アウトレイジ 最終章のレビュー・感想・評価
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ヤクザもグローバル化の時代
面白かったなぁ〜
ヤクザたち、一人一人の腹の中と個性が面白かった
主人公の大友が「仁義の男」なところがシリーズで一貫してて良かったし、
ヤクザの時代も終わりなんだなぁと思わせつつも
「まだ死んじゃいねーよ」って声が聞こえそうな、新しい時代を感じさせる終わり方も良かった。
ヤクザの世界もグローバル化していて、もう警察との古い関係は終わったし、ぼんやりしてたら外資に飲み込まれてしまう
そこをうまく渡り歩ける人間がきっと生き残る
「アウトレイジ」シリーズの面白さは、そういうヤクザを通して、日本社会の現状を感じ取れるところにあるんだなと毎回思う
深みも凄みもない
無理矢理作りました感がハンパなかった。一作目、二作目にあった一言のセリフからくる深み、重みや詰り合いの迫力、凄みが全くなかった。こうした最後にしないと、また続編作ってくれって言われるから、仕方なく最終章を作りました、って感じ。
エンターテイメントにもなってない全くの駄作。
シリーズものの最後って得てしてこんな感じなのか。
大森南朋、ピエール瀧は良かった。
最後、自分用の忘備録として、館内一人きりという貸し切り状態で初めて映画観ました。
単純な勧善懲悪などない
水戸黄門的な勧善懲悪を求めてはいけない作品。
そもそも大友は善ではないのだ。
普段から伏線とその回収に慣れていると納得できない展開にも思えるが、
よりリアルを追求すると人間の思考や行動など案外こんなものなのかもしれない。
監督がやりたいことを最後まで貫いた作品。
万人ウケするはずもないが、そんな作品が身近に観られること自体が凄いことなんだと思う。
アウトレイジ最終章
バカヤロー言いてぇだけじゃねーかコノヤロー!!
ヤクザの抗争じゃなくて風俗店店長の仕返し映画だった。銃撃ちすぎ。
今回そんなグロシーン無くて見やすかった。ストーリーは有って無いような感じ。いちゃもんつけられてからどんどん発展してく感じ。
西田敏行は年取ってたな。ピエール瀧はいい役だった。原田泰造とかは無駄すぎる
面白かった
前作に引き続き鑑賞。山王会と花菱がまあ縮小されていて、ビヨンドで相当殺されたのだと改めて実感。
今回は裏切り、裏切られ…といった手法?演出?が面白かった。花菱が大友によって徹底的に殺られてしまったが、最終的には大友が自殺といった大友なりの終結で、納得のいくラストだった。
だが、アウトレイジビヨンドよりもヤクザの迫力に欠けた。
塩見さんと西田さんはやはり本物か?と疑ってしまうほどの演技力。
ヤクザって大変
この映画を観た若い人がヤクザの世界に憧れるだろうか。上下関係は厳しそうだし、組織の上部にたどり着かない限り良いことはなさそうな上に、マシンガンで簡単に殺されてしまう恐れもある。損得勘定でいったら割に合わない職業だと思うだろうな。
主人公の北野武が演じるヤクザは、損得勘定に一切興味なし。筋を通す事が最重要だと思っている。生き方に全くブレがなくて潔い。それに敵対する人々はブレまくりな訳で金に執着心はあるは、良いところを見つけたくても見つかられない。
そんな人間など殺されてしまえ。という観客の願望通りの展開で、笑いあり、行間を埋めるような印象的な風景あり、さらには北野ブルーといわれる色調も健在で面白くみた。
男性中心のキャストになるのは仕方ないが、女性が主要な役で登場してもよかったのではと思うくらい男性中心の映画だった。ヤクザと女性はツキモノと思っていたが、そうした場面は一切出てこないで、ひたすら関西弁で凄んでいたような映画だった。
人間をいとも簡単に殺してしまうのが、今日的なのだろうか。とってもドライな世界だった。若い人は目指さないだろうな普通。
3部作として
アウトレイジは劇場で全部観てきたので今回も劇場にて観賞。
やはり前々作、前作からのバイオレンス度はないがドラマの作り方は北野監督作らしいなと。火薬田ドンの引用じゃないか!みたいな部分があったので個人的には所々にクスクス笑える部分があったのは良かったのかと。
とりあえず安定の3.5で。
ただしシリーズを観ないと面白さがわからないかもしれません。
映画『アウトレイジ最終章』評
☆映画『アウトレイジ-最終章-』(北野武監督作品)評
-この映画は『アウトレイジ』シリーズの悼尾を飾るに相応しい北野武監督という彼自身の映画の自叙伝的相貌を語るに適したテクストの乱舞が荒唐無稽さと傍若無人さを装う事で成立する叙事的特権を観る者は歓喜の内に見出だすだろう。「最終章」とは終焉を諦念で纏う特権をも凌駕する強靭な映画への意志が貫かれる時に露呈される極めてナラタージュなプルースト的な失われた時間を追い求める北野武監督の気概に満ちている。それは決して徒労に終わらぬ結晶としてこのシリーズが映画史上に君臨している事実からも明らかであろう-
このあられもない非情さと冷徹さを徹底させたこれは逆光の映画と謂っても過言ではないであろう。事の発端を飾る花田氏のマゾヒズムは映画全体取り分け主人公・大友氏の自虐的殺戮をも促しそこには組織と個の交錯に齟齬をきたす時覚醒されるマゾヒズムとサディズムの錯綜する映画のアルケオロジーを極めて冷徹でグレイ・ゾーンの色調の中に塗り込めるまさに最終章に値する佳作である。
先に掲げた逆光が駆動させる外光を通す窓が四角張るフォルムを顕示する時のアンバーなライティングが役名という固有名詞を弥が上にも強意の対象とする。そこにはこのシリーズがいかに散文映画としての強度を遺憾無く保っていたかが如実に実感できるのも映画が虚構空間を維持する為の説話的磁場を醸す記号の飽和をこの映画は実に巧みに奮っているのだ。
例えば車体に対する官能性は一作目『アウトレイジ』を恰も懐古するかのように踏襲させている。その証拠にこの映画のタイトル・バックも黒い車体のルーフの真俯瞰により提示される。車が人間と同化されるのも登場人物から走る行為を回避させる事で成立する映画の運動性をこの車自体が担っている。それは速度を欠くが故の停滞と逡巡を辺りに波及させる効果を伴っておりこの映画の主題体系とも謂えるのだ。
それは先に挙げた懐古とは異質な映像に時空間を麻痺させる眩暈にも似たクロノジカルな耽美さの表出だとも謂えよう。そこにはこの人物達が属する社会が担う即物的な殺しの美学さへ醸し出され実に叙事性に富む物語の回復を活性化させる。
液体が醸す殺戮への序曲は冒頭の大友氏と市川氏が防波堤で糸を垂らす釣りの場面から匂い漂う。そこでは銃が玩具にも酷似した記号として幼児的特権を彼等にまとわす時釣りの静寂さとは対称的にその銃声そのものがトーキー映画のカタルシスを生成する。ここに北野映画のブルーへの傾倒と共に銃へのフェティシズムが明瞭に語られるのである。この静寂と喧騒の均衡が映画内映画という虚構のテクスト化を目論む北野映画の意匠を推進させるのだ。
この海水はやがて気化され常に画面から回避される空の雲の一部となる。そして次に我々の目の前に現出するこの記号体系に準ずるのが花菱組の鉄砲玉・河野氏の刑務所からの出所パーティに於ける屋外の場面の豪雨。大友氏と市川氏は花菱会にまさに血の雨を降らすかのようにマシンガンで組員を撃ち殺す。この場面には人と人というよりも組織化された集団を一刀両断に駆逐するカタルシスの権化が確認されるだろう。
それはかつての傑作『ソナチネ』のホテル内の暗闇で一人組織にマシンガンで挑む男が北野武氏本人によって演じられたという事実を改めて反復に近い状態で行使する事でこの監督の日本映画界に於ける孤絶さとその出自を画面に刻印させるのだ。そこには彼自身の映画の為のプロバガンダが主張されていよう。
そしてラストの海を臨む倉庫街での大友氏のピストル自殺も北野武監督自身の広告とも準えるべき『ソナチネ』の最期に呼応する。そこには液体が催す死への欲動装置としての海が醸す女性性が映画という魔物に対する北野武監督の諦念にも近い動揺と共に確認できる。この諦念こそが映画の視線を獲得する活性化の対象である事も見逃せない。そこに存在するのは映画が虚構空間の申し子である事実をリュミエール以来のあくなき探求心で観る者の眼前に披瀝する際に発動される記号との馥郁とした戯れへの固執が導く諦めであろう。
又観る事への誘惑を常に映像化するこの希代の名監督の意匠は敵対する人物を対峙させる時に映画が孕む緊張の強度の高揚にある。冒頭の花田氏と大友氏の対峙をそれぞれ正体で捉えるカメラの乾いた質感とモンタージュにはフィクションが貢献するエイゼンシュタイン的な理知性をあっさりと放棄する感性の魔力が息づいている。それは殺気立つ両者の因縁の無償化を根拠立てていよう。その証拠に大友氏が花田氏をベッドに括りつけ爆死させる時の殺戮が卓抜な省略技法で成される映画の経済的文脈に露呈されている。
この対峙する者同士のカタルシスの排除は西野若頭と野村会長との腐れ縁による組内の対立から発展した抗争劇の場面でも遺憾無く発揮される。それは殺戮への欲望装置とも謂うべき雨中の場面。
ここでは深作欣二監督の名作『北陸代理戦争』のハイライトでもある雪中での身体を土中に埋め首だけを外気に曝す事でその顔が恰も人名という固有名詞に繋がる匿名性とは裏腹な記号的特権を露顕させる。その雪と土という自然そのものを暴力装置化させる殺しの手段の聡明さを雨に変換する事で野村会長の無力を露呈させる時の倒錯的な殺戮場面に換言できよう。
この眼鏡が印象的な首だけが覗かれる野村会長こそは殺意の記号体系を液体とするこの映画の主題とその固有名詞的な顔面を矩形の画面の表層に曝す事で記号と虚構空間を幾重にも融合させる襞にも喩えられる夜景の場面。ここにこの映画のもうひとつの主役でもある車体の疾走が認められる時この首をはねる瞬間を音のみで処理する北野監督の映画の経済的示唆は実に誠実さに溢れている。それは彼の尊敬する深作監督へのオマージュであると共に1950年代のハリウッドの犯罪B級活劇への憧憬がほのかに見て取れるのだ。
この対峙と省略という文体がこの映画に犇めく空間芸術は映画誕生以来把握できる映画の特性でもある。それは無声映画が持つ映像の魔術であると共にトーキー以後数多の映画が発揮してきた音への執着が実に大胆不敵に捏造されたまさに温故知新な北野監督の自作への解答とも受け取れる自己のテクスト化作業の解析でもあろう。
この映画は『アウトレイジ』シリーズの悼尾を飾るに相応しい北野武監督という彼自身の映画の自叙伝的相貌を語るに適したテクストの乱舞が荒唐無稽さと傍若無人さを装う事で成立する叙事的特権を観る者は歓喜の内に見出だすだろう。
「最終章」とは終焉を諦念で纏う特権をも凌駕する強靭な映画への意志が貫かれる時に露呈される極めてナラタージュなプルースト的な失われた時間を追い求める北野武監督の気概に満ちている。それは決して徒労に終わらぬ結晶としてこのシリーズが映画史上に君臨している事実からも明らかであろう。
(了)
役者達が良かったです。
淡々とテンポよく進むストーリーに、名脇役達の安定した演技で、最期まで楽しめました。
確かに、加齢や体調的に、やや心配になってしまう感じの方もいましたが。
金儲けや権力争いに明け暮れる人々に対し、昔気質の義理を重んじる主人公の描き方も良かったと思います。
まぁまぁだけど映画館で見た方が良い
前作ビヨンドから5年も空いてしまったことが影響してか前作からうまく引き継げていないよう感じた。
ピエール瀧が演じた花田は今まで出てきていないタイプのキャラクターで今作の中では一番のよかった。
もう一人か二人くらい若い俳優を鉄砲玉でつかって欲しかった。原田泰造も悪くないけどあの役はもう少し若い人がしないと違和感がある。
恥ずかしながらアウトレイジシリーズを今回初めて映画館で見たがやっぱり家で見るより何倍も迫力が違うなと改めて思った。なので映画館で見ることを勧めます。
マンネリの馬鹿野郎映画。不調の北野武。
私はこの監督の映画は全て観ていますが、この「アウトレイジ 三部作」は全く、評価できません。視覚に訴えることなく、話し言葉の語尾に「馬鹿野郎」をくっつけて、ただ、ひたすら凄むという単純極まりない演出にはほとほと呆れました。この演出でまさか三作も撮ってしまうとは・・・。暴力を扱った映画でも、コッポラの「ゴッドファーザー」やサム・ペキンパーの諸作品の持つ「滅びの美しさ」というものは全くありません。
北野監督はこの悪い流れから、抜け出して、早く新境地を切り開いてもらいたいものです。「その男、凶暴につき」を観たときに味わった興奮は本物だったのですから・・・。
脇役に興奮
アウトレイジシリーズは初めて劇場で鑑賞。
元々、ヤクザ映画が大好きでありアウトレイジ以外はほぼVシネを鑑賞です。
アウトレイジシリーズでは最終章は今までと少し違う雰囲気でした。でも面白かったです。
それよりも、Vシネ好きの私としては脇役に興奮してました。
日本統一シリーズの本宮泰風、山口祥行、白龍、古井さんとか他にもよくでる人だらけ(笑)
序盤から途中までアウトレイジと日本統一のコラボかなんか?と他のお客さんとは違う視点で見てしまいました。キャスティングとか北野たけしは日本統一見てるんですかね?
これ、キャストを豪華にした日本統一じゃん!
と、誰にも共有できず1人興奮する私でした。
迫力がなさすぎる
北野武の作るヤクザ映画アウトレイジも完結編。
前2作が好きだったので、期待値が高かったかもしれないが、ピンとくるものがなかった。原因は脚本じゃなくて俳優陣の演技だろうな。皆歳をとりすぎている。実生活で入院している俳優に迫力ある演技を求めること自体が間違いなのかも。歳をとったら、とったなりの静かな演技で迫力を出してほしい。啖呵をきるシーンの迫力のなさにゲンナリした。
これで終わりでちょうどいいかもしれない。
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