光(河瀬直美監督)のレビュー・感想・評価
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素晴らしい!!!!
全てのシーンに魅力が詰まった映画で、本当に本当に本当に素晴らしかったです!!!!
「見ていたい、感じていたい、忘れたくない」、、、こんな純粋な想い、私たちは日々感じてるでしょうか。永瀬さんの純度の高い演技に、胸が熱くなりました。
映画の素晴らしさを劇中で言葉にしてるんですけど、言葉だけじゃなくて映像や音からもぐんぐん伝わってきて、もう受け取れないんじゃないかっていう心地よい疲労感も感じました。
一番大切なものを失う瞬間。言葉にならない苦しみが涙に変わる。でも、永瀬さんの声が優しく響いて、もう本当に愛しかったです。二人の幸せを心から祈ってしまいました。
珠玉の作品です、、!明日を精一杯生きたい、迎えたいと思いました。
重すぎるわ(笑)
観ていて息苦しくなった。
何度も席を立とうと思った。
ただ、河瀨直美が最後に用意した答えを信じて我慢した。
壮絶な喪失の体験を乗り越えるなんてあり得ないのかも知れないと思った。
ただ、それが難しいんだ。苦しいんだ。
でも、抱えながら、勇気をだしてその時その時に前に進むしかないんだ。
うっすらと差し込む光を浴びながら、逃げずに進むしかないんだ。
どうだ、と言わんばかりの全編緊張感みなぎる映像。ただし、押しつけがましいかと言えばそうではない気がする。
永瀬正敏、すごい。カメラを取り戻す場面、泣いた。カメラと別れる場面、驚いた。弱々しい一歩目、素晴らしかった。
弱々しくも歩き出すしかない時ってあるもの…。
ただ、観終わって、かるーい映画みてえと思ったのも事実…。
アップが多い演出の理由を考察
20代後半(と思われる)尾崎美佐子(水崎綾女)は、視覚障碍者向けの映画音声ガイドをつくる仕事をしている。
今回の映画は、ベテラン北林監督(藤竜也)が自ら主演した介護に係る映画。
北林監督の作品は、これまで同様、余韻や余白を残した映画で、音声ガイドを作るのは難しい。
視覚障碍者のモニター方々の意見を交えながらつくる音声ガイドであるが、今回のモニターの中に、ひとり気難しい男性がいた。
彼の名前は、中森雅哉(永瀬正敏)。
以前は一線で活躍していた彼だが、目の病から仕事から退き、いまはほとんど見えていない。
拡大読書機などの助けを借りて、文字を読み取るのが精いっぱい。
しかし、愛用の二眼レフ・ローライのカメラは手放していない。
そんな彼から美佐子は厳しい一言を受ける。
「押しつけがましいんだよ、君の音声ガイドは・・・」
というところから始まる物語で、映画の王道ともいうべき、価値観の異なる二人が出逢って、互いの価値観を受け容れつつ、自身が変化していくという物語だ。
なので謳い文句にある「河瀬直美監督が挑む珠玉のラブストーリー」というのは、少々誇張しすぎかもしれない。
ストーリーの基軸をなすふたりの異なる価値観(生き方といってもいい)は次の通り。
中森は、徐々に見えなくなっていく現状(否、もうほとんどみえていない現状)を受け容れずに、これまでの自分を生きる支えとしている男。
常に携帯しているローライのカメラが、その証である。
美佐子はまだ若く、人生の曖昧さ(余白と言ってもいい)を理解していない。
それは音声ガイドにも表れ、晴眼者は視覚障碍者よりも「見えている=わかっている」と思い、「自分の」わかっていることを伝えよう(得てして、押しつけに繋がる)とする。
そして、映画に対しても、余白や余韻や曖昧さを排除して、何らかの確固たる結論(いわゆる「希望」などの言葉で象徴される)ものを欲しており、それが良いものだと思っている。
そんな二人が出会い、結果として、曖昧であるが(曖昧でかつ、か)確固たるものを得るというのがストーリーで、その曖昧で確固たるものの象徴が「光」である。
キャッチーに言い換えれば「愛」かもしれず、その意味では「珠玉のラブストーリー」も嘘ではないが、もう少しかみ砕いていえば「他者に対する理解」である。
そういう物語を、紡ぐ河瀬直美監督の演出はすこぶる上手い。
それまで自分主体の話法であった監督が、前作『あん』で(失礼ながら)ようやく第三者的話法を会得したのかしらん、と思ったのだが、本作ではそれを一歩進めている。
第三者の立場になるように、観客を追い込むような演出方法を取っている。
その方法がアップの多用。
しかしながら、アップの多用というのは、ほとんどが台詞をしゃべる話者を追うという手法で、この手法を採れば登場人物の内面に肉薄できると勘違いしがちな手法。
だが、この映画でアップで映し出される多くは、話し手以上に聞き手。
つまり、画面から得られる情報が極めて少ない。
特に、美佐子が音声ガイドを作っている北林監督の映画の画面は、意図的に隠され、何が写っているのかは、観客にわからないにしている。
これによって、観客を、映画の中の視覚障碍者と同じポジションに追い込んでいく。
画面から得る情報が少ないことで、観客は、それ以外の情報(台詞、それ以外の音(雑音や息遣いも含めて))などい集中せざるを得なくなってくる。
これが、監督が意図した「、観客を第三者(登場人物たち)の立場になるように追い込むような演出、である。
この演出意図さえわかれば、もうあとは、劇中の登場人物になって観ていくだけだ。
そうして、美佐子と中森の価値観が変わるところ(中森の場合はカメラから白杖に変わるのでわかりやすい)に心動かされ、最後の最後に、完成した北林監督作品の音声ガイドを聴けばよいだけだ。
そのラストにしても、「それ」は見えていない。
見えていなくとも、そこに「ある」ことが感じられればよいのだ。
光とは。
アクターの演技力
着目点は素晴らしい。が恋愛模様を描くのは苦手?
真ん中よりも後ろの席で観て欲しい
「萌の朱雀」で魅了されてから
河瀬直美の作品は定期的に観ている。
娯楽色が薄い作風なので
気軽に友人に勧めたりも出来ない。
前作の「あん」もそう。
派手さはないけれど
あんなに余韻を楽しめた映画は
なかなかないと思った。
劇場の薄暗い照明の中とはいえ
恥ずかしいくらい号泣したのを
覚えている。
なのでどうしても
前作と比べてしまうのだか
前作を超えられたかというと
難したかったかな。
前作「あん」では
樹木希林の神がかった
演技に魅了された。
今作ではその役を
永瀬正敏に期待した。
期待しすぎたかもしれない。
そのぶん水崎綾女は
期待以上の女優さんだった。
いつもながらの河瀬直美の
演技を感じさせないセリフ周り。
この空気感が好きで
見に来たんだなと再認識。
音声ガイドをみんなで
話し合いながら決めて行くシーンは
ホントにドキュメンタリー番組の
ワンシーンを見ているかのよう。
その中での水崎綾女。
自分の仕事の力量の無さを
指摘され悔しさで涙するシーン。
まるで自分がその会議に
参加しているかの錯覚を起こすくらい。
それほどリアルで生々しく
これぞ河瀬直美という感じだった。
かなり人物に寄ったアングルの
画面構成に賛否あるよう。
私も序盤はとても見辛かった(^^;;
張り切って前の方の席を
キープしたもんだから尚更のこと(^^;;
物語が進んで行くうちに
これが中森の見ている世界?
なのかもと思った。
これから見る方には
真ん中よりも少し後ろの席を
お勧めします(^^;;
さすが河瀬直美!
という作品だった。
だからこそ!
あそこでのキスシーンは
本当に必要だった?との思いが残る。
しかも貪るようなキスシーン。
せめてたどたどしく触れ合うくらいの
キスシーンなら...。
けれど観て欲しい映画。
今まで知らなかった世界が覗ける。
河瀬直美初心者なら
前作「あん」を観てから
劇場に行って欲しい。
さっぱり解りませんでした
永瀬正敏の迫真の演技力
ある映画の音声ガイドの脚本をつくる仕事をしている女性。私は今回、偶然にも字幕つきの上映を見ることができたのだが、これは、音声を聴くことの出来ない聴覚障がい者用のバージョンだったわけだ。台詞も音響効果も字幕で読むのは忙しいことがわかった。
この作品では、視覚障がい者が多くでてくる。
映画を音だけで楽しむというある意味、一般の観客より高度に作品世界に入り込んで鑑賞する上級の観客たちである。キャラクターを半分以上自分で作り上げ、建物や景色を自前で作り上げる。
光を失った世界で生きている人々。私にはなかなか想像出来ない世界である。しかし、この世の中には、視覚や聴覚を失って生きている人たち、失いつつ生きている方々も大勢いる。想像力や記憶力では健常者とは比べものにならないすごさがあるような気がする。
この作品では、視覚障がい者用のガイドをつくる仕事と視力を失いつつあるカメラマンという二つの主要なテーマを交互に見せている。
これに、主人公の痴呆症の母親と老いの進んだ映画監督に老いたる人の代弁をさせている。
カメラワークは特殊だったが、とてもためになりました。
『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』ジャック・デリタ 河瀨直...
『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』ジャック・デリタ
河瀨直美監督のカンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作『光』を観てきた。
思わず唸ってしまう佳作に心がゆすぶられた。
僕は、映画は映画館で観るのが断然好きなのだが、
最近は映画館でもバリアフリーに気を使った映画館も増えているし、車いす専用のスペースを設けていたり、
障碍者の方にとってまだまだ不充分だという声も聞かないこともないことにはないが、
以前に比べて配慮されているように思える。
最近は聴覚障碍者を主に配慮する目的で、スマホなどに専用アプリをダウンロードすると、
端末のマイクが音声を拾って、専用メガネに「日本語字幕」「外国語字幕」「手話映像」を
表示したりする優れものもあるよう。
しかし、主な表現手段を視覚に委ねて観る者に伝えるのが映画や絵画、彫刻、写真などの芸術である。
視覚障碍者にその表現を言語で伝えるむつかしさがすこし理解できたように思える。
様々な「光」が演出される映画だった。光を失いつつある弱視を患うカメラマンの雅哉(永瀬正敏)と、
視覚障碍者のための映画音声ガイド制作者の美佐子(水崎綾女)。この二人のつながりを、
まさしく「光」でもって描いている。
山肌に落ちていく落日、部屋の中に西日が差し込み、部屋に吊るされたプリズムの中を通過する光の反射。
弱視のカメラマン雅哉が“俺の心臓”と言わしめたローライフレックスのファインダーを通して見える光・・・。
でも、この作品は雅哉と美佐子の魂の想像力と共感性に「光」を当てたのだと思う。
劇中、美佐子の作った音声ガイドに雅哉は
「そのガイド、今のままではじゃまなだけです・・・その解釈はあなたの勝手な想像でしょう」と
容赦ない批判を向けてくる。確かにそうなのだ。その情報は美佐子の主観に過ぎないのだ。
美佐子は「あなたは表情がない。想像力がないのではないですか」と反論する。
しかし、同じガイドスタッフから
「あのね、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きているのよ」と諭される。
伝えることのむつかしさをこの一場面が雄弁に語っていた。
映画を通して手持ちカメラが多用されていた。
ドキュメンタリータッチの手法で創作にリアリティさを演出しているカメラワークは役者の演技を引き立たせてた。
ひとつ気になったのがこの映画のキャッチコピーは「珠玉のラブストーリー」となっている。
だれやこんなコピーつけたのは。どこ観とんねん。この映画の主題は「ラブストーリー」ではない。
舞台は河瀨直美監督のふるさと、奈良県がベースとなっている。
エンドロールのロケ地に天理市がテロップされてた。
僕が高校・大学を過ごした場所でもある。(柔道ばかりしてたけど 笑)
すごく懐かしく映像を見ていた。
いいなぁ、あの夕日が里山に消えていくやさしい光にまた会いたくなってきた。
河瀬監督に一言。最後に樹木希林を使うのはずるいな(笑)
永瀬正敏の光を失った目
視力を失った有名カメラマン中森と視覚障害者向けに映画の音声解説の文を作る女性、尾崎美佐子の出会いの話。全体的に暗くて重い。中森の作った解説文を、実際の視覚障害者の意見を聞いて改善していく作業を軸に話が進む。他の視覚障害者が美佐子に気を使って当たり障りの無い意見を言う中で、中森はズカズカと忌憚ない意見をぶつける。その意見は美紗子の視覚障害者の想像力を理解出来ていないことからのものだったが、美紗子は反発する。中森は中森で視力を失ってもまだカメラにこだわり、心が頑なになっている。そんな頑なな中森の意見を素直に受け容れられず、反発する美佐子の未熟さが痛々しかった。
他のエキストラさんらしい視覚障害者のモニターの方々も個性的でリアルだった。特に場の雰囲気を和ませようとする中年の女性。喋る時、微かに口の端に泡を作るのだけど、障害ゆえに周りの反応を見て気にするということが出来ないんだろうなと想像出来て、本当の視覚障害者ならではの演技だった。またこの女性、場を和ませるだけではなく、結構鋭い意見も言ったりして侮れない所も良かった。
中森と美佐子が交流を経て、中森はカメラへの拘りや頑な心を和らげ、美沙子は自分の未熟さを受け入れ視覚障害者への偏見を見直し、中森という人間も理解していく。まわりくどくも感じるところもあったけど、丁寧に描いていると思う。
永瀬正敏の演技が良かった。ちょっと近寄り難い影を持つ中年男の演技ならこの人、という存在になった^^
見事!
冒頭から結末までひとつの円のように繋がった見事な作品である。
主演の永瀬正敏は去年の映画「64ロクヨン」や「後妻業の女」では物語の鍵を握る重要な役柄を上手に演じていたが、本作品ではさらに一段上の演技に昇華されている印象を受けた。
かつては高い評価を受け、それなりの名声と地位を得たカメラマンが、カメラマンの命とも言うべき視力を失おうとしている。いまは微かに見える視力にすがって、いつまでも見ていたいと願う気持ちがあり、自分は時間を切り取るカメラマンだという自負もある。一方ではまったく見えなくなることへの不安と恐怖がある。非常に難しい役柄だ。
他の登場人物も鋭い洞察力と感性に溢れる役柄ばかりの中で、唯一凡庸な登場人物が相手役の尾崎美佐子で、意図したものかどうか不明だが、プロの中にひとりだけ素人が混ざったような演技をする。最初の打ち合わせのシーンで特にそれが目立った。
劇中映画の監督兼主演役の藤竜也は、大らかで優しい、思索に満ちた役柄で、訪ねてきた美佐子を掌で転がすように応対する。そこにまた美佐子という役柄の軽さが出てしまう。
そういった演技が、映画が進むにつれて彼女の気持ちが変化するのを表現するために必要な演技なのかどうかは評価が分かれるところだが、もしこの見事な映画に僅かな疵があるとすればそこだろう。
しかし美佐子を演じた水崎綾女の演技自体はそれほど悪くない。特に涙を流すシーンは、それぞれのシーンの涙の理由や心情をよく表現できており、美佐子が肩肘を張って仕事を頑張っているプライドだけの女性ではないことがわかる。目に力のある女優さんで、哀しい笑いや嬉しい泣き顔などができるようになれば、もっと演技の幅が広がって、今回の役者陣とも渡り合えるようになるだろう。
映画のハイライトは、カメラマン中森が美佐子に請われて連れて行った山で、これまで大切にしていたローライフレックスの二眼レフを夕陽に向かって投げ捨てるシーンだ。ずっとカメラマンとしての自分にこだわり続けてきたが、見えなくなったいまとなっては、カメラマンとしての生き方を捨て去るしかない。カメラを投げ捨てたのは自分自身にそれを覚悟させるためだ。横にいた美佐子は、捨てたカメラの方向に顔を向けながら黙って佇む中森の表情に、たったいま過去と訣別した男の孤独な魂を見る。そして深く気持ちを揺さぶられる。
冒頭の映画館のシーンの続きがラストにやってくる。美佐子が悩みに悩んだ劇中映画のラストシーンの音声ガイドの言葉だが、ようやくここで結論が出る。劇中映画の終りが映画の終りである。途中でもさんざん涙が流れたのに、この結末にさらに涙が溢れ出る。カンヌ映画祭でスタンディングオベーションが10分も続いた理由がよくわかる。輪を描くようなストーリーと映画のタイトルがひとつになった、忘れ難い印象の作品である。
失われてゆくものほど美しい
今回河瀬は失われてゆくものの美しさというものを描いている。
前回の「あん」の内容に通ずるものは、少しはあるものの作品の奥深さは格段に素晴らしいではないか。
今回は、フィルムの音声ガイドを仕事としている人間に焦点を当てているが、導入部の巷の情景とその風景の説明。作品にずるずると引き込まれていく安心感というのかゾクゾク感が堪らない。
尾崎から中森へのテスト映像のラストのガイドについて無音部分が続くが「(みる側の)想像力に任せるlと言う尾崎の意見に対する中森の厳しい指摘。中森の言い分に納得。
終盤に向かって、中森と尾崎が見た風景で彼が、夕陽に向かって「心臓lを投げ捨ててしまう場面に涙がこみあげてきた。
帰り道写真を撮りたくなった
音声ガイダンスの試写モニターのシーンがあまりにリアルで、指摘も的を射ていてまるで私がダメ出しされているような気持ちになった。
上司のトモコさんの優しい笑顔に救われる気分に。
ハンデの無い私たちには目が見えない人のことを完全に理解することはできないけど、その距離をできる限り詰めてお互い寄り添うことが大切なんだと思った。
中森の僅かに残っていた視界が閉じてしまったときはそのショックや恐怖が伝わって少し震えてしまった。
最後の上映シーン、美佐子が考え抜いたガイダンスの言葉が素敵だった。
映画に小説の文章を作って加えるようなものでいかに大変かがわかる。
樹木希林のナレーションだと知りびっくり。耳障りのいい声だった。
ただ、イマイチ分かりづらかったシーンも多かった。
セリフや表情が詩的で少しわざとらしく感じてしまい、互いに惹かれていくさまも少々強引に思えた。
美佐子と中森、傷のあった二人が同じ光を見て前に進むことができているので良かったけども。
役者の演技は最高で、美佐子が中森に軽くシャドーボクシングするシーンは可愛くてお気に入り。
詩的な表現はあまり好みに合わなかったけど、重くもあたたかい内容は心地よく観て良かったと思える映画だった。
熱い映画だった
ぎてもう少し長めで恋愛模様も繊細なほうがよかったかも。
耳で観る映画
この映画を観終えたとき、私は「耳で映像を観る」という感覚を初めて味わった。その時見た景色は、時間を経た今となっても、私の脳内で鮮やかな残像となって生きている。
しかし『光』を観た人全員が、これを体験できるわけではない。ラストシーンで、耳で映像を観る境地に至るためには、上映中に映画の作り手が鑑賞者に課してくる「試練」に耐え続け、観客自身が能動的に「耳で見る能力」、すなわち聴覚情報から見えないものを見る想像力を身につけねばならないのだ。
ではその試練とは一体何なのか。それを説明するため、ストーリーを追いながら、この映画のミザンセヌ(映像の構成要素)を、分析していくこととする。
痴呆症の母と別居して暮らす、主人公・美佐子(水崎綾女)は、視覚障がい者のための「映画の音声ガイド」の制作に携わっている。最愛の妻を亡くした老男性の姿を描いた映画、『その砂の行方』のガイドを作るため、美佐子らは、視覚障がい者の人達に参加してもらい、彼らから意見を貰うモニター会を定期的に開いている。そこで、美佐子は誰よりも厳しい指摘をしてくる、元カメラマンで弱視の中森雅哉(永瀬正敏)に出会う。
美佐子は『その砂の行方』のガイドを何度も書き直し、監督に質問する機会を得るも、どうしてもラストシーンにつけるガイドが思い浮かばず、悩み続ける。
美佐子の作ったガイド文に、容赦ない批判を向けてくる中森に対し、美佐子は最初反発を覚える。しかし、同じガイドスタッフから、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きている、という言葉をかけられたのをきっかけに、美佐子は視覚が無い世界とはどのようなものかということを、自ら考えるようになっていく。
あるきっかけで、美佐子は中森と個人的に過ごす機会を持つ。当初苦手に思っていた中森という男と会ううち、彼が未だ写真を撮ることに執着していること、視力を失いゆく絶望の中で一人孤独に生きていることを知り、心を通わせていく……。
『光』では、カメラが映す範囲で役者を動かすのではなく、役者の動きを制限せず、自由に演技をさせ、手持ちカメラが役者を追う。この役者の演技を第一に重視したカメラの動きは、ドキュメンタリー映画にあるような、リアリズム志向の映像作家の撮り方だ。
しかし、そんなカメラの動かし方とは正反対に、その他の映像の構成要素は実に意図的なやり方で撮られている。
各シーンの初めに挿入される、エスタブリッシングショット(その場所がどこかや、状況を示すためのロングショット)を除けば、この映画の殆どのシーンは、クローズアップ、またはミディアムクローズアップ等の、被写体に寄せたショットで構成されている。そして被写界深度は浅く、ピントが当たっている部分以外はぼやけて映される。
また、上記のように寄せて撮影された被写体ですら、必要な情報は全て画面に収まっていない。例えば、役者を映したクローズアップショットでは、役者の頭が画面内に収まりきらず、上部にはみ出たり、焦点を当てた身体の一部以外は画面外へと弾き出されている。つまり画面内に必要な被写体の情報が全て収められたクローズフレームではなく、画面外に「何か」があることを観客に示すオープンフレームで、映画の世界をトリミングしている。
これらの意図的なショットの構成によって出来上がる映像は、日頃私たちが見ている肉眼の世界よりも、ずっと範囲が狭く、窮屈感を覚える。映画のフレームが切り取る世界は、あまりにも狭いため、観客は、まるで視力を失いゆく中森と同様、視界が狭くなっていく弱視を疑似体験させられている感覚を味わい、時に見えにくさに対する苛立ちを感じる。これが、作り手の狙いの一つだろう。
そして同時に、これは映画の鑑賞者の「想像力」を鍛える試みでもある。画面内に映すべきものが全て映されていないというオープンフレームによって、観客は画面外に何があるのか、常にフレーム外の世界を自分で想像し、脳内映像化することを求められる。音声ガイドを作る主人公・美佐子は、視覚障がい者の人々の「見えないものを想像する力」がどんなものかを考えることを求められるが、彼女と同様、この映画の観客も画面に映っていないもの(=画面外の見えない世界)を想像することを上映中求められ続ける。(観ていて疲れる、というこの映画の感想が多いのはこのためだろう)
約一時間半弱の上映時間を通して、この映画は観客に「見えない世界を想像する力」を身につけさせようと、試練を与える。そして真摯にその試練に耐え続けた鑑賞者だけが、その能力を自分のものにすることが出来る。
『光』は、美佐子が苦心して作り上げた「音声ガイド」による劇中映画『その砂の行方』の上映会のシーンで終わる。劇場に集まった目の不自由な観客達は、音声ガイドの再生機からイヤホンを耳に当て、見えない光景を想像する。
想像力を鍛えられた『光』の観客達も、彼らと同様、目で劇中映画を観るのではなく、美佐子の作った音声ガイドから「耳で観る」という体験をする。
『その砂の行方』のラストは、主人公の老人が浜辺を走って行く光景で終わる。そしてその時、『光』の映画内と現実世界、どちらの世界の鑑賞者たちも、耳から脳内にその世界の鮮やかさを映し、感動を自分のものにできるのだ。
ふと、哲学者ジャック・デリダの『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』という言葉を思い出す。彼は、19世紀の哲学界で「目で見ること=知ること」とされていた視覚中心主義を批判し、視覚に障害を持つ人々に対する差別性を否定する。そして、涙……つまり、無数の他者との共感性を肯定した。
『光』はラブストーリーという宣伝文句を与えられている。しかし、美佐子と中森という見える者と見えない者が、二人の間にある断絶を乗り越え、互いに共感し合う物語……私には、孤独な魂同士が結びついていく過程を描いた作品に思えた。
想像力と共感性……それこそが、この映画の本質ではないだろうか。
気楽にはやれん仕事やね
水崎綾女はけっこう気楽に映画の音声ガイドを始めたんじゃないかなあって気がすんの。最初のガイドは物語を開かなきゃいけないところで「その表情は生きる希望に満ちていた」とか閉じていっちゃってるし。
その気楽な人に向かって「想像力で映画の中に入っていける」「映画ってすごく大きなものだ」「それを言葉で壊されると残念」って言うモニターの人も凄い。水崎綾女に期待してんのかも知れないけど。
視覚障害者はどうも見えないがゆえに見えるものがある「映画を観るプロ」なんだよね。
それで水崎綾女は映画監督に会いに行って「そういう曖昧なものではなく、この映画にはハッキリとした希望が欲しい」と言い放ったりして、これは河瀬監督が誰かに言われたんだろうな。劇中の映画監督は「あなたに会えて良かった。この映画があなたの希望になってくれたら嬉しい」って肯定的に言って別れんのね。これも河瀬監督は言われた時にこう思ったんだろうな。
「観るプロ」に促され、「撮るプロ」に会い、この両方に負けないように音声ガイドをする感じになって、もう大変なんだよね。気楽に始めたんだろうに、クリエーター同士の闘いに巻き込まれてる感じなの。
「撮るプロ」が創った作品を、「観るプロ」が満足するように翻案しろっていう。どんだけ難しいんだよ。
それで「水崎綾女どうすんだろうな?」「河瀬監督はどうケリつけてくんだろな?」と思いながら観てて、最後はまあまあ納得かな。ここが突き抜けるようなラストだったら「参りました」っていう大傑作だけど、それは、普通に、難しい。それができたら、どんな作品でも大傑作になるからね。
と思いながら観てたんだけど、本線のストーリーはちょっと違うところにあったね。永瀬正敏と水崎綾女がぶつかり合って互いを理解して、それを通じて水崎綾女が何かをつかむみたいなところがあった。
この主演に水崎綾女を抜いてきたのはすごいね。ムチャクチャ演技がうまい女優さんではないと思うんだけど、はまってた。
そんなこんなで全体としては「河瀬監督すげえな」と思ったので、他の作品も観てみようかな。
あたりまえだから意識しない
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