「ゾンビ映画としては傍流だが、悲しい運命を背負ったミュータント的な世界観」ディストピア パンドラの少女 Naguyさんの映画レビュー(感想・評価)
ゾンビ映画としては傍流だが、悲しい運命を背負ったミュータント的な世界観
年イチくらいは観たい、"ゾンビ映画"のバリエーションである。
原題は、"The Girl with All the Gifts"である。実にクールだ。邦題に、"デストピア"(dystopia)を冠して、どうしても終末世界のゾンビ映画だと伝えたいらしいが、蛇足だと思う。英題も、"すべての贈り物(才能)を受け取った少女"という奥ゆかしいものなのに、「パンドラの少女」と説明がましい。これじゃヘビメタの楽曲タイトルだ。
ゾンビ映画の楽しみは、"鬼ごっこ"と"かくれんぼ"要素がすべてであり、それ以上を求めるのは野暮だ。"単純なゾンビ映画だ"なんて感想は、ゾンビフリークじゃない。"単純上等"である。
本作のプロットは、観客が"ゾンビ映画の様式美"を知っていることを前提にしている。"様式美"とはすなわち、"終末世界"、"ゾンビは集団行動する"、"襲われたらゾンビ化する"、"エンドレス"である。
近年は、ウイルス(または細菌)感染を原因とするパンデミックを描いたものが多く、"生きた人間がゾンビ化する"ものが主流になってしまったが、個人的には本来のゾンビは、"腐った死体が蘇える"べきだと思ったり・・・。
それはさておき、本作はトレンドに沿った、"細菌感染"となっている。字幕や公式サイトも、"ウイルス感染"と混同している。"細菌"は自ら増殖できるが、"ウイルス"の増殖にはヒトなどの媒介が必要である。本作は"細菌"、しかも菌糸を持っているので、"真菌"である。このあたりを正確に認識していないと、エンディングで自己増殖している真菌がいることの意味が理解できないはず。
さて、主人公はメラニーは、細菌感染した人間から生まれたゾンビの第二世代(セカンドチルドレン)である。ゾンビ映画の主人公は通常、襲われる側(ノーマルな人間側)にいるものなので、ゾンビ側が主人公というのは、それだけで新種。ゾンビ映画としては完全に傍流である。
メラニーは、平時は人間として振る舞うが、生肉や生きた動物、その匂いに反応してゾンビ化してしまう。しかし我に返り、論理的に思考できる少女に戻る。ここがミソ。
そもそも原作の作家マイク・ケアリーは、DCコミックやマーベルコミックの作家のひとり(漫画家でもある)であり、X-menのストーリーメイクにも参加している。「LOGAN」(2017)で、X-menのウルヴァリンの血を引き継ぐ新世代のミュータントが現れたように、ゾンビの第二世代(セカンドチルドレン)であるメラニーが、背負った悲しい運命を描いた世界観は、"X-men"シリーズの延長線上にあるようにも思える。
ゾンビと人間のあいのこ。メラニーが、最終的に"選択する"、終末世界の支配者はだれなのか。"人類は地球のガンである"というテーマに対する、ひとつの答えが、この映画にはある。
(2017/7/1/新宿バルト9/ビスタ/字幕:高橋彩)