「おおらかすぎ」フロッキング 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
おおらかすぎ
14歳の少女がレイプされたと告白するのに誰にも信じてもらえないばかりか村八分に遭いすべてを失う──という話。
トマス・ヴィンターベア監督、マッツ・ミケルセン主演で偽りなき者という映画があった。性虐待の嫌疑をかけられた主人公が村八分に遭いすべてを失うという話だったが、全方位が敵対者になり根こそぎ奪われていく感じが似ていた。
本作の主人公ジェニファーはクラスから仲間はずれにされ教会の祭司にも信じてもらえず母親の彼氏も義妹もそれによって虐められやがて母親からもあばずれと罵られる。
家裁で相手側に罰金刑の裁きが下ってもなお“ヤリマンのうそつき”というレッテルをぬぐい取ることができず全員から虐げられる。
──
高校を卒業すると東京へでる。地域によってはそれが大阪や名古屋や福岡や仙台etcになるのだろうが、わたしたちはいずれかのタイミングで都市へ出ていく。
学校や会社があるから必然的に出ていくのだが、内懐には地域社会から逃れたいというのがあった。都会生活に憧れを抱いていたわけではない。
以前、スタンドバイミーのレビューにこう書いた。
『あるていど大人になってしまうと、この映画のさいだいの命題はリバーフェニックスのセリフ「I just wish I could go to some place where nobody knows me. 」になる。
クリスはとても大人なキャラクターで、すでに社会と家柄と自分との関係性に、すさまじい疲弊を感じていた。』
地域社会とは、わたし/あなたに貼られたレッテル“○○さんのとこの○○くん”が永遠につづく場所だ。
その社会が小さくなればなるほど“○○さんのとこの○○くん”は関心を集約してしまう。
結婚や離婚、夫婦仲や子供、仕事や羽振り。きょうはどちらへ/きのうはどこへ/こないだあそこにいたの見たわ/それ買ったの/また買ったの/いっしょにいた人はおともだちかしら。・・・。
剥がしたいと思うのは普通のことだろう。
──と書いたのは、この映画の主意が性被害者、あるいは思春期の性ではなく狭い社会の閉鎖性のことを語っているから。
やられたジェニファーの母親は不品行なタイプであるのに対し、やった男の子アレックスの親は名士。──となれば村社会は浮き世にたやすく地獄をつくりだせる。
ひとりの味方もいなくなったジェニファーは猟銃を手にして森の中へ分け入っていく・・・。
辛辣で容赦ないが、宙ぶらりんで幕引きとなりもやもやした。
ただし。さすが北欧で、ジェニファーとアレックスはときどきトイレにこもって性交渉するのだという。そういう関係性があるのに、レイプ告発したのが大いにひっかかるが、もちろん拒絶したなら性暴力となるのはわからんでもない。いやしかし、そもそもきみたち14歳だろ?母親といっしょにたばこも吸ってるシーンもあるんだが・・・。
おおらかにもほどがあるスウェーデン映画だった。
スウェーデン国内の映画賞を受賞している。なお偽りなき者はデンマーク映画だが寒そうな空気感といい四面楚歌といい、あの映画をとても想わせた。