「昔ながらのドキュメンタリー映画」ターシャ・テューダー 静かな水の物語 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
昔ながらのドキュメンタリー映画
「忙しすぎて心が迷子になっていない?」
この映画の予告でターシャが語る印象に残る言葉だが、これだけで条件反射的に映画館へ足を運んでしまう人もいたと思う。
ターシャはアメリカの有名な絵本作家らしいが、恥ずかしながら筆者はこの映画を観るまで全く知らなかった。
都会であくせくと生活している我々からしたら羨ましくなるような豊かな自然や愛らしいコーギ犬と共に暮らす彼女の静謐な生活に密着したドキュメンタリー映画である。
ドキュメンタリー映画には大きくわけて2つのタイプがある。
1つは撮影対象がテーマであるもの、今1つは対象が個人であるものである。
またアプローチ方法も大きくわけて2つある。
一方は寄り添うように淡々とカメラに記録し、今一方は働きかけをしてなるべく大きなハプニングをカメラに捉えようとする。
監督自身が映画の主役というマイケル・ムーアのような映画監督が出現して以来、対象がテーマであれ個人であれ、ドキュメンタリー映画の趨勢は働きかけの方向に傾いているし、年々その傾向は強まっているように感じる。
もちろん対象が個人の場合は信頼を得るためにまずは寄り添うのが絶対不可欠だが、いざ信頼されてしまえば製作側が働きかけて対象を大きく振り回してしまうケースが往々にしてある。
去年話題になった森達也監督の『フェイク』もハイライトは監督が働きかけて起きた展開である。
この手法はともすると「やらせ」とも受け取られかねない。
しかしこの映画にその心配は一切ない。
この映画を監督した松谷光絵が真の監督はターシャだったと語っているように、彼女の信頼に応えてカメラが辛抱強く丁寧に彼女の日常の姿を捉えていく。
はじめ筆者はこの映画を勝手にターシャと同じ外国人が撮ったものと思い込んでいたが、すぐに日本人の作品だとわかった。
外国人のカメラは遠慮なくはじめから踏み込むことが多い。
が、この映画のカメラは序盤に遠慮がちで相手との距離を探っていた。いかにも日本人的なのだ。
監督以下撮影陣がターシャのもとに着いた途端、まず彼女の長男セスが「取材は受けるけれど15分しか保証しない。それ以上はあなたたち次第」と語ったらしい。
むしろ日本人のこの撮影対象との距離の取り方がターシャの信頼を勝ち得たように思えてならない。
足掛け10年に及ぶターシャ一族を捉えた映像がそれを物語るし、撮影対象への節度ある距離の取り方(撮り方)は最後まで変わらない。
また花についた虫を捉えたワンショットなどターシャの周囲を飾る小さなものへの優しさ溢れる視線や日本人作曲家の手による静かな音楽、効果的に使用されるアニメーションなど細やかな心遣いはこの作品では見事に成功したように思われる。
ターシャ本人や彼女の生活への憧れは誰もが抱くと思うが、現実にはなかなかそれを真似できないし、その強靭な意志も持てないだろう。
少なくとも筆者には無理である。
せめてこの映画を観ている間だけは心を洗われたい、そう思わせる一服の清涼剤のような映画であった。