「魂の救済のドラマ」私は絶対許さない 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
魂の救済のドラマ
タイトルからするとリベンジの物語のように思われるが、実は救済のドラマである。
中島みゆきの「友情」という歌の歌詞に「救われない魂は傷ついた自分のことじゃなく(中略)傷つけ返そうとしている自分だ」という一節がある。
人は他人を理不尽に傷つける。傷つけた人間はいつかそのことを忘れてしまうが、傷つけられた側は、一生忘れることはない。子供のころにいじめられた思い出は数十年後にも激しい怒りの発作をもたらすことさえあるのだ。
しかし復讐することには、一瞬のカタルシスがあるだけだ。復讐もまた、行為としては人を傷つける以外の何物でもない。傷つけられたから傷つけるというのは、相手と同じ罪に自分を貶めることになってしまう。そこに魂の救済はない。
理屈で理解するのと、感情としてコントロールできるようになるのとは雲泥の差がある。高ぶる魂を鎮めるのは、恨みが深ければ深いほど困難を極めることになる。レクイエム(鎮魂歌)は死んだ人のためにあるのではない。生きている人の魂を鎮めるためにあるのだ。中島みゆきはそのあたりを朗々と歌い上げる。「友情」は彼女なりのレクイエムなのだ。
さて、レイプされて心身ともに深い傷を負った本作品の主人公だが、ムラ社会の力関係とメカニズムから、泣き寝入り以外の選択肢がないことを中学生ながらよくわかっている。自分が死ぬか相手を殺すかの極端な二択を思いつきはするものの、実行に移すにはあまりにも代償が大きすぎることもわかっている。
救われない魂を抱えたまま流されるままに生きて、いつしか、いつまでも消えないでいる怒りの炎と折り合いをつけてゆく。凝り固まった魂を溶かし、怒りと憎しみを春の川に流す。人は故郷を捨てて流浪の民となるが、どこかで心の中の故郷に帰っていくのだ。
女が女であることだけで曝される偏見と差別の中で生きていくのに、外見はいろいろな意味で影響力のあるファクターとなる。何度も出てくるヌードはいずれも必然性のある場面となっていて、女優陣も納得の演出だったと思う。
主人公が救われることで観客も救われる。陰惨ではあるが、ホッとする物語でもある。心に残るいい映画だった。