沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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共同体の権威と個人の信仰、そして不条理
誰もが学校の歴史の時間に習ったことを復習してみる。
原始時代、例えば大型の動物を捕獲するとき、ひとりで捕獲するよりも複数の人間が役割を分担して捕獲した方がより捕獲できる確率が高くなるし、かかる時間も短縮される。つまり効率的だ。または植物を栽培するときも、ひとりで全部の作業を行うよりも、複数の人間で協力して行なった方が効率的である。
狩猟、採集も、植物の栽培も、収獲または収穫は、日照や雨、風などの自然条件に左右される。自然条件がどうなるかを予見したり、有利になるように祈ったのがシャーマンで、シャーマンは原始共同体の指導的立場となった。
文明が発達した大河川の流域では、土地が肥沃で植物がよく生育する半面、川の氾濫で作物を喪失する危険性もあった。治水しようにも川は巨大で、ひとりではどうにもならない。しかし大勢の人間が協力して治水をすれば、安定した収穫を得ることができる。そこで原始共同体が誕生する。しかし大勢の共同作業となると、計画や指示命令系統の確立が必要だ。各個人が勝手に行動し、互いに指示命令しあって誰も服従しなければ、共同作業は成立しない。つまり共同体も成立しなくなる。そこで必要になるのが、人々を服従させるための権威だ。最初は、最も暴力的に優れている者が個人として権威を持つことになる。暴力によって苦痛を与えられるとわかれば、それを避けるために腕力の強い者に従うようになるからだ。しかしそれは長続きしない。個人の暴力は時間的空間的に限界がある。ひとりで毎日24時間闘いつづけることはできないし、遠くの敵とも闘えない。寝ているところを襲われたら終りだ。そこで、複数の人間を束ねて暴力装置とすることができる人間が権威を獲得することになる。組織し、命令系統を確立すれば、多くの人間を服従させることができる。24時間交代制の護衛を置けば、寝首を掻かれることもない。それが王のはじまりだ。
次の段階では、あちこちに成立した共同体同士の利害対立がはじまる。それは共同体を支配する権威同士の対立でもある。権威というものは暴力装置に担保された共同的な幻想であるから、他の権威に暴力的に打ち負かされると消失してしまう。日本や中国の戦国時代の歴史を見れば、弱小の共同体の権威が強大な共同体の権威によって消失、または服従することを繰り返している。共同体の支配者の権威はどこまでも相対的な価値観なのだ。
そこで共同体の支配者たちは絶対的な価値観によりどころを求めることになる。神話だ。神話に於ける権威と、共同体の権威を一致させることで、共同幻想の相対性を弱めることが目的だ。歴代の武将が天皇制を利用したのはこの構図である。
一方、共同体の内側では、支配する階級と支配される階級が世襲的に固定化された格差として存在するようになる。格差社会はいまに始まったことではなく、大昔の共同体の成立時から構造的に発生したものなのだ。支配される側には服従するだけの人生しかなく、何の救いもない。救いがなければ自殺や強盗が多発して共同体が崩壊することになる。そこで共同体内部にも神話を登場させ、絶対的な価値観を説いて現実の共同幻想を相対化しようとする。共同体のルールへの服従と勤勉を説くことで共同体の生産性が維持できるのだ。個人と共同体の対立構造よりも、個人と絶対神との関係、つまり信仰に重きを置くことで、人生に救いが生じる。イスラム教やキリスト教はこの類である。
仏教は成立したのがずっと前だけあって、宗教というよりは哲学に通じるものがあり、価値観の相対化と人間精神の構造を説く。現世は存在しているようで存在していない、存在していないものが実は存在するという、禅宗にも通じるような印象の教義が般若心経に書かれている。仏教は信仰ではなく悟りによってではあるが、やはり他の宗教と同様に、現世での不安と恐怖と苦痛から人々を解放しようとする。
次の段階では、国家や都市が成立し、その中で組織が細分化され、それぞれに権威が与えられる。被支配階級からも起業するものが現われて企業や暴力団を組織し、やはりそこに権威が生ずる。宗教の指導者の権威も徐々に強くなっていく。
現代日本の身近な生活を振り返っても、年長者、先輩、上司、会社、自治体や国の政治家、得意客など、頭を下げなければならない人間が山ほどいる。必ずしも相手を尊敬しているから頭を下げる訳ではない。相手に権威が与えられているから頭を下げるのだ。
つまり人間の生活は大小強弱さまざまな権威に支配されつづける生活なのだ。しかもすべての権威は相対的で、いつ失墜しても不思議ではない。絶対的と思っていた筈の信仰に於ける権威も、実は歴史の関係性の中で生み出された相対的なものなのだ。神という権威はどこまでも人間が生み出したひとつの観念である。
さて、そういった複雑極まりない価値観の変遷を踏まえた上でのこの映画である。絶対神を奉ずるキリスト教の価値観は、自力本願を旨とする武家の仏教と相容れない。日本の支配階級の役人たちは、キリスト教の権威が武家の権威を脅かすと考えたのだ。
登場する人々はどの立場にあっても不安と恐怖に苛まれている。弾圧する側もされる側も、例外なく権威という相対的な幻想に蹂躙されているのだ。
多くの人々は、そのことを理解している。にもかかわらず、子供を生み、同じく不安と恐怖と苦痛に塗れた人生を繰り返す。歴史は不条理であり、人間の存在も不条理だ。
これほど不条理を実感させる映画は滅多にない。最初から最後まで登場人物は全員不条理に曝されている。観客はその重苦しさに窒息しそうになるが、人々の不条理に抗う姿を見続けずにはいられない。殉教は必ずしも肯定されるべき行為ではなく、踏み絵を踏むのも必ずしも責められるべき行為ではない。それは禅の考え方に通じる、相対的な価値観である。
役者は皆、達者な演技をしている。しかしそれはこの映画に限っては、強ち特筆すべきことではない。人間は日常的に不条理の中で生きている。
役者たちに不条理に抗いながら生きている演技をさせた監督の演出は評価に値する。不条理を言葉でいうのは簡単だが、演技指導として不条理を前提にするのは困難極まる。ロバート・デ・ニーロにタクシードライバーを演じさせた監督の面目躍如である。
見終わっても重苦しさが消えないのは、映画が齎す不条理の量が圧倒的だからだ。それは歴史の一時点の不条理ではなく、時の流れに少しも衰えることなく、いまに至るまで人間を苦しめ続けている。映画を観終わると、あたかも断崖絶壁に立たされた人間が目隠しを解かれたように、自分がどうしようもない不条理の現実に生きていることに気づかされる。立ち竦まずにいられる人間は、ひとりもいない。
ちいさな宗教戦争
妥協が見える自己満
内容ではなく、映画として。
日本の農民はキリスト教徒であれば
誰でも英語を話せるということ、
武士も役人は当然、
下々の牢番まで英語を話せること。
これでは浅野忠信の通訳は不必要。
異国の中でしっかり英語を話せる通訳だからこそ、
心を通じる(かは分からないけど)
という大事なポジションなのでは?
そしてそもそもはポルトガル語なのでは?
この言語の描写をスルーしてレビューすることは
この映画に関してはとてもできません。
違和感持たないですか?
結局、マーティンスコセッシはハリウッド目線の映画を作ったこと。
あそこまで日本の小説で日本を舞台にし、
宗教のそれを描くのであれば、
そこは妥協すべきではないところと思う。
浅野忠信もイッセー緒方も良くなかった。
窪塚洋介のくすんだ目と、
人間らしすぎる卑屈さは良かった。
「考えさせられる」
それはその言葉を発することで満足しているだけ。
原作を読もうと思う。
原作イメージ守っている
つまらない
沈黙
弱きものへの迫害は今なおつづく
迫害の中でいかに信仰を貫くか、いかに生き抜くのか。どんなに迫害が厳しくとも神は沈黙し、命をさらして生き方を問われるのは人間だ。
結局、生きることと信仰を貫くことを両立させるために必要なことは、心すら閉ざして沈黙することだった。
為政者が弱きものへ求める服従は、声をあげることを奪った。そして沈黙することすらも奪おうとする。
あの拷問は、"進化"して特高警察に引き継がれた。弱きものに服従を求める為政者の欲望は、今もなお姿を変えてこの国を覆う。
弱きものへの迫害は、今なおつづく。基地被害地を見よ。被災地を見よ。過労死を生む企業社会を見よ。民族や信仰を理由に差別するものを許容する為政者を見よ。
本質的には"進化"していない、弱きものが多数を占める我が国ニッポンだ。本当に困ったもんだ!なんて、なっ。
神の存在を問う
最初から最後まで幕府のキリスト教信者への弾圧やあらゆる拷問にそれでも神を信じ続ける信徒たちのいわば我慢くらべのような映画です。
特筆すべきはやはり現代にも通じる外国人から見た日本人の様々な特徴を細かく捉えた正直な描写です。
主役の外国人神父の視点で映画は進むので出てくる日本人が良い人も悪い人もとにかく不気味でキモいです。それでも今までの日本を扱う作品なら主人公と恋に落ちる若い邦人女性が出てきたりしましたがこの映画にはそんな甘ったれた展開はなし!最初から最後まで脱線せずにひとつのテーマを追い続けるので長時間ですが目が離せません。
日本の俳優陣も予想をはるかに超えた素晴らしい演技で特に浅野忠信さんはこんなに存在感のある俳優だったのかと再認識させられます。
信徒への拷問が見るに耐えないものもあるので要注意です。そしてこの作品独特の雰囲気は映画館じゃないと味わえないような気がします。
余談ですが映画が終わった後のエンドロールはありませんのでエンドロール中に帰る方はタイミングが難しいでしょう
期待したほどでも
日本人俳優達の素晴らしい演技
よくぞ映画化してくれた
みんなが知らない日本の歴史
海外の監督から学ぶとは。
これが事実だとは思いたくないけど。
宗教っていったいなんだろう。
と考えさせられた。
海(波)が人間の不安や残酷などを表現していて、最近の日本映画ではこういうシーンは見てないな。
野村芳太郎監督作品を思い出しました。
皆さんが言うようにおすすめはしません。自分が見たいと思ったら見にいくべき作品ではあります。
沈黙 -サイレンス-
何を伝えたいのか全くわからなかった。
感じたことと言えば、宣教師は多くの人に幸せになってもらうために宣教活動をしていたと思うのですが、自分たちがその活動をすることによって多くの命が奪われている時点で、活動のあり方を考えるべきだったのではないかと感じました。
このようなことから、キリスト教弾圧政策が悪いのか?その中でも宣教活動をひろめた宣教師が悪いのか?そう考えたときに、私はより多くの被害を出したのは、後者なのではないかと感じた。
以上のことから、そのような状況下にあっても多くの人に教えを広め、多くの人々を犠牲にしたキリスト教に対して悪い印象を結果的に持つ事になった映画でした。
追伸
キリスト教徒の方々から見れば、このような方々がいたから現状があるという風に感じることができるとおもいます。あくまでも無宗教の私から見た感想でした。
今、映画化の意義
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