沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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巨匠の力作って感じ
長い。最後はやや冗長に感じた。
日本人からすると歴史で習って知ってる事なので、自分としてはイマイチ効いてない気もする。
日本以外の国の、そこら辺知らないキリスト教国人からしたら、近代も近い17世紀になって「キリスト教が迫害された歴史がある」って事自体が、(作中でも言うが)誰もがキリストの迫害になぞらえてしまう強烈なインパクトがあるのかもね。
信仰は何ぞや。
監督の心としては後半で語られる事がまさにそうなのかな、と感じた。
現代的な捉え方だ。
もはや神がいるかいないかなんて議論なんてナンセンス。そもそもどっちだっていい。
けどこの時代は違う。本気で神がどこかにいると、信じる神は違えど色んな人が辛い時にそこに縋って生き抜いていた時代なんだろう。
奇しくも時代に宗教・人種の違いによる問題が吹き荒れるこんな時代だから、考えさせるポイントがあるのかもしれない。
それにしても塚本伸也監督の演技は圧巻だった。窪塚や浅野忠信、他日本の役者陣の演技も良かった。
あと作り込み加減ハンパないね。
映画としては秀作でしょう。
スコセッシ監督の感覚に驚き
映画はとってもフェアに描かれてて良かったです。
ちゃんと日本の価値観とか言い分をイッセー尾形や浅野忠信の役を通してはっきりと何度も言語化していたし、その内容も日本人の心にしっかり沿ったものだったのに感心しました。
主人公の宣教師がおそらく死ぬ最後まで信仰心を捨てていなかったことは別いいんだけど、少しでも日本の価値観や宗教観を理解して心から受け入れる描写があれば良かったと思った。
自分の信仰心はそれぞれが持ったまま、違う宗教のことを尊敬しその存在を受け入れることがこれからの時代に必要だと思うから、主人公が棄教したふりしてたけどほんとはジーザスこそオンリーワンだよねって見えたからそこは残念に感じます。
でもキリスト教徒の西洋人の監督が撮ったことを考慮にいれれば、かなりフェアに撮ったと思いました。
心揺さぶられる作品。
始まりからエンドロールまで、余計な音のない静かな作品。風の音や虫の声、蝿の羽音、海の波音。
完全に、役者の台詞と自然の音のみ。
淡々としていて、また上映時間も160分超と長い。
それなのに、全く飽きさせる事なく魅せられた。
素晴らしい作品としか言いようがない。
異国の地日本の長崎にて、弾圧に耐え、己の信仰を試されるポルトガル人宣教師と貧しい百姓の切支丹たち。
神の沈黙の中、残酷な運命に翻弄される彼らの姿に胸を打たれた。
信仰とは何か、信仰のために命が奪われることの是非を考えさせられる。
そしてラストはなんとも言えない切ない気持ちになる。
キリスト教の迫害というテーマから、拷問シーンの残忍さに目を背けたくなったし、日本人切支丹の貧しさや汚らしさがあまりにリアルで驚かされた。
キャスティングはとても良かったと思う。特に日本人キャストは最高だった。
残忍な奉行井上役のイッセー尾形の無慈悲なさまとキチジロー役の窪塚洋介のクズっぷりが素晴らしい(笑)
1つ気になったのが、ポルトガル人宣教師のロドリゴとガルぺの綺麗さ?(笑)
迫害を逃れ身を隠し、貧しいボロを纏っているにしては……なんだか小綺麗に見えてしまった(笑)
個人的な意見として、この作品を観てキリスト教贔屓だとも感じなかったし、日本が排他的に描かれているとも感じなかった。
宗教弾圧は世界中どこでも、かつては行われていたこと。
弾圧する側は残酷で非情であるが、そこには異教を受け入れられない理由があるのだという事も理解できる。
永遠に考えさせられるテーマだ。
この作品を通して、スコセッシ監督と遠藤周作氏が何を伝えたかったのかをじっくり考えてみたいと思った。
若い頃、何故か巡りあった小説が、30年を経て今度は映画に。小説の内...
“信仰”の差異が生んだ悲劇。哀しすぎる迫害の歴史。
【賛否両論チェック】
賛:宣教師が目の当たりにした迫害の数々を通して、“信仰”の持つ意義や、異教徒同士の価値観の違いを浮き彫りにすることで、人間の生きる本質を問いかけてくる。
否:目を背けたくなるような処刑シーンが続くので、苦手な人には向かない。上映時間も少し長く、終盤はやや蛇足感もあり。
キリスト教が弾圧されていた時代の日本へ、恩師の棄教の真偽を確かめるべく、殉教を覚悟でやって来た宣教師。その彼らが直面する残酷な迫害の現実を通して、“信仰”ということの意義が投げかけられます。
決して踏み絵をせずに、進んで過酷な死を受け入れた者。生きるために、踏み絵や裏切りを選んだ者。様々な者達の生きる様、そして死に様を見せられた宣教師が、最後にどんな決断を下すのか、その葛藤にも胸か痛みます。
残酷な処刑シーンも多く、決して軽い気持ちで観られる映画ではありませんが、人間が生きていく上で、
「何を信じるのか?」
という普遍的なテーマを、観る者全てに問いかけてくる作品です。
とても濃い時間を過ごしてきました
長い映画なのでどうかなと思っていましたが、なにか、とても濃い時間を過ごしてきました。
次々と突きつけられるものに心を揺さぶられました。
時間をかけてまとってきたものをどんどん剥ぎ取っていくようで、苦しく、どきどきしました。
ロドリゴがたどり着いたのは、静けさの中でしょうか、包まれているでしょうか。
テンポが良く、時間の長さが気になりませんでした。
俳優陣もとても良かった。苦しみ迷い続ける主人公を演じたアンドリュー・ガーフィールドの、優しい声が心に残りました。
あと、浅野忠信演じる通訳の豪胆な雰囲気が、井上様の食えない感じと良いコンビネーションでした。ああいうのが本当に恐い。
走り去るキチジローは百点満点!でした。
考えさせられる
人間の業
いつものスコセッシ映画と違い、タイトルの様に静寂した作品でした。前半は正直やや退屈に感じましたが、後半の激しい迫害が始まってからは、人間の怒りや憎しみが力強く描かれグイグイと引き込まれました。
イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」の時もそうでしたが、近年では外国映画での日本人の描かれ方が非常に自然で、その文化も非常にに研究されている為、取り上げる題材も邦画以上に誠実で興味深い物になる事があります。今作もその一つと言えるでしょう。
現在も行われる宗教戦争、人間は神に救いを求め、神を裏切る。そうした人間の業に沈黙する神にその存在意義を問う。
無宗教を自負する私でさえ、神社仏閣の前では賽銭を投げ、首を垂れるのは何故なのかと考えてしまいました。
よくもないし悪くもない
憐れ
また見たい深い映画。
映画館に観に行く前に、本と篠田監督の映画を見ました。内容がヘビーなので誰も一緒に行ってくれなくボッチ鑑賞です。長丁場ながら全く長さを感じさせなく最後は心が暖かくさえなりました。もちろん拷問シーンは目を塞ぐ程でしたが。。私は見に行く前から、何故踏み絵を踏まないのか疑問でした。もし目の前にキリスト様がいたら踏みなさいと言うと思ったのです。神とはそう言う存在だと思うから。心の中にあるものだと。自分が信じていればそれでいいのではと。最後までその気持ちは変わりませんでした。自分が宗教を持たないからかもしれません。でも神はいると信じています。ロドリゴ役のアンドリュー·ガーフィールドの苦悩する姿にきゅんときてしまいました、罰当たりでごめんなさい(泣)また観に行くつもりです。
私はプロテスタントのクリスチャン
私はプロテスタントのクリスチャンです。
沈黙を見て日本という国は本当にキリスト教が広がるのが困難な国だと思いました。この時代のようにクリスチャンだからと言って殺される事はなくても、私自身クリスチャンとして生きていきにくい国だと物心ついたころから感じていました。でもこうして日本人としてクリスチャンとして日本に生まれたのは神様の計画の中だと強く感じました。神様が私を聖めて神様のご計画のためにご自由に使って頂きたいと思いました。人間の目で見てこの日本が救われるのは難しいとか、あの国は簡単だとか思ってしまいますが、神様にかかれば全てが可能なのだという事を忘れずにたくさんの日本の方にも神様の愛を知って頂きたいと強く思いました。
信仰を知らないと
信仰をもたない自分には、なぜ利益にならない信仰をもつのかが分からなくて、なぜこんな風に見えないもののために自分をかけられるんだろうと思った。
自分が人生で行動してきた理由は、目に見える、自分や家族のための利益のためでしかないし、信仰というものが分からない。
キリスト教の教えでなければ、救われない人たちがいるなら、踏み絵なんて迷いなく踏んで、その教えを支えにしながら、日本のルールにうまくのってもいいのでは、と思った。
人生の意味は、よりよく生きることで。
頑なに信仰にこだわって神様に義理立てすることになんの意味があるのか分からない。
そう思いながら、同じようにホロコーストで死んでいった人たちの信仰が分からなかったことと同じなのかと思った。
なんのために生きるんだろう、信仰ってなんだろう?と何度も思わせられた。
クリスチャンの人にどう思うのか聞きたい。
寛容こそ美徳
深い。
信仰が無いので
共同体の権威と個人の信仰、そして不条理
誰もが学校の歴史の時間に習ったことを復習してみる。
原始時代、例えば大型の動物を捕獲するとき、ひとりで捕獲するよりも複数の人間が役割を分担して捕獲した方がより捕獲できる確率が高くなるし、かかる時間も短縮される。つまり効率的だ。または植物を栽培するときも、ひとりで全部の作業を行うよりも、複数の人間で協力して行なった方が効率的である。
狩猟、採集も、植物の栽培も、収獲または収穫は、日照や雨、風などの自然条件に左右される。自然条件がどうなるかを予見したり、有利になるように祈ったのがシャーマンで、シャーマンは原始共同体の指導的立場となった。
文明が発達した大河川の流域では、土地が肥沃で植物がよく生育する半面、川の氾濫で作物を喪失する危険性もあった。治水しようにも川は巨大で、ひとりではどうにもならない。しかし大勢の人間が協力して治水をすれば、安定した収穫を得ることができる。そこで原始共同体が誕生する。しかし大勢の共同作業となると、計画や指示命令系統の確立が必要だ。各個人が勝手に行動し、互いに指示命令しあって誰も服従しなければ、共同作業は成立しない。つまり共同体も成立しなくなる。そこで必要になるのが、人々を服従させるための権威だ。最初は、最も暴力的に優れている者が個人として権威を持つことになる。暴力によって苦痛を与えられるとわかれば、それを避けるために腕力の強い者に従うようになるからだ。しかしそれは長続きしない。個人の暴力は時間的空間的に限界がある。ひとりで毎日24時間闘いつづけることはできないし、遠くの敵とも闘えない。寝ているところを襲われたら終りだ。そこで、複数の人間を束ねて暴力装置とすることができる人間が権威を獲得することになる。組織し、命令系統を確立すれば、多くの人間を服従させることができる。24時間交代制の護衛を置けば、寝首を掻かれることもない。それが王のはじまりだ。
次の段階では、あちこちに成立した共同体同士の利害対立がはじまる。それは共同体を支配する権威同士の対立でもある。権威というものは暴力装置に担保された共同的な幻想であるから、他の権威に暴力的に打ち負かされると消失してしまう。日本や中国の戦国時代の歴史を見れば、弱小の共同体の権威が強大な共同体の権威によって消失、または服従することを繰り返している。共同体の支配者の権威はどこまでも相対的な価値観なのだ。
そこで共同体の支配者たちは絶対的な価値観によりどころを求めることになる。神話だ。神話に於ける権威と、共同体の権威を一致させることで、共同幻想の相対性を弱めることが目的だ。歴代の武将が天皇制を利用したのはこの構図である。
一方、共同体の内側では、支配する階級と支配される階級が世襲的に固定化された格差として存在するようになる。格差社会はいまに始まったことではなく、大昔の共同体の成立時から構造的に発生したものなのだ。支配される側には服従するだけの人生しかなく、何の救いもない。救いがなければ自殺や強盗が多発して共同体が崩壊することになる。そこで共同体内部にも神話を登場させ、絶対的な価値観を説いて現実の共同幻想を相対化しようとする。共同体のルールへの服従と勤勉を説くことで共同体の生産性が維持できるのだ。個人と共同体の対立構造よりも、個人と絶対神との関係、つまり信仰に重きを置くことで、人生に救いが生じる。イスラム教やキリスト教はこの類である。
仏教は成立したのがずっと前だけあって、宗教というよりは哲学に通じるものがあり、価値観の相対化と人間精神の構造を説く。現世は存在しているようで存在していない、存在していないものが実は存在するという、禅宗にも通じるような印象の教義が般若心経に書かれている。仏教は信仰ではなく悟りによってではあるが、やはり他の宗教と同様に、現世での不安と恐怖と苦痛から人々を解放しようとする。
次の段階では、国家や都市が成立し、その中で組織が細分化され、それぞれに権威が与えられる。被支配階級からも起業するものが現われて企業や暴力団を組織し、やはりそこに権威が生ずる。宗教の指導者の権威も徐々に強くなっていく。
現代日本の身近な生活を振り返っても、年長者、先輩、上司、会社、自治体や国の政治家、得意客など、頭を下げなければならない人間が山ほどいる。必ずしも相手を尊敬しているから頭を下げる訳ではない。相手に権威が与えられているから頭を下げるのだ。
つまり人間の生活は大小強弱さまざまな権威に支配されつづける生活なのだ。しかもすべての権威は相対的で、いつ失墜しても不思議ではない。絶対的と思っていた筈の信仰に於ける権威も、実は歴史の関係性の中で生み出された相対的なものなのだ。神という権威はどこまでも人間が生み出したひとつの観念である。
さて、そういった複雑極まりない価値観の変遷を踏まえた上でのこの映画である。絶対神を奉ずるキリスト教の価値観は、自力本願を旨とする武家の仏教と相容れない。日本の支配階級の役人たちは、キリスト教の権威が武家の権威を脅かすと考えたのだ。
登場する人々はどの立場にあっても不安と恐怖に苛まれている。弾圧する側もされる側も、例外なく権威という相対的な幻想に蹂躙されているのだ。
多くの人々は、そのことを理解している。にもかかわらず、子供を生み、同じく不安と恐怖と苦痛に塗れた人生を繰り返す。歴史は不条理であり、人間の存在も不条理だ。
これほど不条理を実感させる映画は滅多にない。最初から最後まで登場人物は全員不条理に曝されている。観客はその重苦しさに窒息しそうになるが、人々の不条理に抗う姿を見続けずにはいられない。殉教は必ずしも肯定されるべき行為ではなく、踏み絵を踏むのも必ずしも責められるべき行為ではない。それは禅の考え方に通じる、相対的な価値観である。
役者は皆、達者な演技をしている。しかしそれはこの映画に限っては、強ち特筆すべきことではない。人間は日常的に不条理の中で生きている。
役者たちに不条理に抗いながら生きている演技をさせた監督の演出は評価に値する。不条理を言葉でいうのは簡単だが、演技指導として不条理を前提にするのは困難極まる。ロバート・デ・ニーロにタクシードライバーを演じさせた監督の面目躍如である。
見終わっても重苦しさが消えないのは、映画が齎す不条理の量が圧倒的だからだ。それは歴史の一時点の不条理ではなく、時の流れに少しも衰えることなく、いまに至るまで人間を苦しめ続けている。映画を観終わると、あたかも断崖絶壁に立たされた人間が目隠しを解かれたように、自分がどうしようもない不条理の現実に生きていることに気づかされる。立ち竦まずにいられる人間は、ひとりもいない。
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