沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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圧倒的画面
身も蓋もないのですが‥‥
当時のイエズス会宣教師たちの一生を描いた作品として捉えると、その過酷なドラマに胸を打たれますが、現代に通づるような普遍的なテーマ(製作者側にそのようなものを描く意図があったのかどうか分かりませんが、大作だけに、ついついそういったものを期待してみてしまいました)が見出せませんでした。
人権という概念が確立した現代であれば、あの場面での宣教師の棄教は、勇気ある決断として讃えられることはあっても教会から断罪されることはないのではないかと(⁉︎)思うし、現代社会における個人の内面的な葛藤に繋がるようなテーマとしては想像力が追いつかない。また、安定期に向かう初期徳川幕藩体制のなかでは、朝廷や幕府以外の絶対的な存在(デウス様)は社会不安のもととして取り除かなくてはならないわけで、長崎奉行所の対処方法は警察、官吏として極めてシンプルで合理的、そして有能だったのかも知れません(人間性の一面として目的達成が見えてくるとエスカレートし易い、という負の側面はあったにしても)。
誤解を恐れずにいえば、合理的な話し合いで分かり合えそうにない固定観念に縛られた集団(幕府側から見れば、ということです。決して信仰を否定したり、揶揄する意図はございません)への対処方法‥‥転ばせるための有効な方法‥‥として拷問という手段をとっただけで、奉行所の人達や当時の日本人が人間性として残虐ということではないと思います。事実、棄教した人は無罪放免となり社会復帰できるわけで(たぶん)、むしろ棄教した人を責めるのは仲間だった切支丹の人達で、責め苦を負わされた上での殉教、つまり、拷問死以外の選択肢が許されないような雰囲気に追い込んでる(もしかしたら、苦しみが大きいほど、天国が近いという思い込みすらあったのでは?)のは切支丹の方達自身とも言えるのではないかと思いました。
本筋とは全く違う方面にばかり目がいってしまいましたが、信仰という意味でも、哲学的な意味でも、神の存在について思索する機会がない私のような世俗的なものには、テーマを見出すのが難しい映画でした。
観応えのある作品でした。 人の強さ、弱さ、温かさ、冷酷さ、苦悩・・...
よかった
スコセッシ監督の自主映画
これはスコセッシ監督の心象を覗き込む映画だ。
終わるまでけっして退屈はしないし、観終わった後の気分も悪くない。
だだ、ロドリコがラストで得た「感覚」はそれが困難を乗り越えて得たモノなのかそれともスコセッシ監督の願いなのかが自分には解らなかった。
しかし、個人的だからこそ逆に広がりを感じるのかもしれない。そう思った。
蝿が舞う
「死んだら天国に行ける。」小松菜奈が発するこの台詞は、人間社会の価値観を根底から覆す考え方。否応なく、現代において自爆するムスリムを想起させる。この矛盾を突きつけられた現代人、特にキリスト教徒はどのように考えるのだろうか。イッセー尾形の貼り付けたような柔和な表情から発せられる施政者の論理は、ただの糞役人のたわ言で扱うことができず、多様な個々と社会をどうやって納めるべきか苦慮する現代において一定の説得力を持つ。窪塚洋介は、千と千尋のカオナシを想起させられた。弱くしか生きられない者。志強く死を受けいれない。その対極に存在する塚本晋也や小松菜奈、しかし、その裏に自爆テロと同じ発想があるのであれば、何を正としよいのやら、、観てるものを混乱させる。
非常に高いテーマ性を問うた作品のように思う。舞台が日本設定だから日本人としては、アラ探しをしてしまうのは仕方ないが、そういった視点を拭わせるだけの骨太な作品である。
印象的な蝉時雨
暗闇の中、蝉時雨が突然止み、沈黙から始まる。
迫害により殉教し、沈黙する多くの信徒。答えを持たない若き司祭。繰り返される苦しみの前に、愛する神さえも黙して語らない。
信徒の命を引き換えに棄教を迫る"イノウエ"。彼らは決して悪ではなく、日本に暮らすごく普通の善良な人間だ。彼らは彼らなりの信仰を持ち、そこに根を張って暮らしている。それが同じ人間とはいえ、異教徒によって脅かされる恐怖も分かる。
多くの日本人にとって、未だに信仰としてのキリスト教は身近ではない。行事としてのキリスト教は信仰とは無関係だ。自然と共に生きて自然の中に神を見出す日本人、科学を足がかりに発展を遂げながら愛を掲げるオランダ人。
どちらが正義というのではない、永久に相容れないもの、信仰と日本という国の形が浮き彫りになり、ラストで再び流れる蝉時雨と、繰り返し襲いくる波の音が、この映画を見た者から言葉を奪い、沈黙に抱かれていくのを感じた。
重厚な映画だった。そして酷く疲れた。正直もう二度と見たくない。精神を削られる気がする。酒を飲んでダメージを薄めることにします。でも見て後悔はない。見ない後悔の方が大きいだろう。
30年たっても答えは見いだせない。
('ω')神の声は・・・
なぜ神現れないのだろう?なぜ沈黙するのか?
こんなにも人々は祈り続けてるというのに。
島原の乱の天草四郎も、火刑に処される前のジャンヌダルクも、ガス室に送られたユダヤ人も、延暦寺の僧侶も、セウォル号に乗ってた韓学生たちも、みんなそれぞれの神に祈ったことでしょうが、助からず。なぜ?
簡単、神はいないからです。
キチジローというキリストをイメージさせる人物が出てきますが、何度も主人公を裏切ります。神とのメッセンジャーであるキリストが神はいないと言っているように私には思えました。
主人公が踏み絵に応じる際に神の声が聞こえてきますが、私はこれは自分自身の声であると思います。神は内なる自分ではないか?
宗教がらみで世界が果てしない闘争の世界に入ってもう何年経ったのでしょうか?信仰が人が傷ついて死ぬ事の痛さを忘れるがために麻薬のごとく存在しているような気がしてなりませんし、死への便利な理由と成り下がっています。
何千年前に神の声を聞いたという人物が数人いたみたいで、彼らの死後もその神の声とやらを研究した人がごまんといて、それは人の信仰や国のあり方に大きく影響していますが、最初の数人がデマだったらどうすんですかね?神がいないのに。
キチジロウがそのことを伝えにきているように見えます。
『神様いないよ、あれ俺の嘘、すまん』
って。
荘厳な話だが…
沈黙には2つの意味がある
窪塚洋介演じるキチジローはキリストの生まれ変わりのような面持ちで、弱く情けない。何度も裏切る。でも彼は自分は切支丹だと言い切る。モキチみたいな立派な人もいればキチジローみたいのもいるんだ、いやむしろキチジローに親近感を覚えるはず。
最も人間らしい人物なのだ。
ロドリゴが棄教した後もキチジローは側を離れなかった。救いを求め続ける。
沈黙には、苦悶に対して神は沈黙するという意味と、たとえ棄教して神について語らなくても神はその信心を知っている。そんな2つの意味があるのかな?最後のシーンはとても印象的だ。
マーティン・スコセッシの日本に対する様々な愛を感じる作品で、キリスト教について無知な自分でも興味深く面白かった。
残虐が伝わる。
信仰か人の命かを問う問題作
本を読んだ方が良いだろう。
心は自由
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