「いったい何を描きたかったのか…」海辺のリア rie530さんの映画レビュー(感想・評価)
いったい何を描きたかったのか…
主人公を演じる仲代達也は、半分地を演じているようなもの。J.スチュアートに焦がれて役者になった。そして並ぶ者ない名優として君臨した。
…でも実際は一人娘とかつては自分に憧れた弟子でもあったその夫、その他に若い女優に手をつけて産ませた娘がいる。その彼らを悩ませているのは主人公の患う「認知症」だ。
認知症を病み、既に「あちら」に行ってしまっている主人公は、居住する「老人施設」を出て徘徊する。でも自分が役者であったことは忘れておらず、老いを独りで迎えている自分をリア王になぞらえて一人芝居を打ち続ける。そこにやって来たのが愛人に産ませた娘。かつて子を孕み、それが原因で家族から否定され、今はその子どもも失い、愛する対象を父親の中にしか求められないコーディーリアとして、その娘は父親に寄りそおうとする。
さて、ここまでを見るだけで、この映画の作者が「認知症」という病とそれを介護する家族たちについて、ほぼ全くと言っていいほど知識がないことが露見しまくっている。
主人公は、娘の夫曰く「最高級の老人施設に入れた」ということになっているが、そもそも介護家族は「老人施設」などという言い方はまずしない。おそらくは介護付き特定有料老人ホームを指すのだろうけれど、そういうところに住まったら、まず徘徊などほぼできないようになっている。出入り口は通常ロックされるようになっているし、介護士やコンシェルジェが目を光らせているからだ。
そして映画では施設側が主人公が有名人であることをちらつかせて探すつもりがないということが示されているが、これも現実とは違う。こういうところは信用第一であり、他の入居者の家族の手前、徘徊中に事故など起こってしまっては大変なことになる。入居者は「お客様」なのだ。
映画の中では、車が正面玄関に乗り付けても、中からは誰も出てこない。これも「高級有料老人ホーム」ならあり得ない。
そして、在宅介護がとても無理な状態になって「施設」に入れた家族なら、本人に対して「だからいつも言っているでしょう」などという反応は絶対にしないはず。もう、そんな段階は通り過ぎてしまっているからだ。
そして何より「施設」に入れたことに対して「お父さんを捨てたのね」などという非難は、今どきよほどの田舎でない限りはほんとうにあり得ない。認知症の家族介護がどれほど大変なことか。一人娘は「悪人」ということになってはいるけれど、施設入所は「悪人」じゃなくてもやっている。ある意味では望ましいありようなのに。
つまりこういうふうに、認知症であるという設定を支えることがらが、現実や事実と大きく乖離している場合、いったい何が描きたかったのだろうと思ってしまう。認知症の悲惨さ?介護による家族関係の崩壊?主人公の運命とリア王との類似点?
主題だけがくっきりと鮮やかに描かれてはいるものの、それほどじっくり見つめなくてもその背景がとてつもなく雑で貧相なことが一目でわかってしまうような、そんな絵を連想してしまった。