「信仰とインモラル」エル ELLE よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
信仰とインモラル
イザベル・ユペール演じる主人公・ミシェルは、本人にとって全く有り難くない理由で有名人である。
そのせいで、彼女が何者であるかを赤の他人でも知っているのに、彼女は当然ながら他人のことを知らないという、情報の非対称が生じている。
この非対称性が、彼女のパーソナリティの形成に与えた影響は大きく、映画はこの特異な人物像を次第に明らかにしていく。
彼女を有名にした事件である大量虐殺という狂気に、その父親を駆り立てたものはいったい何だったのだろうか。このことに映画は深くは言及していない。
しかし、どうやらその昔に、父親の信仰が否定されたとは言えないまでも、近所の人々にとってはそれが少々大げさで、はた迷惑なものとされていたエピソードが語られる。
ミシェルが隣家の夫妻をクリスマスパーティーに招待した折、教会のミサをテレビ中継で観たがる妻とは異なり、夫はそうしたキリスト教に関わることに何の関心も示さない。後になってレイプの犯人が割礼したペニスの持ち主であることとリンクすることになる。
だがしかし、観客が瞠目すべきなのは、レイプ犯が隣人であったことではない。
重要なのは、敬虔なキリスト教徒である隣家の妻の信仰と倫理観である。つまり、彼女が夫の所業を知っていながら、その犠牲者であるミシェルとは平然と近所付き合いをしていたことと、彼女の信仰心の篤さの並存である。この妻は、信仰のおかげでこのような夫を持っても安らぎを得ることができると述べたかと思うと、ミシェルが夫の性癖に付き合ってくれたことへの感謝の言葉を口にするのだ。まともに聞いていたら開いた口が塞がらない。
「信仰」のお蔭で新しい一歩を踏み出せるという隣家の妻の安らぎが、ミシェルや他の女性たちのレイプ被害の上に成り立っているという恐ろしさ。それを人生の一部として平然と生きているさらなる恐ろしさ。
映画の登場人物の中では、信仰心を持ち合わせているのは、ミシェルの父親と隣人の妻の二人だけである。しかしこの二人こそが絶対に許されるはずもない行為や不作為の主であるといういかがわしさ。
ここに、神の存在が人々の信頼や融和には寄与していない現実を観客は見ることになる。
ミシェルは幼い日の経験によって、警察を信頼していない。だから、レイプされても警察に届け出ることをしない。
しかし、このことは表面的な理由に過ぎない。彼女の欲望は犯人への容赦ない復讐であることが、彼女の妄想としての灰皿のシーンで示される。
分かりにくいことかも知れないが、ミシェルのこの復讐への欲動と、暴漢に犯されることの性的な興奮は矛盾することなく、彼女の中で併存している。
終盤に彼女が隣人の自分に対する行為を警察に告発すると告げる。警察を信頼していない彼女のこと、これは男を煽り自分に危害を加えさせることを目論んだ挑発でしかない。
だが、いつになったら帰宅するのか分からない息子をあてにして、復讐を計画することはないはずだ。息子が帰宅したことによる悲劇は半ば偶然の産物である。ミシェルにとっては、万が一男に殺されることになったとても、パーティー会場から一緒に帰った隣人が捜査線上に浮かばないはずはないから、いずれにしても男を破滅させるという、彼女の復讐への欲求を満たすものであったはずだ。
驚くべきは、彼女にしてみれば、隣家の夫との迫真のレイプごっこが続くもよし、男に殺されるもよし、行為の途中でその男が息子に撲殺されるもまたよし、ということであろう。
彼女の欲求の前では、生への欲望も死への欲望も等価である。そんな彼女にとっては、セックスを求めて自分の職場へやって来た不倫相手の情欲をゴミ箱へ放り込むことなど、鼻をかんだチリ紙を捨てることと変わらない、取るに足らぬことなのである。
このようなミシェルだからこそ、血の繋がらないことが明らかな赤ん坊を自分の子として認め、我儘な妻との生活を決意する息子を支援するラストが清々しい。その夫を寝取った女友人との新たな生活で、以前は果たせなかったレズビアンの性愛を謳歌できることを願うばかりである。