沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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日本人カトリック信者
大変期待していた映画だけに残念な映画でした。こんなカトリック信者もいるんだと、聞き流して下さい。
まず映像が日本ではなく、アジアのどこですか?と言いたくなるほどだらしない映像。ただ汚く貧しいだけの農民。日本には古来より侘び寂びの美学有りますよ。日本人は昔から、辛く厳しい生活の中にも美を追求してきました。この映画では農民の姿、生活に生と死を感じられない。ただの役でしか無い。汚い農民。役者に演技力が有るのは当たり前。プロの歌手に歌が上手いですねと言ったら失礼でしょ。
風が吹いていても、日向で扇子を扇ぐ侍。侍ってアホ?私は真田と祖先が共通ですが、侍をバカにしているとしか思えない。
原作も読みましたが、終始一人の頭の中での葛藤だと、随所に感じました。
あの時代と場所は、個人主義と全体主義が衝突した所だと思います。
水と油が混じり合う、それが愛では?
原作に忠実だが・・・。
原作は随分昔に読んだ。遠藤周作はクリスチャンで、彼自身も日本人としてキリスト教の教えに対する葛藤があったのでしょう。他の作品にもそれは見られます。これはどの宗教にも通じるもので、テーマとしては逸材かと思うし、遠藤先生がそのテーマを素晴らしい作品に作り上げています。
原作は衝撃的で、本作もほぼ忠実に作られていますが、最後は余計な時計だったように思えます。
ただ気になるのは、この史実の前後を描かずに、この部分だけを切り取ってしまっては、日本が異宗教を何故弾圧したかが分からない。キリスト教の教えは素晴らしいが、これほど政治に利用され、結果的に人々の争いの道具になった宗教も珍しい。当時の日本のキリスト教の排除は正解だと思うし、あれが太平洋戦争の序章になったことは教科書には載っていないが周知の事実なのだから。
宗教とは信仰とは何なのか
宗教、信仰の対象が人々とってなぜそこまで彼らの中の面積の大部分を担っているのか、わたしには分からなかったが、それが自分にとっての親や子の存在のようなものであったなら、それを踏み、唾を吐き、奪われる事の辛さ、そしてそれに対する心の中の強い思いは至極当然の事のように感じた。
スコセッシはまた傑作を生み出した。
素晴らしい映画が観れた。
僕は遠藤周作の原作は読んでいないが、凄く満足出来て、この世界にのめり込んでしまった。
宗教や信仰の違いで起こる人間の苦悩や怒り。複雑な部分を上手く描いていた。
脚本もそうだが、やはりキャストの演技力。
下手だなと思った役者は一人もいない。
それぞれが素晴らしい演技をしていた。
特にアンドリューガーフィールドの演技は圧巻。
そして、この映画の特徴として、音楽が一切使われていないということ。
聞こえてくる音は、俳優の声、鳥のさえずり、足音など、自然から生み出されるものだけ。
まさに、タイトルと映画が掛け合わせた素晴らしい演出だなと思った。
スコセッシの映画はこれからも期待が出来そうです。
日本の悪の歴史
キリシタン弾圧は小学生だって授業で習う内容だけど、ここまでの残酷さは教えない。
人が人間でないような映画でした。
ただ、歴史は過ちを繰り返さないために語り継がれるべきもの。
とても重要な映画だと思います。
窪塚洋介がオーディションで勝ち取った役とテレビで見ましたが、かなり気合いを入れてがんばってました。
ただ、浅野忠信の貫禄には敵わないかな。
マイナスポイントとしては160分越えの内容のため、かなり長いです。
布教を認めたら戦争になる
やっと戦国時代が終わったのに、ここで布教を認めたら、戦争になりますよ!もしもローマ教皇が信徒達の年貢米を要求してきたら、信徒たちは領主なんかより神(教会)に対して納めたいですよ。抗争勃発します。スペイン、ポルトガルの軍事介入を招いたら最悪です。秀吉、家康はそれが分かっているからご禁制にしたわけです。
一方、映画ですが、信徒の受難シーンにはホロっときました。
国家規模のキリシタンいじめで賞
とてもとても丁寧に、
信仰とは、信仰のあり方、
人の生き様、日本の歴史、
すべて描かれていた。
考えさせられる映画だった。
場面場面が心に訴えかけてくるようだった。
キリシタン弾圧の歴史について詳しくなかったが、こんな時代があったのかと驚嘆した。嫌な時代の日本を見た。異質なものを恐れる心は、昔も今も同じだと感じた。
信念を貫くことがいかに難しいか。
それでも生き残った隠れキリシタンはすごいな。
故郷が長崎です。
友達にも、元同僚にもたくさんのクリスチャンがいます。
キリスト教は身近でした。
遠藤周作の原作も読んだことがあります。
長崎奉行所を再現した場所にも行ったことがあります。
隠れキリシタンの遺品やお墓を見たこともあります。
公開前からものすごく思い入れのある作品でした。
重厚感のある素晴らしい作品だと思います。
歴史を映像化するって、やっぱり大事だなと思いました。
本を読んで頭の中で想像することとはまた一味違うので。
日本人ではなく、外国の監督によってこの映画が作成されたというところで、客観的に日本を見ることができました。
「ああ、この映画、日本だけじゃなくて世界中で放映されるんだな。海外の人たちはこの史実をどう思うのかな。」と考えながら映画を見ました。
きっと当時の民衆があんなに流暢に英語を話してはいないだろうし、そもそも当時の外国語は英語ではなかっただろうし。
もっといろんな障壁がたくさんあったんだろうなと思いました。
キリスト教信者じゃない私にとっては『踏み絵』なんて大したことないって思ってしまうのに。
神様だったら、踏んだ自分の弱さだって許してくれるだろうに。
何で人を救う宗教で、人が苦しまなきゃいけないんだろう。
概ねの人が感じることと同じことを私も思いました。
キチジローに心を重ねて映画を見たので、彼が全く悪い奴には思えませんでした。
素晴らしい作品だがラストシーンが残念でならない
虫の声自然の音のみの冒頭シーンで日本の「Silence」に対する深い理解を示し、遠藤周作への敬意をこめて160分をかけて原作世界を再現し、イッセー・尾形の好演からも分かるようにキリシタンを弾圧する側への理解も示したマーチン・スコセッッシの深い演出。困難を極めたであろう撮影が結実した映像美。傑作である。しかし、原作にはないラストワンカットに根源的な彼我の解釈の違いがあると感じた。残念だ。ちなみに篠田正浩版「沈黙」には遠藤周作自身が関わっているがラストシーンは全く異なる。
観終わった後、しばらく席を立てなかった。
まずは、スコセッシ監督にありがとうございますと言いたい。実際は台湾で撮影が行われたらしいが、日本の描写にほとんど違和感がなかった。「ラストサムライ」や「さゆり」のように、日本語がおかしかったり、風景が異国のように感じられたりしなかった。また、韓国や中国の俳優を使わないで、日本の俳優を起用してくれたのもうれしい。ヘラヘラしているようで、本当は怖ろしい井上筑後守、信用できないキチジロウ、素晴らしい演技を見せてくれた。自分も日本人として踏み絵くらいは知っていたが、映画に出てきた残酷な拷問についてはよく知らなかったし、まして、宣教師に棄教を迫っていたなんて知らなかった。この映画によって、世界中の人に日本の負の歴史を知られてしまうのは、恥ずかしい気もするが、一方で、あれだけ辛酸を舐めながら、信仰を持ち続けた人々がいたということは誇らしくもある。現実に長崎には素晴らしい教会が数多く残っている。ロドリゴの一生を思う時、あれでよかったのか自分にはわからない。信仰とはどうあるべきなのか改めて考えさせられた。
神とは
キリシタンに対する拷問はあまりにも酷いものでした…
あれこそがまさに地獄というものかと感じました
神を信じ祈り続けても何も聞こえない
サイレンスという題名はあの映画にぴったりだと思いました
リーアム・ニーソンがかっこいい!!
観てよかった
内容難しいかな、3時間は長いなーとか観るまでにネガティブだった部分ありましたが、3時間の長さは感じなかった。それほど引き込まれてしまう。じっくりじっくりと作られている丁寧で美しい映画だった。キチジローのゲスっぷりがなんともいい感じ。
救いとは
信仰心がまったくのゼロなので踏み絵を踏めない意味が分からない…とずっと思ってきてたんだけど、あれほど厭らしく苛烈に追い込んだのだとは知らなかった…
神父自身でなく他人の命をダシに棄教を迫り、それを何度も何度も再確認させる…
救いとはなんなのか?
死後のぱらいそなのか、現在の救いなのか?
そもそも救いとは生きている間にもたらされるものなのか…
信仰心を秘めたまま死ぬことが救いなのか…
なぜスコセッシがそれほどまでにコレを映画化したかったのか考えさせられる…
しかし、アンドリュー・ガーフィールドや窪塚洋介・塚本晋也をはじめとして主役級の演技は素晴らしい…特にイッセー尾形の厭らしさは特筆もの。
ただ小松菜奈はいただけなかったな…
演技云々よりも、綺麗な子を特殊メイクで汚くする事もないんじゃないかな…
沈黙 サイレンス
大ヒットするような内容の映画ではありませんが、見た後に心の中に何かを残す、考えさせる、いつまでも忘れられない映画だと思いました。ただ、一つ、一つのシーンに遠藤周作が、小説「沈黙」に込めた思いの上に、スコセッン監督の思いが重なにられているのを感じ、それがとても深いので、一度映画を見ただけでは、それを汲み取れなかったのを感じました。何度か見なければ、汲み取れない気がしました。いずれ発売されるであろうDVDを購入して、改めてじっくり見ながら、その思いを汲み取りたいと思いました。
万人向けではないが,秀作
当初、鑑賞するつもりはなかったのだが、「タクシー・ドライバー」の監督が、スパイダーマンやカイロ・レンやシンドラーなどの有名俳優を使って撮影したというので見てみたくなった。
遠藤周作がこの小説を書いたのは今から 50 年も前の話で、これまで一度映画化されている。信長が比較的寛大に接したキリスト教に対して、秀吉と家康は禁教にして非常に苛烈な処罰を行なったわけだが、これは、キリスト教の宣教師たちが日本人信者を奴隷として東南アジア方面に売り渡していたことが露見したことによるものである。だが、学校教育においては、長年に亘り、キリスト教の平等思想が徳川幕府の身分制度に反するためであると教えられてきた。 そもそも徳川幕府の身分制度と言うが、士農工商などという制度は江戸時代には実在せず、戦後日教組がでっち上げたものであることが明らかにされてしまっているのであるから、それに反する平等思想などという理由もまたでっち上げなのである。
禁教後のキリスト教徒に対する処罰が苛烈を極め、極めて残虐な方法で信者を殺戮したという事実は認めざるを得ないようだが、それは世界各地でキリスト教を弾圧した歴史においてほぼ同様であって、日本の場合が飛び抜けて残虐であったわけではない。キリスト教の教義においては、イスラム教のように弾圧して来る相手に対して聖戦を仕掛けろなどということはなく、試練だと思って非暴力で耐えろと教えられるが、それは教祖のイエスの最期そのものから来る教えであり、殉教者は聖人として崇拝される。宗教家にとっては魂の救済こそが最重要なのであって,魂か肉体のいずれかを選ばなければならなくなった場合は,魂を選ぶものなのである。
中世の宗教改革において、それまでの腐敗を糾弾されて行き場を失ったカトリック派は、イエズス会を立ち上げ、ヨーロッパを離れて新天地に布教すべく、アフリカや南米をはじめとして、遠くアジアの極東に位置する日本にまで宣教師を送って来た。イエズス会による布教活動においては,多くの場合、現地人から迫害を受けたり、無理解に晒されて多くの宣教師が悲劇的な目に遭っており、その南米を舞台にした映画に、1986 年に作られた名画「ミッション」があった。
どれほど宣教師や信者が酸鼻を極める迫害を受けようと、神は沈黙を守り続け、自ら信者たちを救ったなどという話は一度もなかった。実はこれこそが、近代科学を発展させるきっかけになったのである。ニュートンもケプラーも熱心なキリスト教徒であり、神が直接語りかけてくれないので、神が自ら作られたと聖書に書かれているこの世界を調べれば、神の意志が分かるのではないか、という推論に基づいて、理詰めで世界の成り立ちを調べて行ったら、皮肉なことに、聖書の記述と違う結論が多発してしまったということなのであるが、話がそれるので続きは別の機会にしたい。
遠藤周作は、母親によって子供の頃に洗礼を受けさせられたようだが、教義について熱心な信者とは言い難く、魂よりも肉体の救済を選択するというこの小説も、カトリックの名高い高僧からは異端的な考えとして批判されている。恐らく、この作品に出て来るキチジローは、遠藤周作の分身なのだろうと思われるが、踏み絵を踏んでは宣教師に懺悔するという行動を繰り返すこの男は、イエスを金で売ったユダのようにも思えるし、熱心な信者になれない自分を自虐的に描いたのではないかという気がする。
踏み絵を踏めないというのは、偶像崇拝を禁じられているキリスト教徒としては非常に奇異に感じられるのだが、この当時日本に伝来したキリスト教は、布教のために教義の一部をローカライズすることがあったようで、例えばキリストは太陽神であるといった教えもあったようだ。これではまるで大日如来を本尊とする真言宗のようになってしまうが、そうした先行宗教になぞらえて教えるというのは、布教上のテクニックとして妥協の産物だったのだろう。そのため、仏像を熱心に拝んで来た日本人には、踏み絵を踏めない者が多発したのかも知れない。ただ、宣教師の方も「踏むな」と教えていたのは解せなかった。
理想に燃える若い宣教師が、世界の果てに渡って布教するというのは、いかにも頭でっかちな考え方だと思わざるを得ない。まず、言葉が通じないのをどうするつもりだったのだろうか?この作品では英語に置き換えられているが、登場人物の多くが英語を話していたことには目が点になった。ご都合主義の最たるものである。問題はそこではないという趣旨なのかも知れないが、言葉も通じない世界に渡って来た宣教師たちは、猿の惑星にでも来てしまったと思ったに違いない。なので、猿が迫害された時と、仲間の宣教師が迫害された時とで、あれほど態度が違うのだろうと思わざるを得なかった。
迫害する日本の役人は、鬼のような悪役として描かれるのかと思ったら、物腰が柔らかく、どちらかというとにこやかな表情を見せていることの方が多かったのには驚かされた。必ずしもキリスト教徒に悪意を持っている訳ではなく、役目上止むを得ず取り調べを行なっている立場なのだということなのだろうが、だからと言って信者に同情して見逃したりすると、自分が責めを負わされるのである。イッセー尾形が演じた井上筑後守は、にこにこしながらユダヤ人を大量に殺戮したアウシュヴィッツ強制収容所のヘス所長を彷彿とさせるような恐ろしさがあった。
英語の発音は、浅野忠信が一番上手く、流石に通詞役に相応しいと思った。イッセー尾形の発音も、アメリカ暮らしの長い人にもああいう話し方をする人はいるので、非常に自然に聞こえた。一方、キチジロー役の窪塚洋介の発音はかなり問題があると思った。音楽は聞いたことのない名前の人だったが、ハンス・ジマーを彷彿とさせるような見事な音楽を書いていた。ただ、音楽の出番があまりなかったのが、ちょっと気の毒だった。エンドタイトルに音楽が流れない映画というのはあまり記憶にない。
演出は、スコセッシらしく、暴力表現には容赦がなかった。拷問シーンの割合も高く、重い映画であった。日本人の描写は、侍は清潔ななりで描かれていた一方で、百姓の姿を汚く描き過ぎではないかと思った。いくら土にまみれた百姓でも、お祈りをするときや十字架を手に取る時まで手を汚いままになどしていたはずがないだろうと思った。原作にはなかったのに、最後に追加してあったシーンによって、主人公の後半生が偲ばれたのは、恐らく監督のアイデアなのだろうと思うが、慈悲のようなものが感じられる良いシーンであったと思った。
(映像5+脚本4+役者5+音楽4+演出5)×4= 92 点
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