散歩する侵略者のレビュー・感想・評価
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侵略
なんかよくわからなかったけど、オチはだいたいの想像通り。
宇宙人にも元々の個体差があるところと、非宇宙人の男のキャストがことごとく無機質で胡散臭い人ばかりなのがすごくよかった。
いろんな概念を奪う事より、神父さんからは「愛」という概念を奪えない事の方がなかなかの皮肉だなと。
しかしある意味で究極のバッドエンドな映画。
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真面目に映画をつくるとこうなるのか、真剣に遊ぶとこうなるのか。勝手...
真面目に映画をつくるとこうなるのか、真剣に遊ぶとこうなるのか。勝手にしやがれシリーズを思い出す怪作ともいえるし、首長竜とも。人がたくさん。
劇団「イキウメ」の妙
個人的には「太陽」の方が良かったかな。説明っぽくなく、放り込まれる感覚は楽しめたし、役者さん達も引き込まれた。なのに、なんだろう…。
「愛」のくだりは好みなのだが、それ以外が何だか雑に感じてしまって勿体なかった。それでも、男だからなのか、桜井の内包する「愛」に感じ入ってしまったのは心地よかった。
話が壮大なわりに、映画の世界が狭い
日本映画だから、しょうがないのかもしれないけど地球侵略の話が、同じ町内クラスで3人の宇宙人って!!って、思ってしまう。結局は、愛の話なんだろうけど、イマイチ共感出来なかった。
面白かった。
面白かった。考えさせられた。
演説の部分が嘘っぽくて、よい。
痛みとか、死とかの概念の違いがよい。
最後がよくわからないのがよい。
また、突っ込みどころとして
何故あんなに病院パニックになってたのかな。とかあるけど、
面白かった。
輝きはないが…
いつものあの感じ、あまりにも淡々とした松田龍平の演技。
役柄のせいか?長澤まさみの演技にも今回は輝きが感じられず残念。テレビドラマで魅せたあの独特の生命力溢れる魅力を期待していたが…。
ホラーの監督作品らしい場面は、疲れた身体には少々きつかった。
夫婦愛は宇宙人の心をも溶かすということなのか。
観終わってから、色々な思いが浮かび考えさせられる作品。
世界観やセリフは良い
原作は劇団イキウメの演劇ということを知った上で鑑賞しました。
世界観や哲学的な会話は楽しめましたが、映画的演出のチープさが好きになれませんでした。
ある日宇宙から侵略者が来て、知らないうちに人間に紛れ、人間から概念を奪っていく。という設定はどこかのSF小説でありそうですが、それを演劇でやった劇団イキウメはすごいのでしょう。
私自身演劇には疎いので、劇団イキウメという名前を聞いたのは、同じ劇団原作の映画太陽の時です。
限れたスペースでやれることの限られらる演劇でSF作品を表現するのは難しいと思っていたのですが、今作では演劇の限界を最大限に生かしたSF設定だと思います。
その中で、概念を奪うという何とも哲学的なことを会話劇中心で進めていくのは演劇っぽいところではあります。
そんな原作を映画化した本作はさぞ、映画的な演出を加えているのかと思っていたのですが、期待しすぎでした。
確かに会話劇は面白い。概念を奪うという抽象的で難しいことを、セリフだけで何となくでも理解させることには成功していると感じます。
所有の概念を失った引きこもりの若者が、所有と概念がないからこそ言える戦争反対の理論など、ハッとさせられる言葉や哲学的な深い言葉が全編を通して散りばめられています。
しかし、それは演劇というリアリティラインが低く、大抵が許せるからこそ成立するのであって、映画というリアルを追い求める昨今の映画的には違和感を感じてしまうことの方が多い。
そのようなセリフを言う場面で急に台の上に乗って大声で叫んだりするとこは演劇的ですが、映画内においては、概念を奪われた以上の異変が起こっているようにしか見えなく、どうにも腑に落ちない。
と言うのもすぐにわかることですが、どうやら概念を奪うのは侵略ではなく、人間を学ぶためだと言う。
侵略者自体も概念を奪うことで、どんなことが起こるかわからないと言う。
しかし、普通に考えてある一つの概念が奪われただけでそんなにも奇異な行動を人はするものなのだろうか。
概念などの難しいテーマを扱っているわりには、その辺の説明はなくどうにもやりきれない。
さらに説明不足だと感じたのは、三人?三匹?で侵略の前段階をしていると言うことだが、彼らが概念を奪ったにしてはことが大きくなりすぎな気がしてしまう。中盤病院に駆け込む場面で、いかにも終末的な病院パニックが起きているが、三人が概念を奪った人たちがそんなに多いとは考えられない、少なくとも視覚的にはそんなシーンはなかった。
そこがさらにモヤモヤを加速させてしまいます。
何よりも納得がいかないのは、あんだけ概念概念言っといて、いざ始まる侵略は、安いチープな特撮でミサイルみたいなのが飛んでくるだけって、、、。
そう言ったエイリアンの侵略モノなら、ハリウッドレベルまでとは言わないまでも、もう少し映像作りを頑張って欲しかった。抽象的な侵略で人類を滅ぼそうとするだけではダメだったのだろうか。
そっちの方がよっぽどそれまでの話しと会っていたような気がします。
総じて、セリフには一定の面白さがありますが、映画としてはつまらない作品だと思います。原作が演劇なのできっと演劇なら純粋に楽しめるのでしょう。
そう思って、イキウメの何度目かの再上演「散歩する侵略者」のチケットを探したら全日程売り切れてました。
演劇の方を機会があったらぜひ見て見たい。そう思える作品でした。
変な映画
変な映画。ぶっちゃけ最近観た映画の中で一番好きだったんだけど、これって一般受けはしないのかな…?設定の突拍子もなさといろいろ巡ってからの結論のチープさ(あるいは普遍さ)としては絶対に舞台でやった方が面白いと思うのだけれど、キャストが宝箱すぎて最高。前川知大節のエクスタシー。
極上のエンターテイメント
64本目。
この秋一番のおすすめ映画。
昨日見て、今日レビュー書いているのだが、
まだ余韻が残っている。
正に、極上のエンターテイメントを味わった気分だ。
見に行って良かった。
日々是好日。
愛ですよね
全然関係ないかもしれないけど、あらゆる戦争を終わらせたり止めたりできる唯一の救いが愛だよと監督は言いたかったのかなと思いました。
今こういう時代だからこそ、愛だよと。
そんなメッセージを感じました。
映画でこんなストレートに愛を語るってかっこいい。
黒沢監督好きだわとあらためて思いました。
宇宙人も普通にごはん食べるんだ
宇宙人の地球侵略を描くホラーSF映画かと思いきや「愛」を描いた映画でした。人間愛というより、もっと大きな愛。
平凡過ぎる日常が一気に破壊される、その危険が知らない間に忍び寄っている感覚は今の日本のようで怖かったです。なんとなくあるかもという思いが一気にきてしまう感覚が怖かった。
人間中心の独善的な考えが戦いをもたらすとも。どこかの国の独裁者、大統領、首相の顔が浮かびました。この映画、とってもタイミングよく作られたようです。意外な拾い物と言っては失礼ですがオススメです。
映画『散歩する侵略者』評
☆映画『散歩する侵略者』(2017年松竹・日活その他/黒沢清監督作品)評
-闘争に明け暮れる現代の地球人の反動として侵略者が知る愛と友情で結ばれる事の優位を黒沢清監督は冷徹な眼差しである夫婦をパラダイムとして極めて聡明に描いて観せる。或いは映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る映画が僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるのだ。黒沢清監督にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう-
これは映画が映画であることの優位を示唆する為に愛の概念を構築する事で成立する越境性に満ちた夫婦愛の確認をパラダイムとして加瀬夫婦に従事させる作業を実に聡明に描いた黒沢清監督の1950年代の映画の経済学を遺憾無く発揮させた近未来映画の傑作である。それはこの年代の近未来映画の殆どがB級予算で成り立っていた事実を世界映画史を敷衍させる事で証明させた彼自身の映画の記憶装置の披瀝であるだろう。
ここには卓抜なフォルマニストとしての黒沢監督の相貌が実に端的な表象体系で刻印されている。それはジャーナリストである桜井氏が宇宙人の男性・天野氏と女性・立花氏により地球ガイド役に抜擢される辺りから遍在する過剰性溢れる記号体系として扇風機や車のハンドルそして常に外さぬサングラスや自らが運転するバンのルーフに設置されたパラボラ・アンテナに代表される円形への固執である。
それはガイドとして責任を負った自負と共に宇宙人は勿論地球人の暗殺組織からも守られる守護神的な代替作用を及ぼす記号として君臨しているのだ。コミュニケーション能力の育成が博識な知性と正義の人としての他者性を纏ったこの人物にヒューマニズムの痕跡が窺えるのだ。
ここに越境の美学を感得するのも人類の英知を司る人間愛の根源を認識するからに他ならない。そこには例えばスティーヴン・スピルバーグ監督が『E・T』で示す人差し指でコミュニケートする宇宙人を不覚にも天野氏に演じさせるのと同じ引用作法で同監督の秀作『未知との遭遇』に於けるフランソワ・トリュフォー演ずる科学者の優しい視線が桜井氏のサングラスの奥底で見つめる双眸にも酷似している気がするのだ。
同様に地球人の女性ガイドに抜擢された加瀬氏の妻・鳴海氏もこの桜井氏の女性版をなぞる如く宇宙人を自称する夫・真治氏を寛容性に富んだ献身的な姿でバックアップするのもポスト・モダンな生活が育んだグローバルに満ちた性格によるものかも知れない。そこには他者性は勿論妻の座が行使するジェンダーの優位性を説く事で夫婦の紐帯をその視線の交錯により醸すのだ。この包容力溢れる女性性が振る舞われる事で真治氏はラスト近く不覚にも彼女から愛の概念を盗み取る仕儀に至るのだ。
そんな彼女がラストでは宇宙人の夫との倒錯的関係に陥り茫然自失した姿で夫に介護される時この逆転の構図は観る者に夫婦の視線の戯れを殆ど沈黙で描く事でこの越境的な説話的磁場を病院というトポスに配置する黒沢監督の慧眼が発揮される。この磁場にはまさしく愛の概念が執拗に纏い付いておりそのラストシーンが冷徹且つ簡潔であればある程黒沢監督作品に通底するナラトロジーが実に心地良く確認できるのだ。それは感動を催すに足る極めて豊穣な最期と謂えよう。
そこに至るまでの軌跡がこの荒唐無稽とも謂える物語を虚構とは一線を画するリアリズムで彩るのもそれが黒沢作品の真骨頂でもある説話的磁場に概念をも透かす独自の倫理観に基づく普遍性を露呈させるからに他ならない。
単純化と聡明さへの希求が映画にテクスト化された現実性を操作する為に偉大なる先達の映画の引用行為に及ぶのも彼の映画文体の特徴とも謂えよう。例えば殆ど豪快とも思える立花氏のマシンガンの炸裂には黒沢監督も魅せられたに違いないリチャード・フライシャー監督の犯罪映画やロジャー・コーマン監督作品『血まみれギャングママ』の記憶が息づいていよう。
そして加瀬夫妻の愛情の高まりを示す愛の概念の伝授にはジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のベッド・シーンや或いは同監督の『アルファビル』のモチーフが綿々と引き継がれている。
これらを全て包含するこの映画の黒沢清監督は映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る。そこに他者性に富む視点をカメラに仕込む事で独自のリアリズムを構築させるのだ。
その時映画は僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるだろう。彼にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう。
(了)
ストーリーテラーのタモさんは?
映画版『世にも奇妙な物語』でしたね。
あのテーマソングが流れてきてもおかしくない!!
特撮雑!笑っちゃう!
設定、内容はおもしろいですけどね。
最後にあのテーマソングが流れれば逆にオモシロイ!!
B級映画でしたね。
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