「「気配」の不思議。」息の跡 comeyさんの映画レビュー(感想・評価)
「気配」の不思議。
ひどく不思議な記録映画。ひとことで言えば、映画という形態には不可欠と信じられてきた「物語」をどれくらいオープンにできるか、ナラティブ構造をどれほど解体できるか、をめざして作られた作品。
ここでみる陸前高田は、たとえばNHKを筆頭に日本のTV局で数限りなくつくられてきた「震災ドキュメンタリー」の類とは、まったく似ても似つかない姿として差し出される。性急なまとめ・解釈を考えるより前に、その土地の気配を愚直に記録しようとする。
その「記録」の中には、記録者である作り手の存在も含まれている。観客は作り手と一緒に、震災後の被災地の空気を生きる。これが現代ドキュメンタリー映画の最前線につらなる感覚と手法であるのは間違いない。
同時に、その「見る側に解放されたナラティブ」をつくる試みが、あまりに曖昧で茫漠として見えかねないことも、作り手側は分かっているだろうと思う。
主人公の、ときとして真偽定かでない雄弁は、いったい何なのか。あの震災は、被災地で暮らす人々にとって何だったのか。作り手がその答えの一端に、ある確信をもってたどりついていないかぎり、映像が軸を失ってしまうことは避けようがない。
そうした確信があってつくられた映像と、そんな確信はないまま自分でもこれは何だろうといぶかしがりながら作られる映像とは、やはり別のものなのだ。
ただ、やはり人生をかけて土地の人々のそばに立つ記録者が、時としてみごとなショットを呼び込んでいることは確か。水滴にまみれたレンズがとらえた、雪の中の獅子舞の人々。白鳥たちに餌を投げる主人公。忘れがたいシーンは数多い。土地の気配を、物語にならないまま、気配として共有することのできる希有な作品と言うべきか。