しあわせな人生の選択のレビュー・感想・評価
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二人の呼吸や表情、飄々としたやり取りを見ているだけで底知れぬ友情を感じる
余命いくばくもない親友と過ごす4日間、と書くとセンチメンタルな印象が拭えなくもなるが、彼らは涙など見せない。何しろ本作に登場するのはオッサンふたり。スペインで俳優として暮らすフリアンは「もうこれ以上の治療はやめた」といい、カナダから遥々やってきたトマスに対し「文句があるなら、とっととカナダへ帰ってくれ」と告げる。つまり本作は序盤から、よくありがちな闘病モノへと進むことを禁じ、むしろ彼らが昔のようにつるみ、新しい愛犬の飼い主を探し、そして突拍子もなく飛行機に乗って渡航したりすることをよしとする。ただそれだけなのだが、阿吽の呼吸で、何の気取りもない言葉を口にし合うふたりの演技が何とも軽妙で心地よい。俳優業を営むフリアンにとってはまさに人生のカーテンコール。そこでどのような幕引きを迎えるか。互いの性格を知り尽くし、固い絆で結ばれた二人だからこその大切な時間、頑なな意志、そしてささやかな余韻が胸を締め付ける。
大切なものを託せる友がいる?
もし、トルーマンがこの映画に存在しなければ、ただ『お涙頂戴』のよくある映画になってしまったと思う。トルーマンの存在が、末期癌のフリアンと友達の間のブレーキ役になっていて、この4日間の現実が、フリアンにとって、自分のことだけを考えられないように設定してあるのがいい。トマスにとっても、友達とはいえ、お金を払うだけで何もできない歯痒さを感じているから、トルーマンが一つのファンクションになっていると思う。
この映画はユニバーサルな課題を扱っているので、私の予想通りに話は運んでいく。いくつか気になったことを書く。
まず、フリアンのこと。フリアンはハンサムな役者役で、女にもモテる役で、既婚者の妻と浮気をしたりしていたが、彼が、末期癌と分かってから、友達や人が彼を避けるようになった。しかし、レストランで、妻が浮気されたある男性がフリアンのテーブルに来て、いたわりの言葉をかけ『なにか困ったことがあったら言ってくれ』と。この態度に感激した。トランプがコロナ感染したときに、ジョーバイデンや、オバマ元大統領が、いたわりの言葉をかけているのと同じ。気持ちがあるから見舞いの言葉がかけられるのであって、気持ちがなければかけにくい。どんな人にでも、敵であっても、お互いが人間であることを忘れたくないものだ。
トマスだが、4日の休暇をとって、フリアンのためにモントリオールから来ている。映画の初めから多くの素性を掴むことは難しかったが、エスパニアのパスポートを空港でみせるシーンがあったので、スペイン国籍(二重国籍?)だとわかった。その後、大学で、教授をしていることもわかった。フリアンとは全く反対の性格のようだし、財政的にも恵まれている。トマスはフリアンのために何かをしたいと思ってきたようだし、なにができるかの答えも持っていなかったようだ。フリアンにしてみれば、そばにいてくれるだけでいいんだが、トマスにしてみると何かしてあげたいと思う。金銭的な面でしか援助ができないと感じ、それを惜しむ態度はまるっきりないので、金銭的にだけでも援助してあげられて、嬉しく思っているようだ。最後に、フリアンにとって一番大事なことを援助してあげるんだけど。
末期ガンのフリアンが自分の最期をどう決めたかを聞く準備はいとこのポウラにはできていない。この感情を共有できるのはトマスだけだった。この抑えきれない失望感を二人はセックス通して抑えたんだと思った。
【身勝手な男と心優しき男との不思議な友情の梯となった犬、トルーマン。】
ー最初に劇場で鑑賞した際には、感情移入が出来ずスペインの方々とは感性が違っているのかなと思った作品。-
・スペインで暮らすフリアン(リカルド・ダリン)の所にある日、カナダ在住の友人トマス(ハビエル・カマラ)が長い飛行機の旅を経て、やってくる。
ーどうも、フリアンは末期の肺がんに侵されており、トマスは遠路足を運んだようだ。ー
・最初に劇場で鑑賞した際には、フリアンの自分勝手な言動、行動
ー例えば、アムステルダムに住む息子ニコの誕生日を”日帰り”で祝いに行くと言い出し、飛行機代など全てトマスに払わせ、ノンアポで息子に会いに行くシーン。
しかも飛行機内でトマスはフリアンがニコに自分の深刻な病状を伝えていない事やノンアポであることを知り、フリアンに”忠告”するが、聞く耳を持たないフリアンの態度ー
などが、理解出来ずフリアンもフリアンだが、トマスも如何に親友とは言え、甘すぎるだろう・・、と思ったのが2年半前。
当然、レビューを書いてもいないし、当時の鑑賞メモを見ても良い感想はない。
・が、今回久しぶりに再鑑賞して、(大まかな感想は変わっていないが)、あるシーンの記憶が欠落していた。
その短いシーンとは、二人が久しぶりに交わした会話である。
【フリアンはトマスに”君は見返りを求めない。何も要求しない。”と語り、トマスはフリアンに”君は勇気がある。決して逃げ出さない”と語る。】
-成程。二人はお互いの気質を良く知り理解しあった上での関係性を持っていたのか・・。
それにしても、駄目だなあ。とても重要なシーンが記憶に残っていないとは・・・。前日、祇園で遊び過ぎたか? -
・フリアンは息子同様に可愛がっている愛犬で老犬の”TRUMAN:今作の映画の原題でもある、の貰い手をトマスと探すが、結局トマスに引き取ってもらうよう”勝手”に手配をする。緩やかに笑ってそれを受け入れるトマス。
<だが、矢張り大きく感想が変わった訳ではない。が、こういう友情の在り方もあるのかなと思った作品である。>
<2018年1月21日 京都シネマで鑑賞>
<2020年6月 別媒体にて再鑑賞>
じわりとくる秀作
末期ガンの友達との数日間の交流が描かれた映画です。
まったく派手さも面白みもなくたんたんと2人の生活と終わりに向けての犬の里親探しが流れます。
しかし、そのたんたんとした流れが心地よく飽きさせず、最後はすっきりと見終われた作品でした。
また、これだけ付き合ってくれる友人に拍手です。
派手な展開は、期待せずじっくり見ていただきたいです。
気になったのは、なんでR15指定なのかなと。
邦題の選定が相変わらずに酷い。
簡単な感想にとどめるが、ありきたりな闘病末期の患者の身辺整理を描いたような作品。
一つ他の作品と違う点はどうしても愛犬の処遇だけが気にかかる所。
親友とのやりとりも空気感や言葉の選び方が非常に違和感なく数十年の付き合いなのだと自然に納得させてくれる。
しかし、ラスト近くのSEXシーンだけは理解に苦しむ。情熱の国スペインのノリや文化で片づけることができれば簡単なのだろうが、はたしてどんなシチュエーションならあの流れになるのか?(わからない事もないが、もっと抑えた表現で出来なかったのか?wしっかりと全体を写し過ぎw)これでかなりの点数が落ちた。
ラストは絶対に断らず、信頼できるからこその決断にグッときた。素敵なラスト出会ったと思う。断らないどころか何も言わずにリードを受け取る姿が非常に心を揺さぶった。
だからこそ原題のままの『トルーマン(犬の名前)』で良かったんじゃないの?
ほんとにセンスねーな。
涙は見せない
「この1年、肺がんと闘ってきた。治療の再開に意味があるか?。再開したら治るのか?。どっちみち死ぬんだろ?じゃあ無駄だ」。
冒頭のフリアンの言葉、ちょっと考えさせられました。
そんな時にいきなりふらっと現れた、かつての友人・トマス。
その再会にフリアンは驚きながらも、滞在4日の間にいいアシストをしてます。
トマスは意見は言わず、フリアンが会いたい人・行きたいところについて行く。ま、お財布係にもなっているところがご愛敬。
フリアンが自分の葬式の下見をしに行く場面。
「火葬したら灰しか残りません」と言われてボーゼンとする場面。
そりゃそうだよ、見に行かなきゃいいのにと突っ込みました。
こんな感じで「余命」の話なのに、全体的にサラッとしてました。
フリアンはトマスがいてくれることで、少しは気がまぎれたのかも。
息子に会いに行く場面。本当はもう会えないかもしれないのに、それは言わない、言えなかったんだね。この時なんか息子がちょっ変だったのが、終盤でわかるのがちょっジーン。
原題は「トゥルーマン」。フリアンの飼い犬の名前。残していく飼い犬をだれに託すのか。その終わり方が、なんとも欧州風でクスリなFinでした。
なんとな〜く進むストーリーだが
簡単に言えば、ガンで余命短い旧友の終活に付き合う映画。
きっと若い人が観ても何も響かないんだろうけど、私も今となっては心に響まくりです。
二人の心情がとてもよく描かれていると思った。
タイトルなし
余命わずか
死期の迫った俳優フリアンと
彼に会いにきた旧友トマスとの4日間
.
死を前にし
本人、周囲の人々はその事実を
どう受け止めるのだろうか
最期をどう生きるか
その人の在り方
生き方が問われる
人間性が浮き彫りになる
チャーミングなフリアン
自分に正直に生きてきたから
素敵な人々に囲まれ
幸せな人生だったのでは
.
良質な映画でした
お別れ
あの世には、誰も何も体も記憶も全部捨てていかないといけないところです。最期にその全てと沢山のお別れができるって、幸せなのかもしれない。余命宣告されるのと、ポックリ苦しまずに死ぬのとどっちが良いんだろう?告知されたら、参考にしたいです。
犬も喪失感を感じる?
映画「しあわせな人生の選択」(セスク・ゲイ監督)から。
余命わずかな人間のドラマは、何作も観てきた。
その最期の時間の使い方は、人それぞれであり、
これが正解、というものはないことはわかっている。
今回、特に印象に残っているのは、
「愛犬トルーマンの新たな飼い主を探し」。
「植物と違って犬には性格ってものがある」ことを理解し、
自分が亡くなった時、愛犬がどうなるか、心配で仕方がない。
作品中、動物病院の先生を訪ね、質問するシーンがある。
「先生の意見を聞きたい、犬も喪失感を感じる?」・・
「飼い主を亡くした犬を癒す方法が?」と矢継ぎ早に問う。
先生がこう答える。「捨てられた時と同様に、犬の心は傷つく」
やはり・・と思ったのか、更に質問は続く。
「具体的にどうなる?」 「飼い主が死ぬと、
人を寄せ付けなくなり、心因反応を起こすこともあるだろうね。
消化器系の不調や問題行動などだ」・・
家族同様に暮してきた愛犬だからこそ、この視点があり、
そのために、最期の数日に費やす。
これも、大切な余命の使い方なんだよな、とメモをした。
死ぬのは辛い、見送るのも辛い
でも、いつかみんな死んでいく。
自分の死が射程に入った時、見えてくる景色はちょっと違っているのかもしれない。
主人公がレストランで会った昔の友人に、心から謝罪するところがすごく良かった。2人とも、キチンと気持ちを伝えられて、色々あったけれどやっぱり友人だったと気づく、そんな感じだった。
余命わずかかもしれない友人に対して、私はこんなふうに振る舞えるかな?
自分の死が見えてきた時、周りの人に私はどう振る舞うのかな?
色々考えた。
理想的な死に方
戦争や災害で自分の意思とは関係なく死んでしまうのは論外として
自分の意思で死を選べるのであれば
この映画は正直、理想的だと思う。
自分で歩けてちゃんと決定が下せるうちに
全てを託せる親友に何もかも託して心残りを全て片付けて、
あとは痛みを抑える薬を使って静かに死ねれば
もう本人的にはそれ以上ない。
でも託された方はどうするんだ!!
何もできない無力感とか、大事な友を失う喪失感とか
そんなものに押しつぶされそうになる〜〜
この映画を観た後に話題のドラマ「やすらぎの郷」の中で
死にゆく妻を看取る覚悟を決めたある男性が
「残される方が辛い、自分は男だから辛い方を引き受ける」と
いうセリフがあった。
ああ、死にゆく方から残される方に指名された身はキツよな〜〜
辛い方を引き受けなければならないのなら
早く死んだもん勝ちな本末転倒な印象。
独り者の私は、とにかく羨ましい〜〜
いまいち入り込めず感動はない
本作は2016年(第30回)のスペインのアカデミー賞といわれるゴヤ賞において5部門を獲得している。
原題は本作に登場する犬の名前である『トルーマン』だ。
日本に原爆を落とした第33代アメリカ大統領と全く同じスペルなためかよくわからないが、この原題が全く活かされていない邦題となっている。
さぁ、感動してくれ!と両手を広げて迎え入れるようなタイトルが邦題になるのは今に始まったことではないのでもはや驚かないが、なぜ犬の名前がタイトルになっているか本編を観ればその重要性がわかるので、この邦題には違和感を感じる。
同時にこんな見え透いた邦題にしてまで集客率を上げようとしなければいけないほど映画を観る人は少ないのか?と寂しい気持ちも覚える
本作は、監督のセスク・ゲイが自身の母の闘病生活と死に向き合う中から発想を得たらしく、監督個人の想いの詰まったパーソナルな映画ともいえる。
余命の少ない主役フリアンを演じたリカルド・ダンはアルゼンチン出身の名優で『人生スイッチ』というアルゼンチン映画にも出演していた…らしい。
筆者は『人生スイッチ』も観ているがこの俳優に記憶がない。
南米はブラジル以外は全てスペイン語が公用語だからスペイン語圏の成功モデルはやはり旧宗主国のスペインで活躍することになるのか?
フリアンの従妹のパウラ役を演じたドロレス・フォンシもアルゼンチン出身だが、フリアンとパウラの2人は本作でもアルゼンチン出身という設定である。
英語にも出身地によってなまりがあるので、やはりアルゼンチンなまりのスペイン語も存在するからなのだろうか?
現在日本以外で日本語が公用語になっているのはパラオのアンガウル州だけであり、それも形式的なものだから、他国人が普段使う言語として母国語を話すのを聞く経験がない。
そのため日本人である筆者にはその微妙な違いは全く伺い知ることができないが、なかなか興味深い。
また世界には大きく2つに分類して発展途上国と先進国が存在するが、過去において発展途上国から先進国に上り詰めた国は日本だけで、逆に先進国から発展途上国に没落した国はアルゼンチンだけらしい。
なおその好例に挙げられるのがあの名作アニメ『母をたずねて三千里』となる。
わざわざアルゼンチンに出稼ぎに行ったお母さんを主人公のマルコが探し歩くお話だが、マルコと彼の母親はイタリア人である。
自分の死に際をどうするかを友人や家族の関わりの中から描き出すいわゆる「終活」ものになるが、ヨーロッパの映画なので死を題材にした映画でありながら邦画のようなウェットな人情ものにはなっていない。
いや正確に表現するとヨーロッパ人からすれば十分ウェットなのかもしれないが、日本人の感覚からはあまりそういった印象を受けないというだけかもしれない。
その最大の理由が、わざわざカナダからフリアンに会いに来る友人のトマスとフリアン、パウラの関係性である。
フリアンとパウラは従兄妹の関係になるが、本作を観ている限り同時に恋人のようにも思える。
しかし、トマスがカナダに帰国する前夜、フリアンを失うお互いの寂しさを共有するかのように彼とパウラは泣きながら情事にふける。
しかも翌朝そんな2人が仲良くホテルのロビーに現れる光景をトマスを迎えに来たフリアンに堂々と目撃させる無神経さがよくわからない。
トマスは妻子をカナダに残しているからなおさらである。
ヨーロッパの映画を観ていると頻繁に登場人物が友人の奥さんや彼女と関係を持つが、西洋人の男女がともに持つ性への貪欲さと倫理観の無さには正直ドン引きする時がある。
映画でしかも他国の作品に倫理観を持ち出しても全く意味がないことは認めるものの、本作にもこの描写があるせいか感動からはほど遠い。
また本編中フリアンは結局息子に自らが近々死ぬことを告げられないままになるが、実は息子はその裏事情をすでに人から伝え聞いて知っていたという設定になっている。
その割には2人が出会ってから別れるまでの間に息子側に切羽詰まった感情が感じられなかった。
最近はカタルーニャ独立問題で国内が混沌としているのを現しているかのように、本作の邦題がミスリードを誘っているのか実にまとまりのないごちゃごちゃした作品に感じられた。
ただ、死を大きな題材にした恋愛映画は腐るほどあるので、友情を主な柱にして死を扱う物語の組み立ては悪くない。
色々な愛
愛犬と飼い主 親友 親子 夫婦 仕事仲間 医師と患者。
色々な関係があって、色々な愛がある、愛してるふりをする人もいるし、ひたすら隠そうとする人もいる。
ジトッとしがちなテーマでも、太陽の国スペインの映画は大人な明るさがあって面白く観れました。ユーモアに包みながらも死と愛情について語り合うのが、マドリードの街とスペイン語の響きにしっくり合う!
死を覚悟した友人にできること
友人の余命わずかと知って、遥々遠方から会いに行くのは、何のためだろう?
突然訪ねてきた友人に、それまで考えあぐねてきたことすべてを託そうとしたのは、死にゆく者の凄みなのかもしれない。たった4日間なのに、二人の関係が繊細に描かれていて、死を覚悟しているフリアンのそれまでの人生が縮図のように浮かび上がってくる。
4日間、二人は充実した時間を過ごし、一番大事な人に大事なことを託し、泣けなかった涙は一線を越えた従兄妹の胸を借り。
深いな〜
多くを語らないから雄弁
選択の是非について考えるような作品ではない。
大切な存在の側にいる姿を少し見つめてみた。そんな時間のようでした。
飼い犬トルーマンが登場する時間は結構短いと思う。しかし、トルーマンの事を大切に考える気持ちが画面に現れる時、映画全体が急に切なくなってくる。
側にいることの苦しさ優しさを、静かに少し笑って伝える映画だった。
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