ブルーム・オブ・イエスタディのレビュー・感想・評価
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笑っていいホロコースト映画の本気
ホロコースの映画、と聞くと、立派な内容なんだろうなとバカみたいなことを思いながら、どこか重苦しさを感じて観るのを躊躇したり、どこか「勉強」するような気持ちで足を運んだりする。歴史物の中でもとりわけ深刻な題材だからだ。
ところが現代を舞台に、ホロコーストの被害者と加害者それぞれの孫がドタバタな恋模様を繰り広げるコメディ仕立て、というかなり斬新な映画が現れた。
主人公の男女が不安定だったりエキセントリック過ぎたりしてついていけない人もいる気がするが、実はそれも、世代を重ねてもホロコーストを受け止められない結果とも言える。この映画が持っている躁鬱的なノリは、歴史的な悲劇はただ振り返ればいいのでなく、今に繋がっているのだと気づかせてくれるのだ。
ホロコースト映画という括りそのもをひっくり返す、まじめにふざけた現代の物語に仕上がっていて、歴史物に新たな可能性を拓いた功績も大きいのではなかろうか。
ザジの苦悩を知ってハッとする
なんとも不思議な作品である。
コメディとはいえないだろうし、ラブロマンスとしては中途半端で、ホロコーストものとしてはインパクトに欠ける。
しかし、新しい発見をさせてくれた今までと違った視点の興味深い作品だった。
物語の中心であるトトとザジは同じ出来事を発端とする加害者の孫と被害者の孫で、全く逆のベクトルにある存在のようで、その本質は同じ悩みを抱えた同じ立場の人間だったのだ。
講演を頼まれていた女優は言った。アウシュビッツを知らない者には話したくないと。
トトとザジは間接的とはいえ、アウシュビッツを知る者だ。辛い出来事、辛い過去を背負った二人はお互いが真の理解者になることができたのだ。だからこそ惹かれ合ったが、やはり加害者の孫と被害者の孫という一番根っこの部分で交わることが出来なかったのは必然だったのだろう。
トトの苦悩ははじめから理解しやすいものだった。祖父の行いに引きずられ背負わなくてもいい業を背負った。過剰に反応する彼に、そこまで思い詰めなくてもと感じたが理解不能というわけではない。
それに対しザジの苦悩は始めはわからなかった。只の頭のネジが飛んだキャラクターかと思っていた。しかし本当はベンツが好きで、ベンツが好きな自分が許せない彼女の苦しみはハッとするものがあり、被害者の孫もまた、背負わなくてもいい業を背負った人間だと知った。被害者の孫として恨み続けなければならないと思っている悩み。だから彼女もトトと同じように過剰に反応するのだ。
(はっきりと明言されているわけではないが)元ナチ信奉者だったトトはザジと結ばれることはなかったが、数年後に悲劇の地を離れてアメリカで再開する二人は、どこか呪縛から解き放たれたようで不思議な安堵感があった。ザジの娘(息子)の存在が安らぎを運んでくれたのだと信じたい。
ここまで期待外れなのは久々かも...
公開時から気になっていた作品。
ホロコーストを現代を舞台にして描くその試みは評価したい、したいのだがあまりにも残念な内容。
コメディとなっているがどこがコメディなのだろうか。
主人公2人がとにかくヒステリック。ザジは何度も自殺未遂を繰り返し、犬を窓の外に放り投げたりする。
それぞれ一族の過去を抱えて向き合おうとしているという設定なのだろうが全てそのせいにしてはいけないと思う。過去と結びつけすぎではないか。
そんな2人が惹かれ合うのだが、厄介なことにトトは既婚。そしてザジはインターンに来た研究所の所長でトトの同僚と不倫関係にある。
2人はしょっちゅう癇癪を起こす。
こんな設定でどうして映画の世界に入り込めよう。
映画館で見ていなくて良かった。
新時代のホロコーストものだとは思うが
ホロコーストについて、二人がもっと真剣に語り合うのかと思いきや、意外とそうでもない。
真面目で不器用で研究に偏執狂的なトトが、ヒステリックでおつむの弱いインターンのザジにひたすら振り回される。
自由に振る舞う開放感をザジに教えられ、妻の不逞を堂々と許している理由を明かして二人は結ばれるが、その展開にどうも無理を感じてしまう。
それまでトトはザジのセックス妄想に辟易していたし、はっきりいって奇行のほうが上回ってしまって、二人の男から求められるほどの魅力があるように思えない。
実はネオナチでしたというトトが贖罪を抱くほど、ザジが先祖の歴史を背負っていたとも思えないし、またザジがトトの子供をこっそり産んでいた動機も理解しがたい。
トトが好きだったのではなくて、自分が何か成し遂げた証として、ナチとユダヤ人の融和の存在としての子供が欲しかっただけではと疑ってしまう。
トトにもザジにもすっきりと感情移入できなかった。
毒舌情緒不安定、でもラブストーリー
祖父がナチの男と祖母がユダヤの女の話。
共に情緒はかなり不安定で序盤は急に怒鳴ったり殴ったり騒がしい。
ブラックユーモアに引いたという方も少なくないようだけど、ガンジー(犬)が女に窓から放り投げられるシーン、飛び出すガンジーのソロショットからの、投げた本人が名前を泣き叫びながら探す、よく呼べるなと怒鳴る男、など笑ってしまった自分はどうなのだろう。
ホロコーストの話題だけどそこまで暗くならず楽しく観られた。
2人が心を開いて落ち着いて話ができるようになった中盤からラストまでは切ないシーンが多かった。3代目孫世代までも過去のトラウマに振り回されてる(本人達が積極的に関わってはいるのだが)きっとそのせいで不安定なのかと思うと何とも言えない気分だった。
相手を必要で一緒に生きていこうとしてたのに、それでもあの秘密?はそんなに駄目だったのかなぁ…
ラストあの後トトはどうしたのだろう、気になる。
面白いラブストーリー
ドイツでホロコーストを研究している男のもとに、フランスからユダヤ人の女性研修生がやってくる。
男の祖父はナチスでユダヤ人を殺しており、女の祖母はナチスに殺されていた。
こんな二人の関係がどうなるか興味津々で、しっとりと見せてくれる。
戦争の傷をこじらせ続ける3代目
祖父母世代の戦争の傷をこじらせ続けるもうあまり若くない2人の話。
笑いのツボはよくわからない。
でも、戦争世代のツケはいろんなところにあるなと思う。
日本の場合、キチンと向き合ってこなかったツケがあるのではと思う。
今を生きる者たちを讃える
われわれは全て歴史の中を生きている。そしてわれわれもまた、その歴史の一部となる。
これが、われわれが歴史の加害者/被害者であり、後世の人々への責任を負っているということだ。
しかし、同時にわれわれはこの今を生きている。現代には現代の問題があり、それは社会の問題だけでなく、個人の抱える切実なものやそうでもないものも含まれる。
人が生きるということは、そのようなものの総体である。だから、ホロコーストを研究する者が自慰行為に耽ることもあるし、その最終解決の被害者が不道徳な男女関係を経験してたとしても不思議なことではない。
ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストの加害者があまりにも凡庸な人間であったのと同じく、被害者もまたそのほとんどが凡庸な存在だった。
凡庸な存在を特別なものに変えるのは歴史のバイアスで、いつの時代もこれを利用する小賢しい人間がいる。
収容所にいた元女優はそのことを理解しているから、研究所が政府から予算を獲得する為の会議に批判的だ。会議の責任者に対する「あなたならナチの良い諜報部員になれる」という皮肉は、ホロコースト後を生きる全人類に向けられている。
ヒストリーを振りかざすことは、行き過ぎるとヒステリーになる。
ドイツに着いたばかりの研修生がベンツのトラックに乗ることを拒否したりすることは、そのことを強く印象付ける。
自分の依る文脈と、相手が依って立つ文脈が異なること。その文脈を交換しなければ、相互理解には至らないこと。このことが解らない人には、この作品は不謹慎なナンセンスギャグ映画だったのではないだろうか。
映画の冒頭は確かにそのようなものへの不快感を覚えずにはいられない。しかし、映画はこの後、歴史の加害者と被害者が共に生きている世界を讃えるのだ。
そして、ホロコーストの恐ろしさは、凡庸な存在をその痕跡、存在したことの記憶までも消し去ろうとしたことなのだという、アーレントの言葉に改めて思いを至らせることとなった。
トラウマだらけの恋愛事情
かつての昭和映画のように暴力的な映画である。主人公は他人が苦手だが、自分を否定するのではなく、むしろ他人を否定し、自分の価値観で他人に暴力を振るう。そしてそんな風にしか他人と接することの出来ない自分を嘆く。ほとんど病気である。
ホロコーストはドイツ人にとって未だに消化しきれずに心のどこかに引っ掛かり続ける異物のようだ。登場人物の誰もが、自分が加害者の子孫、あるいは被害者の子孫であることに捉われ、そこから一歩も抜け出せない。
歴史の過ちは常に顧みなければならないが、共同体や祖先の呪縛に縛られ続ける必然性はない筈だ。しかしこの作品の登場人物たちは異常なほど祖先、国家、師弟などの関係性に捉われる。それがドイツの国民性であるとするなら、ヒトラーを生んだ精神性の基盤がそこにある。
人間は目的や義務をもって生み出される訳ではない。単に生まれるだけだ。物心ついてからは自由な選択が許される。人々の多様な選択を認めるのが民主主義である。ドイツ国民として生まれたからには云々といったパラダイムは、全体主義そのものだ。残念なことに同じパラダイムが日本でも支配的である。日本人として生まれたからには云々という文言は巷に溢れている。全体主義に直結する精神性だ。
この映画には全体主義的な精神性の持ち主しか登場しない。登場人物の誰にも感情移入できないまま、異常な重苦しさで物語が進む。人間同士の本音の交流がパラダイム同士のぶつかり合いによって蹂躙される構図がこの映画の芯になっている。
ゲルマン民族の救われない精神構造を見せつけられた感じだ。それは取りも直さず、日本人の救われない精神構造に等しい。もしかしたらどこの国の国民も同じような全体主義的な精神構造なのかもしれない。だとしたら世界は救われない。
そんな作品だった。
アデル・エネルはいい
過去に縛られそこに向き合う中で心のバランスを失した男と女。積極的な女に翻弄されながら惹かれていく男。なぜに女が男に惹かれたのかよくわからないところはあるが、狂気を帯びた女を美しくチャーミングに演じたアデル・エネルがとても良かった。
破天荒なラブコメ?
ちょっと難しくてよくわからなかったんです。
特に女性のほうのキャラクターが捉えがたくて。
フランスから来た研修生のザジ(ユダヤ系)はバルティとは不倫の仲。彼女は、よくミドルネームは「〜よ」などと言います。嘘もつくし自殺未遂癖もある複雑なキャラクターです。
一方、トトは(たぶん)6年くらい前から不能なため、妻の浮気を条件付きで認めている。子どもは養子。フランスとかだったら離婚じゃないかと思うんですけど。この人の心理はまあ何となく分かる。すぐ怒る人だけど。
そんな二人の祖父と祖母は、ラトビアのギムナジウムの同級生。
〇〇〇〇の子どもの時の写真が可愛いとか、ポーランドねたなど面白い?けど日本人である私にはすぐにはぴんとこないものも多く。
セックスができない理由にエイズを挙げたり、とにかく驚かされまくり。こういうのもユーモアの一種なんですかね。
トトの兄が服役しているのも何でなのか私にはちょっとわからなかったです。
でもこれはバルティ、トト、ザジの三角関係の話だったんですね。バルティが意外と重要な役で。
ラストのシーン、ザジの子どもの父はトトでした。結ばれそうで上手く行かなかった二人。でもウィットに富む会話や、ペンキをかぶるシーン、排卵の音が聴こえたというところなど、光る場面があちこちに見られました。
犬のガンジーが怪我をしてなくて良かったです。
トラウマとなるほどの継承
世間では一般的なほうなのかよく分からないが、祖父母の戦争の話も、それを引き継いだ父母からの具体的な戦争にまつわる話も聞いた覚えが殆どない。
付和雷同的に八紘一宇だとか、鬼畜米英とか叫んでた人の敗戦後の変節ぶりを恥じたり、反省した、という話も聞いたことが無い。
全て無かったことにして再スタートし、その後の高度成長からバブル崩壊を経て現在に至ったように思える我がニッポンにおいては、祖父母の経験がどのような形であれ、次世代へ継承され、トラウマとなるような状況への共感や想像力を働かせることが極めて困難である、ということを思い知らされる映画です。
それがいいことだったのか、不幸なことだったのか、今まさにその方向が問われる分岐点にいるような気がします。
アデルさん‥‥『午後8時の訪問者』と同じ女優さんとは思えないほど全く違う人物に見えました。綺麗なだけでなくもの凄い演技力。次回作があればまた観たい‼️
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