散歩する侵略者のレビュー・感想・評価
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実は宇宙人と人間の純愛映画?!
一見タイトルや映画の番宣を観ても日本映画のSF?の様な感じの印象が強く一体どんな映画かと恐る恐る観に行ったと言うのが本音です。
のっけから人間の姿形をした宇宙人の残虐な一家殺人から始まり、かなりPG15やR18色が強く感じられるシーンから始まりますが、、、長澤まさみが演じる鳴海の夫の真治(松田龍平)との絶望的な夫婦関係を、真司の体を支配する宇宙人が少しずつ、その夫婦関係を修復するという結果になっていきます。宇宙人は三人いますが、真治の体を支配した宇宙人は、その中でももっとも温厚な宇宙人なのですが、少しずつ鳴海の、自分自身である夫真治への愛を感じ始めます。真治(宇宙人)は自分が真治になってしまったのか、それとも真治の体を支配しているのか、よくわからなくなってしまうのです。
鳴海も自分が宇宙人であるという夫の真治を半信半疑認める一方、やはり宇宙人ではなく真治が本当に改心してくれたのだと思っているのです、むしろ、改心したと信じたいのだと観ていて思いました。
最後のシーンは、、ぜひ観てください。私はやっぱり『愛の概念』について、そうなったかと思いましたが、、最後の最後のシーンは、宇宙人の真治なのだと思います。
宇宙人も普通にごはん食べるんだ
面白かった。確かに面白かったけど…これはやはり舞台劇だ。
いや面白かったですよ。いい意味でも悪い意味でも面白かった作品。しかしこれは、残念ながら映画としての面白さではなかった。
元々この作品は舞台原作と聞いているが、その延長線で劇団芝居を映画の体でみせられてる感がハンパないのだ。ほら、劇団新☆感線を映画で観ようみたいな感じ。
純粋に映画作品という視点で見れば、何より黒沢監督の詰めの甘さが目立つ単館「インディーズ映画」という趣か。間違ってもロードショウ作品ではないのは確か。
とにかくガンアクションや兵器の描写が雑、すべてに「映画的なリアリティ」がない。映画にガチガチなリアリティは必要ないが本当に見える(思える)ウソは必要なのである。それがないととたんにチープで稚拙になってしまう。
まずマシンガンで撃たれて動き回るのはまぁ「エイリアン憑依してるからね」補正でいいけど、銃創がまったく違う。今時マンガでもあんな銃創は描かないよ。
唐突に登場するブレデターの放つミサイルはターゲットをまぁ外す外す。あれは衛星と連携した必中兵器なので、まずターゲットはずさない。仮に直撃はなくても普通は爆風で簡単にバラバラになるか衝撃で死ぬ。爆風で衣服は吹き飛び裸状態になる。しかもこのブレデター、エイリアンばかりを狙い、横で怪しげな怪電波を出してる中継車は放置かい!衛星監視してたんだろ!と小一時間(笑)
何よりこの唐突な日本の監視衛星設定がもうね、あまりにご都合過ぎ(笑) アメリカ映画の見過ぎだろう。走り回る車をそう都合よく衛星は見つけられない。監督は「衛星軌道」という言葉を知らないらしい…。
とにかくこの辺、監督の不勉強さに呆れる。あまりに詰めが甘いというか、脳内ご都合主義すぎる設定と演出だ。
それからCGがクッソしょぼい。泣きたくなるほどしょぼくて、終末に襲ってくる火の玉の到来などはもう一昔前の東映の特撮モノか!と突っ込みたくなるほどの表現でズッコケた。失笑モノである。
それから…これは特に言いたいのだが、撮影監督がひどい。なんか眺めてるような撮り方に終始してるし、ハンディはぶれぶれだし。人物をうまく押さえきれてないから心理描写もいまひとつ弱い。なんでこんなの使ってるのか?
それでもまぁそこそこ面白かったのは、実は前出の通り「舞台劇を引きずっていたから」というなんとも皮肉なものだった。そこで唯一この映画をSFファンタジーとして担保できたのじゃないかと思う。うん、ぜひ芝居の方も観てみたいものだ。
───以下、その他雑感
長澤まさみ怖かった(笑) 彼女は怒ると三白眼になるのね。あとどうにも声が嫌いなんだよなぁ…キツい嫁な役にはぴったりか。旦那が浮気するのもまぁ…
この映画で光っていたのは、長澤まさみでも松田龍平でもなく、意外にもエイリアンを演じる高杉 真宙だった。その個性的な顔立ちと飄々とした演技で存在感があった。ダメなジャーナリスト役の長谷川博巳との掛け合いもなかなか面白かった。これからに期待。
映画『散歩する侵略者』評
☆映画『散歩する侵略者』(2017年松竹・日活その他/黒沢清監督作品)評
-闘争に明け暮れる現代の地球人の反動として侵略者が知る愛と友情で結ばれる事の優位を黒沢清監督は冷徹な眼差しである夫婦をパラダイムとして極めて聡明に描いて観せる。或いは映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る映画が僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるのだ。黒沢清監督にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう-
これは映画が映画であることの優位を示唆する為に愛の概念を構築する事で成立する越境性に満ちた夫婦愛の確認をパラダイムとして加瀬夫婦に従事させる作業を実に聡明に描いた黒沢清監督の1950年代の映画の経済学を遺憾無く発揮させた近未来映画の傑作である。それはこの年代の近未来映画の殆どがB級予算で成り立っていた事実を世界映画史を敷衍させる事で証明させた彼自身の映画の記憶装置の披瀝であるだろう。
ここには卓抜なフォルマニストとしての黒沢監督の相貌が実に端的な表象体系で刻印されている。それはジャーナリストである桜井氏が宇宙人の男性・天野氏と女性・立花氏により地球ガイド役に抜擢される辺りから遍在する過剰性溢れる記号体系として扇風機や車のハンドルそして常に外さぬサングラスや自らが運転するバンのルーフに設置されたパラボラ・アンテナに代表される円形への固執である。
それはガイドとして責任を負った自負と共に宇宙人は勿論地球人の暗殺組織からも守られる守護神的な代替作用を及ぼす記号として君臨しているのだ。コミュニケーション能力の育成が博識な知性と正義の人としての他者性を纏ったこの人物にヒューマニズムの痕跡が窺えるのだ。
ここに越境の美学を感得するのも人類の英知を司る人間愛の根源を認識するからに他ならない。そこには例えばスティーヴン・スピルバーグ監督が『E・T』で示す人差し指でコミュニケートする宇宙人を不覚にも天野氏に演じさせるのと同じ引用作法で同監督の秀作『未知との遭遇』に於けるフランソワ・トリュフォー演ずる科学者の優しい視線が桜井氏のサングラスの奥底で見つめる双眸にも酷似している気がするのだ。
同様に地球人の女性ガイドに抜擢された加瀬氏の妻・鳴海氏もこの桜井氏の女性版をなぞる如く宇宙人を自称する夫・真治氏を寛容性に富んだ献身的な姿でバックアップするのもポスト・モダンな生活が育んだグローバルに満ちた性格によるものかも知れない。そこには他者性は勿論妻の座が行使するジェンダーの優位性を説く事で夫婦の紐帯をその視線の交錯により醸すのだ。この包容力溢れる女性性が振る舞われる事で真治氏はラスト近く不覚にも彼女から愛の概念を盗み取る仕儀に至るのだ。
そんな彼女がラストでは宇宙人の夫との倒錯的関係に陥り茫然自失した姿で夫に介護される時この逆転の構図は観る者に夫婦の視線の戯れを殆ど沈黙で描く事でこの越境的な説話的磁場を病院というトポスに配置する黒沢監督の慧眼が発揮される。この磁場にはまさしく愛の概念が執拗に纏い付いておりそのラストシーンが冷徹且つ簡潔であればある程黒沢監督作品に通底するナラトロジーが実に心地良く確認できるのだ。それは感動を催すに足る極めて豊穣な最期と謂えよう。
そこに至るまでの軌跡がこの荒唐無稽とも謂える物語を虚構とは一線を画するリアリズムで彩るのもそれが黒沢作品の真骨頂でもある説話的磁場に概念をも透かす独自の倫理観に基づく普遍性を露呈させるからに他ならない。
単純化と聡明さへの希求が映画にテクスト化された現実性を操作する為に偉大なる先達の映画の引用行為に及ぶのも彼の映画文体の特徴とも謂えよう。例えば殆ど豪快とも思える立花氏のマシンガンの炸裂には黒沢監督も魅せられたに違いないリチャード・フライシャー監督の犯罪映画やロジャー・コーマン監督作品『血まみれギャングママ』の記憶が息づいていよう。
そして加瀬夫妻の愛情の高まりを示す愛の概念の伝授にはジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のベッド・シーンや或いは同監督の『アルファビル』のモチーフが綿々と引き継がれている。
これらを全て包含するこの映画の黒沢清監督は映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る。そこに他者性に富む視点をカメラに仕込む事で独自のリアリズムを構築させるのだ。
その時映画は僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるだろう。彼にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう。
(了)
自動機械と
概念言語を獲得してから1万年。言葉の自動機械化となった現代人の多くは損得だけで内発性なんてないわけだ。そこに侵略者が催眠療法的に変性意識をコントロールされ概念を奪われる。奪われるということは、ゼロになることで、その概念を獲得する以前に戻るということだ。離陸前とおんなじ着地点に戻る。言語を獲得したが故に空洞化した表層の記号にとらわれる。「家族」「自分」「所有」「仕事」。最期に「愛」がなくなる。なくした者が言語を獲得するする前の子供に戻り「何も知らないが故の自由」に振る舞う姿。そこで問われるのは、概念言語をインストールする前の「なにも知らない状態」を幸せだと感じるのか。あるいは言語をインストールして、言葉の自動機械=損得勘定でしか動けなかったが、それに自覚して自己受容して、メタ認知的に自分を修正して、自発性から内発性に動く、それを幸せに感じることができるのかどうか。もうひとつの見所は最後の「愛」の概念の消失について。
キリスト的な言葉で定義した愛ではなく、内側からわき上がる愛だから当初の長澤まさみの考えた愛のイメージは「内発的な愛」であり、消えることはなかった。しかし、時が経つとなくしてしまった。侵略者が獲得した愛は継続的であった。
時間が経つと内発的な愛はなくなってしまう。常に愛のための訓練作法が必要であるということだろうか。非常に気付きが多い映画。ノアハラリさんのサピエンス、フロイトラカン的な言語解釈とその作用副作用の知識がなければ他のレビューになってしまう。社会学者宮台さんはどう観るのか。
ストーリーテラーのタモさんは?
これが黒澤清、、かな
心理学的実験としては面白い
長澤まさみは単細胞でエロいだけのキャラクターを卒業しつつある。本作品でも強気なだけではない脆さや弱さを抱えた複雑な女心をうまく表現できていた。
日常的なヒロインとは対照的に、ストーリーは奇想天外に進んでいく。本来の姿を見せず人に乗り移って侵略を進める宇宙人のやり方が面白い。
人間の意識は身体を媒介とした五感の記憶で成り立っている。記憶の塊を分類し体系化することで世界を認識していく。同じものと違うものを区別出来るようになるのだ。三毛猫とチンチラペルシアでは見た目がかなり異なるが、両者を同じ猫として認識できるのは分類と体系化の能力によるところが大きい。いわゆる概念である。
概念は人によって異なるものである。人間とは何かについて10人に尋ねたら、10通りの答えが返って来るだろう。様々な概念についての個人個人の捉え方の違いが、即ち世界観の違いとなる。人間とは何か、決定的な答えが得られることは決してない。
人間は概念をひとつひとつ自分のものにすることで成長していく。ひとりの人間の中での概念は互いに連繋してひとつの思想を形作ってゆくのだ。だからパンドラの匣みたいにひとつの概念だけが思想や世界観を救うことはない。
終わり方に迷った挙げ句、底の浅い予定調和みたいなラストになってしまったが、映画のアイデアとしては秀逸だし、心理学的な思考実験として捉えれば、なかなかの傑作である。兎にも角にも長澤まさみがとてもよかった。
びっくりした。
全く内容把握せず
俳優さんで選んでしまったばかりに
あんな内容だったとは……
最初から分かっていたら
見なかったかも…自分のミスです。
しかも、オープニングから
めちゃくちゃエグくて…しまったー!
こういうやつだったかー(笑)って思いましたが
オープニングだけで他はエグくなかったので安心しました。
ホラー選んじゃったのかな?ってびっくりしました。お腹の赤ちゃんに悪いし!
だって、ポスターパット見!
宇宙人何て思わないじゃん!
なんか、感動作品って思うしー(笑)
でも、最後は
宇宙人から道徳心を学んだよーな
作品でした。
無理矢理感動場面を作った感じだったので
おいおいっておもったけど
結局流されて涙が…(笑)
宇宙人は、愛の概念には、かなわなかったってこと??
宇宙人にしっかり人間の概念を与えて
教育していけば
けっこういいやつなの?とか
勘違いしちゃうけど?(笑)
こういう映画でも長澤まさみの演技はすごいと思ってしまいました。
意外とけっこうな有名俳優がそろわれ、それにもびっくり
こんな映画にこんなに俳優が出るのかって
何様だよっていうコメントをすいません(笑)
原作星新一のような世界観かな
全く予備知識なく見に行きました。元々は原作者の劇団での演目、小説が原作となっているものなのですね。
侵略者というワードからウルトラなオタクの仲間内から「ウルトラセブン意識してるよね」「実相寺監督風味なの?」と言われていたのを小耳に挟んでいた位です。
予備知識なく観た感想
◆役者さんが最初から最後まで豪華でほお~と感心
◆どこかで見た顔かと思ったら、鎧武のミッチが!ファブリーズのCMの子が!(笑)頑張っているねえ😊
◆淡々と色々と進む
◆松田龍平がケムール人のように走っていた
◆淡々と終わった
SFなの?ハートフルな物語なの?何だったの?と思って、かつてこのようなテイストの作品を読んだ記憶があって、思い出してみたところ…
星新一の物語が世界観としてほぼ一緒なのではないかと思います。
と言うより原作星新一な映画だと言っても違和感無いと思いました。
ただ映画としてはどの客層にアピールしているなのか…多分カテゴリー的にはラブストーリーなんだと思います😊
特筆して面白いと言う作品ではありませんが、日常の当たり前の小さな事が幸せなのだと、思い出させるための映画だったように思えました。
愛は地球を救うのか。
前川知大の舞台が原作で、黒沢清監督なので難解かと思ったけど、意外と分かりやすい。
宇宙人が人類を侵略するために、先に3人を送り込んで人の研究の為に『概念』を奪い取る。
そっと触れるだけで、その人の意識から概念を抜き去る。
夫・真治(松田龍平)が宇宙人に代わった妻・鳴海(長澤まさみ)は、破綻した夫婦関係に悩んでいたけれど、記憶を無くしたと思っていた真治がだんだん良い人になっていき、失っていた愛情が芽生える。
宇宙人の松田龍平が、たどたどしい動きをしたり、少しずつ人を理解しながら散歩したりする気の抜けた演技がとても良い。ほとんど無表情。
高杉真宙も宇宙人。ジャーナリスト(長谷川博己)をガイドにして、着々と侵略の準備を進める知性派。冷たい表情が怖さを醸し出す。
都会ではない場所で起こる出来事に、周りの人は意外と無関心。
殺人があってもその後は描かれずに、ひたすら宇宙人の暗躍を軸に進む。
人からと概念を集め、理解した後に仲間と交信し、いよいよ侵略が始まるとなった時に、鳴海は真治に愛の概念を抜き取らせる。
侵略は突然中止になったらしい。
気の抜けた鳴海を介抱する真治。
愛を知った宇宙人が、気持ちの変化で侵略を止めたのか、真治は宇宙人のままなのか、謎は残るけれど、見終わった時は気分が良い。
首チョップで『ワレワレハ・・・』
演劇芝居からの移植作品である。多分、今後もこうした話題に登った戯曲作品を映画としてリメイクしていく流れは続くのだろう。それが悪いという訳ではないが、問題は構造上、演劇と映画の決定的違いである『観客に想像力を要求する』ことにおいて、その辺りの組立て方にかかってることなのではないだろうか。具体的には、舞台という空間の中でいくつものシーンを展開する芝居と、実際にロケーションを変化させて話が進む映画。前者は観る人の想像、妄想は千差万別であり、後者はある一定の世界観を共有することになる。建付が異なる表現手段をどうやってコンバートすればよいのか、それこそエンターティンメント界では試行錯誤が続いているのである。
そんな中での今作。結論からいうと余り巧く組上げられなかったのではないだろうか。アイデアの一つである『概念自体の窃盗』というのが、これほど演劇的でありしかし映画的にはスケール感の小さいものになってしまったのではないだろうか。そのアイデアをベースに、『愛』という概念を主要テーマに構築するには盛り上がりに欠けるように思える。余りにも大風呂敷を拡げすぎたせいか、深みが感じられなかったのは非常に残念だ。
付け加えていうと、チョイ役の俳優陣の豪華なこと・・・ 無駄使いを禁じ得ない。
なんて愛すべき映画なんだろう
監督と長澤まさみさんの登壇ありの上映会にて。
今年一番感動しました。現代の映画のほとんどに出てくる“愛”をこれほど真っ直ぐに、斬新に描いている。その愛に涙が止まらない。
タイトル通り、散歩するように侵略をしていく宇宙人なのだが、もちろん彼らは人類の敵。なんてったって人類を滅ぼそうとしているのだから。しかし、その侵略者たちは人間に何を気づかせてくれたのだろうか?
まず、満島真之介演じる丸尾だが、彼は引きこもりらしい。真ちゃんは丸尾の家に入ろうとするが止められる。そこで真ちゃんは疑問に思う。「なんでこの家は丸尾のものなのか?所有とはなにか?」
そして、所有という概念がなくなった丸尾はどこか清々しい。所有という概念があるから憎しみが生まれると堂々と演説する丸尾に引きこもりの影はなくなった。
概念が奪われたこれらの人を見ると、これから普通の生活を送れるように見える。丸尾は宇宙人に感謝しているし、生まれ変わることができたのだ。
宇宙人としては悪気しかないのだ。人類を滅ぼすための生け贄として概念を奪って行くのだから。
そして、これからも数人、様々な概念が奪われるのだから鑑賞中、なぜかその侵略を楽しんでいる自分がいる。それは、まさにSFの醍醐味と言える地球人の常識に逆らうような結果が見れるから。奪われる概念によって反応が違う点がエンターテイメントとして純粋に楽しめる。
そして、鳴海と真治の愛の喪失と再生の物語が美しい。とはいっても、真治は宇宙人ではないか?あるシーンで、自分が真治のような気がしてきて、一体化してるような気がするというセリフがある。つまり、これこそが普通の状況では育めない愛であるということに感動が押し寄せる。いつもどこかに行ってしまう夫を毎回「どこ行ってたの〜」と言ってあげる鳴海が本当にいい。デパートのようなところで真治が鳴海を抱きしめてあげるシーン。とにかく大好きです。
いままでうまく手に入れられなかった愛を手に入れたと同時に手放したという真実。そして愛こそが人間の全てかとでもいうような極端な表現。まさに極論だが、自分を見つめ直してしまう。
桜井と2人の宇宙人のシーンと鳴海と真治のシーン。この2つの対比がとにかく安心感と高揚感を併せ持っていて居心地がいい。
最後に、素晴らしいと思うのがラストの桜井。あのシーンは何度考えて見ても映画を超越していると思う。彼はまさに人間としてではなく、生き物として人生を選んだのだ。あの時の彼が素の桜井でも、宇宙人に乗っ取られていたとしても、心に響く。
SF映画として、とにかく美しい映画。
ある程度承知の上で鑑賞したのだが
タイトルなし(ネタバレ)
予告のチラ見のみの
鑑賞でしたが
うん
嫌いじゃない‼︎
宇宙人役の
松田龍平イイ‼︎
どハマり(笑)
概念を奪うと
あんな事になるものなのだろうか?
なんか釈然とせず
モヤモヤ感は否めなかったけど
それで
オチがわかってしまったので
マッタリ進行がしんどく
も少しテンポアップしてくれても
良かったかも
東出くんは
感情が無い役はハマるね
淡々と語ってたが
チョット何言ってるか
わかんないんですけど〜
みたいな(笑)
結果読み取れないの
ワロタ‼︎
長澤まさみが奪われた
概念のように
消えて無くなるまででも
一緒に居たい‼︎って
思える気持ちが
愛なのかな⁇
宇宙人のリアリティ
原作の舞台版は再演を観劇済み(って言ってもほとんど忘れてたけど)。
演劇は日本人が欧米人を演じても、素舞台を「ここは未来都市」って言っても、観客が想像力で補填してくれるので、荒唐無稽な設定も受け入れられやすい。でも映画はそうはいかない。
同じイキウメの映画化でも、入江悠監督の「太陽」はもう少し映画にしやすかったと思うけど、この話は何しろ宇宙人が人間を乗っ取って地球に侵略してくる。そんな話をリアルな現代日本の話として映画にするのは並大抵のことじゃないと思う。
それをここまでリアリティを持って観られたのは、なにより役者の力が大きかったと思う。
まず「しんちゃん」の松田龍平。「身体を乗っ取った宇宙人」役に、これ以上適任な人はいない気がする。何を考えているのか分からないし、立っているだけで違和感がすごい。
怒ったり戸惑ったりしながら夫に対する想いを変えていく長澤まさみも、半信半疑で宇宙人と行動を共にするアウトローな長谷川博己もよかったし、飄々としつつ人間を観察する宇宙人の高杉真宙も印象に残った。
ただ、「概念を奪われる」というのがどういうことなのか、いまいち納得がいかないというか。
例えばデザイン会社の社長が「仕事」の概念を奪われた途端子供みたいに遊びだしたけど、「仕事」の概念がなくなったからってあんなに白痴化するのは違うような。
「何やってたんだろ、馬鹿馬鹿しい。会社は解散。旅行でも行ってくるわ」って会社を出て行くとか、もっと違うアプローチがあった気がする。
あと、ラストの侵略シーン。火の玉みたいなのが飛んできて、「え、火!?」ってなった。人間には姿も見えないような別次元の宇宙人なのに、攻撃は火の玉なの?っていうか、火だと人間以外の生物も死んじゃうし、火で焼くんなら人間の概念とか知る必要ないような。。
「その星で一番知能の高い生物を調べて、それにより侵略するか残すか決める」ってことなのかなぁ。
一番好きだったのは、長谷川博己演じる桜井がそのへんの人に「こいつらは宇宙人だ!早くしないと手遅れになる!」って演説した後、「一応言ったからな…」と呟いて、普通にまた宇宙人と合流する所。
いやいやいや…wと思いつつ、人間ってこういう不合理なところあるよねーと、妙に納得してしまった。
でも実は、なるみも桜井も最終的には自ら宇宙人に協力してたように見えて、本当は少しずつ洗脳されてたりして…。
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