「他人の気持ちの「器」となること」三度目の殺人 鳥。鳥子さんの映画レビュー(感想・評価)
他人の気持ちの「器」となること
まず、役所広司の北国の人の演技が素晴らしかった。三隅は、北国の人特有の紅く腫れた目と何を考えているのか分からない不気味さがありながらも、どこか賢者のような風貌を漂わせている。
言うまでもないが、本作は「カラマーゾフの兄弟」とキリストの贖罪を踏まえたストーリー展開をしている。三隅が本当に殺人を犯したかどうかは不明のままだが、殺害の実行行為を行っているかどうかはさておき、この人は他人の罪を引き受けることに全く抵抗がないようだ。おそらく、誰かの強い気持ちを心の器にそのまま流れ込ませることを容認し、相手と同化したまま行動してしまうのだろう。カラマーゾフで犯罪を行ったのがイワンなのかスメルジャコフなのかがはっきりとしないのは、この両者の意思が混然一体となり区別不能な状態となっているからだ。三隅にそうした能力があることは、福山演じる弁護士の考えをあたかも自らの考えとして表現するところからも読み取れる。
多くの人間は、人と対峙する際に当然ながら防禦壁を作り、自らの中に相手を必要以上に入り込ませないようにする。でも、三隅のように無防備に心の器を開く人もいるのかもしれない。それは、三隅が自分が失われる恐怖を信じられないくらい軽視しているからだ。だから、彼は、自分が死刑になることに対しても無関心な態度を取る。死刑と人の気持ちを量りにかけたとき、人の気持ちの方が重いと感じる人なのだと思う。
世の中には木嶋佳苗のように人の命をおそろしく軽く評価する人間がいる。とすれば、逆に自分の命を信じられないくらい軽く評価する人間もいるのかもしれない。自らの死をもって人の罪を引き受ける態度はキリストにも通じる面があると思った。
法廷で三隅が一転して無罪を主張した理由は謎だが、最後に三隅がアクリル板越しに福山と面会をした際に、小鳥を空に放つような手のしぐさをしたのは印象的だった。あれは、広瀬すず演じる女子高生を解き放つという意味だったのかなあと思った。
すごく色々と考えさせられるいい映画だった。