「3度目の殺人とは何か」三度目の殺人 gooさんの映画レビュー(感想・評価)
3度目の殺人とは何か
3度目の殺人とは何か。
結局、ラストシーンまで3度目の殺人とは何だったのか、宙ぶらりんのまま答えは出ず、幕を閉じる。
その言葉は宙ぶらりんのまま、この映画を引っ張り、三隅と重盛の対峙も答えを出さずに終わる。
ラストで重盛が佇む十字路はキリスト教的な暗示、空に浮かぶ電線も十字を切り、重盛が三隅に投げ掛ける「貴方はただの器。。。?」という言葉からも、十字は反復してこの世界に神の存在を語り掛けるように見えるが、あれはもしかするとそのまま十字路を表しているのかもしれない。
人が人生の中で真実を見つめてはまり込む辻。
どちらに行けば正解なのか、どの道が果たして真実に辿り着くのか。
重盛は佇むのみ。
真実に辿り着く事はない。
それは真実を追い求めるから。
人生において真実というものは重要ではない。
行った先がその人の人生の真実になるから。
結果が真実である。
だが、重盛は佇む。
真実に辿り着くことが出来ないのだ。
三隅は真実を語らない。
或いはその時その時、彼が語った事は全て真実なのかもしれない。
だが真実は世の中に明らかにされる事はない。
全てが明らかにされる事なく、全ては宙ぶらりんのまま、裁判は終了する。
三隅は分かっているのだ。
真実が何か分からないままでも、世は全て調和的に動く。
人が真実から遠く居たとしても、世界はシステムの上で動いていくのだ。
或いはシステマティックに動く世界によって真実は決定し、真実は世界から遠く離れた場所で輝くのだ。
誰も太陽に触る事は無いが、太陽の光によって恩恵を受け、生きていく。
真実は触らずとも、その真実を自分の都合の良いように解釈して生きていくことが出来る。
その真実に触れたいと思う時、人は十字路に佇むことになる。
真実は十字路から遠く離れた、しかし十字路を隈なく照らす天上にのみあるのだから、触る事は出来ない。
手に取ることの出来ない場所にあるのだから、その全体像を見る事は出来ない。
人は神に近づく事は出来ない。
その存在を信じ、只管に信仰して生きていく。
だから生きていくことが出来る。
触ることが出来る存在であれば、理解し尽くすことが出来れば、人はそのために生きようとはしないかもしれない。
触った瞬間に焼け死んでしまうのかもしれない。
重盛は最早真実に辿り着く事は出来ず、また生きていく。
だが彼は最早前のようには生きて行けないかもしれない。
三隅の後ろに、事件の後ろに宙ぶらりんの芯となる真実が在ったが、見ようとしても見えない。
その見えない真実を見ようとする行為を覚えてしまったから。
彼の佇む真実の十字路の上には十字を切った電線が走り、そのまた上には神の居る天が広がる。
そこに真実が在るが、彼には見えない。
本当はそれを見なくても生きていく事は出来るし、ほとんどの人は見えなくても生きていける。
真実が「在る」ということさえ知っていれば生きていける。
だが真実そのものを見ようとすれば、人は佇む。立ち竦むことになる。
そして立ち竦み、じっと真実を見つめようとする人は、生きては行けない。
人生は真実とは関係なく進んでいくものだからである。
映画全体を通して、「第3の殺人」というタイトルがその宙ぶらりんの軸である。
映画の中で具体的に第3の殺人が描かれる事はない。
その言葉は人により解釈を変え、でもそのいずれも具体性を欠いてピントをぼやかしている。
うまく出来たタイトルである。
事実、この世界でピントの合った真実が存在する事は無い。
世は並べて宙ぶらりんである。