜き、姉の言葉を思い出し、エリ子を見守ったのだろう。
この作品の面白さは、先がわかるようでわからない点にある。
取って付けたかのように起きる肉親の死
そこで出会った人々の影響
女優を辞めた女性が新しい生活を始めるまでを描いたものかと思っていた。
彼女には、
カズマを引き取る選択もある。
夢をあきらめ、身の丈に合った職を選び実家で暮らす選択もある。
しかし、
身寄りが誰もいなくなった実家に残った最大の問題のカズマが、実の父との生活を選択したことで、エリ子は再び自由となった。
エリ子は、姉と勘違いして泣き屋に自分の葬儀に来るように依頼された老女の葬儀に参列し、初めてハナイから合格をもらう。
その演技は涙が流れるまで少し時間がかかっている。
それがよかったのかどうかわかりかねる部分はあるが、ハナイにはエリ子の演技に女優としての成長を見たのだろう。
人の死に対する悲しみ 涙 表現
これがおそらくエリ子に足りていなかったことなのだろう。
姉との電話で、エリ子と母との間に確執があったのを感じる。
家族の死に対する悲しみを表現できない女優は、誰の死の演技もできない。
彼女は帰りの電車の中で泣く。
その涙には様々な意味がある。
彼女は泣きながら泣くということとその感情的な意味を考え、ようやく涙と表現の意味を理解したのだろう。
この作品は、
まずこの根幹の存在を視聴者に理解させなければならない。
しかし、
躍動感に欠けるシーンの連続が、次第にその根幹を忘れさせてしまう。
最後の電車のシーンですべてが回収されることになるが、だいぶ考えなければならないのが惜しい点だ。
一人の女性の再生という非常に普遍的なテーマ
そこにたどり着く過程も悪くはない。
ただ問題の根幹が何かをもっと明確にして、家族が亡くなるということを多角的に表現しながら、エリ子自信が家族の死に向き合えなかった理由、残されたカズマとの関係、それぞれに関するエピソードを描きながらこのテーマに向かって欲しかった。

R41