「自由と平等の精神」未来よ こんにちは 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
自由と平等の精神
ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」は、少しでも哲学を学んだ人なら必ず読むであろう世界的な名著だ。かくいう私も中学から高校の間に何度も読み耽った記憶がある。だからこの本が象徴的に使われていることに、とても好感を覚えた。
フランスは哲学の国である。有名なシャンソン「パリの空の下」には、橋の下にひとりの哲学者とふたりの音楽家、それに大勢の人々が集まって歌うという、日本人からしたら殆ど意味不明の歌詞がある。哲学はそれほどフランス人の日常に馴染んでいるということだ。当然ながら高校にも哲学の授業がある。そして主人公は高校の哲学教師である。
この映画のポイントは、フランス人は日頃から哲学的にものを考えることに慣れているということだ。それを理解しないと、議論と講義ばかりの鬱陶しい作品になってしまう。
主人公は加齢による肉体の衰えを意識しつつ、仕事をこなし、家のことや離れて暮らす母親のことも疎かにはしない。その母親はかなりの老齢ながらも新しい服を買い、おしゃれをして、女としての尊厳を失わない。このあたりはいかにもフランス的である。
主人公は若い人と接するときも夫やその他の同年代の人と接するときも、態度が同じだ。相手の意見を聞き、自分の意見を主張する。自分の意見と同じように相手の意見を尊重する姿勢があり、立場の如何にかかわらず、意見を意見として受け入れる精神の自由さがある。
18世紀のフランスの哲学者フランソワ・ヴォルテールの言葉として有名な「あなたの意見に賛成するところはひとつもないが、貴方がそれを言う権利があることは、私は命を懸けても守るつもりだ」という名言は誰もが知っているだろう。民主主義の根幹の概念である言論の自由を端的に表現した言葉である。言論の自由とは、寛容の精神が広く定着することなのだ。
主人公は肉体が衰えつつも、自由と平等の態度を崩さない。意見が違う人に対して怒りを覚えることなく、人として親切に平等に接するためには、精神のタフネスさが必要である。フランス人は専制政治から脱するための運動の中で、自由と平等を守り抜く精神力を培ってきた。言論の自由の精神は、200年を過ぎてもまだフランス人の精神の中核をなしているのだ。
現在のフランスは極右勢力が台頭しつつあると報道されているが、フランス人の自由と平等の精神が生き続けている限り、そう簡単には極右に蹂躙されることはないだろう。むしろ心配なのは日本である。
人々の寛容の精神力が衰えると、自由と平等の社会を保ちつづけるのが難しくなる。他人の権利を尊重せず、自分の権利ばかりを主張するようになるのだ。国家レベルでも同じことが起きる。それを右傾化と呼ぶ。極右とは不寛容の思想に等しい。国会での首相のヒステリックな答弁を聞くと、寛容の精神を失っていることがよくわかる。精神的に後退しているのだ。
ところで、日本人が専制政治と戦ってきた歴史があったか? そもそも自由と平等を重んじる寛容の精神を培うことなく、歴史に流されるままに自分の利益だけを追及してきたのではなかったか?
いろいろと考えさせられる、哲学の国ならではの映画である。