沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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映画の世界にずぶずぶと浸る、至福の2時間42分
出張帰りに、子どものお迎え時間を気にしながら鑑賞した。バタバタの生活の中の、2時間42分は大きい。ちょっと決意がいる。けれども、いざ踏み込んでみると、全く長さを感じることがなかった。どっぷり、ずぶずぶと映画の世界に浸る幸せを、存分に満喫した。
個人的に何より気になっていたのは、アンドリュー・ガーフィールド(以下、敬称略)の出演。彼を初めて見た「BOY A」の衝撃は忘れられない。キチジロー役の窪塚洋介と宣教師ロドリゴを演じた彼のツーショットを見て、「あ、二人とも黒目が多い、子鹿の目なんだなあ」と気づいた。(以前、冨永監督が、窪塚さんや染谷将太くんを「子鹿みたいに澄んだ黒目が多い人は、何を考えているかよく分からない、そこが魅力」といったことを、インタビューで発言していた気がする。)
若く青い使命を持って異国に来たものの、如何ともしがたい凄まじい現実に直面し、揺らぎ壊れていくロドリゴ。川辺に膝をつき水をむさぼるうち、水面に映る自分の姿にキリストの姿が重なり、ゆらゆらと揺れ動く。…あ、キリストも子鹿の目だ、と再び気づかされた。
もがきながら狂気をさまようキリスト教徒たちに比して、イッセー尾形や浅野忠信が演じる奉行所側は、全く動じない。余裕たっぷりに、一寸の隙なく自らの勤めを果たす。卑劣、残酷、老獪…ぴったりくる言葉がなかなか浮かばない。観ているときは、どうしてここまで…などと素朴に思ったが、思い返すにつけ、狂気も極限までいけば、静謐なまでの落ち着きを醸すのだと思いが至り、改めてぞわぞわとした。
言うまでもなく、日本人キャストはいずれも素晴らしい。片桐はいりはそこにいるだけで絶妙な味を醸し出しているし、小松菜奈は邦画では見せない田舎っぽさを発揮し、作品によく馴染んでいる。中でも光っていたのは、「六月の蛇」コンビと言いたい塚本晋也と黒沢あすかの存在だ。特に、ロドリゴの妻を演じた黒沢あすかは、セリフなしにもかかわらず十二分に背後の物語をにじませ、重要な役どころを果たす。「六月の蛇」のヒロインと重なるところが多く、「六月の蛇」あっての本作では、と感じた。また、冒頭と終幕の暗黒と自然音(風の音、虫の声…)のひとときは「野火」を彷彿とさせる。思いがけず、このような大作の対極とも言える、塚本作品との化学反応が垣間見られたようで、ほくほくとうれしくなった。…となれば、今度は、塚本晋也監督の次作に期待せずにいられない! 映画って、本当に空恐ろしいほど奥深く、面白いなあとしみじみと感じた。
これほど丁寧に、執念と尊厳を持って映画化されるとは思わなかった
原作小説が発表されたとき、神の沈黙というテーマは多くの教会でタブー視されたと聞く。そんな原作に大きく魂を揺さぶられたのが、全く異なるアメリカの風土で育った巨匠スコセッシ。その後、幾度も彼による映画化の道が探られては断念されてきた。原作発表から50年が過ぎ、今こうして完成版がお目見えすること自体、幻を見ているかのようだ。
それにしても、さすがスコセッシである。ここには「おかしな日本」など微塵もない。決して欧米式の安易な解釈に寄せるのではなく、当時のスペイン人宣教師やキリシタンの心のキャンバスに映っていたものをしっかりと研究し、理解した上で表現しようとする覚悟と執念がある。しかも原作を読んだことのある私が全く掴みきれていなかった情景さえも具象性を持って描かれている。そこに凄さを感じてやまなかった。私にとっては、スコセッシが辿った数十年に及ぶ映画化の道こそ、真の信仰のように思えてならない。
日本人社会の本質をあぶり出すスコセッシ監督の手腕
序盤、アンドリュー・ガーフィールドの「キチジロー!」とたどたどしく呼ぶ台詞が、シリアスな状況にもかかわらず微笑ましい。とまあ、そんな些細なことはさておき。
もちろん宗教と信仰が大きなテーマとしてあるわけだが、過去から現在まで不気味なまでに変わらない日本人特有の社会、支配と服従の構造と手法、個人が集団に属したときの暴力性と残虐性といったものが、外国人監督の客観性によって的確に――的確すぎて日本人観客には痛いほどに――描き出されている。その意味で、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」に通じる作品でもある。
日本人キャストも、とてもいい。イッセー尾形の役作り、窪塚洋介のしたたかな弱者っぷり、塚本晋也の凄絶な死にざま。彼らの熱演の前にややかすみがちだが、浅野忠信のつかみどころのなさ、厳しさと親しさを自在に使い分けて宣教師に棄教を迫る複雑なキャラクターも、確実に効いている。
観る者を選ぶが、重厚かつ素晴らしい人間ドラマだ。
17世紀初め、棄教したと言われる師に会うため、日本に渡った2人の若い神父の、過酷な運命を描く歴史ドラマ。原作は遠藤周作の小説『沈黙』。監督はマーティン・スコセッシ。
壮大なスケールで、宗教弾圧、心の信仰、裏切り、死と救済というテーマを、静謐なトーンで描き切っている。迫害、拷問、処刑シーンなど残酷な描写があり、日本ではPG12、アメリカではR指定となった。
本作に、娯楽映画を期待してはいけない。上映時間が長く(約160分)、抑制的に描かれた作品なので、単調で退屈に感じる観客もいるだろう。煽情的な高ぶりや大きな抑揚があるわけではない。
もっと短く出来たかもしれないし、真面目過ぎる作品かもしれない。それでも、映画的な美しさに満ちており、信仰や命とは何かを、真摯な姿勢で、見るものに重く問いかける、重厚な人間ドラマだといえる。
やるせねぇなぁ…では片付けられない普遍的なテーマ
原作既読。
信教と正面から向き合い葛藤する、敬虔な宣教師ロドリゴ神父役にアンドリュー・ガーフィールド。切支丹でありながら幾度となく踏み絵に応じて生き延びていくキチジロー役を窪塚洋介。この配役は見事でした。イメージ通り……いや、それ以上。配役と演技だけでは無く、あらゆる面において原作以上の衝撃を受けました。
「神の沈黙」と「日本における異教の布教の難しさ」が本作のメインテーマにあると思いますが、非常に分かりやすく丁寧に描かれております。かなりの長尺ですが、全く退屈することなくぶっ続けで観れます。拷問や処刑のシーンにおける悲痛な叫び、踏み絵における極限の葛藤。これらの表現が非常に生々しく、残酷に描かれていて胸が締め付けられます。
前述した2人の俳優が素晴らしい!原作以上にロドリゴだし、原作以上にキチジロー。語彙力無さ過ぎてこんなことしか言えないのが悲しいですが、本当にそうなんです。
そういえば音楽ありました?終わった時にふと思ったのですが…。映画はやっぱりド派手なBGMで盛り上げてほしい!と、いつもは思っている私ですが、本作に関しては全く気にならなかったです。むしろその分登場人物に感情移入でき、心理描写を集中して観ることが出来たのかなぁと。しかし、160分をBGM無しで退屈させず、且つ緊張感を持続させて観せるというのは並大抵のことでは無い。マーティン・スコセッシ恐るべし。
ドストエフスキーも「カラマーゾフの兄弟」なんかで書いていた神の沈黙。百年以上前から問題提起されているこのテーマは、もはやキリスト教にとって普遍的な問題なのかもしれません。そして絶望の中に希望を見出し、盲信的になってしまう危険性も描かれています。その一方で、ある意味キチジローは賢く生きていると言えるし、卑怯ではあるかもしれませんがどこか現代的な印象もあります。
俳優の名演、途切れない緊張感、あまりにも残酷なキリシタン弾圧のストーリー。とてつもない重厚さで映画化された「沈黙」は紛れもない名作でした。
これが真の役者
イエスは自分を神とは思ってない
信仰の意味について深く考える契機となっている
キリシタンの弾圧に対して殉教する者、棄教する振りをして迫害を避ける者、神は救ってくれないと結論を出す者。様々なキリシタンの姿を通じて、信仰の意味について問う映画。
日本で囚われているキリスト教の師を助けるという純粋な気持ちから、弟子2人は日本に来た。その彼らが日本におけるキリシタンの惨状を見て、そして自分達も迫害に遭った経験をしたことで、これまで以上に彼らがキリスト教の意義について深く考える契機になったと思う。と同時に、それらの経験によって純粋な信仰心を持てなくなったのだから、知りすぎたことがかえって不幸につながっていると言える。救いをもたらすはずの信仰が、かえって彼らを苦しめることになっているのが哀しい。
今作は、外国人の監督ながら当時の日本の様子を上手く再現できていると思う。また、OPとEDでひぐらしの鳴き声や雨の音をBGMとして使用しているのが、日本の夏を感じさせられて良かった。
人々に必要とされる神父の喜び
神などいない
そこにあるのは生まれて、ただ死ぬだけ。何故なら人もまた動物で他の生き物となんら変わらないのだから。
虚しい。空しい。映画が?ちがう、脳みそが空しいのだ。何故か?私は日本という大変恵まれて治安の良い土地で生まれながら、
幸福感がイマイチ湧かない。幸せと思うべき環境なのにだ五体満足で食べるものにも困っていないのだから。幸せなのに幸せと思わない自分に対して虚しさをおぼえる。
俺はリーアム・ニーソンと窪塚洋介を尊敬している、いや、窪塚洋介は好きだ、(ルックスが)
スパイダーマンの俳優すきだよ❕この映画でさらに大人になったね❕演技派俳優👀🍿*゜
満点?人の作品に点数だと?,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、(ノ∀`)'`,、'`,、'`,'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、笑わせるな、そもそも裁判等も滑稽だ人が人を裁くとか笑わせるなホモ・サピエンスよ
アダム・ドライバーが死ぬ時のガーフィールドの演技はセブンのクライマックスに近づくほど泣ける演技力だ
映し出された全てが美しく荒々しい。
迫害の論理と日本主義の精神
あまりにも古い時代の話である。17世紀、日本では江戸初期のころだ。なぜこの時代に日本でこれほどまでにキリスト教が迫害されていたか。理解に苦しむ。今の価値観で捉えれば、「踏み絵」なんて大したことには思えないが、当時のキリスト教徒にとってはこれを行うことにものすごい心理的葛藤が伴った。この時代の人々の心持ちはよほど純粋だったのだろう。宗教に迫害はつきもので、度重なる試練に直面するのはどの宗教も例外ではない。現代でいえば、創価学会。叩かれれば叩かれるほど強靭になっていき、ついに日本の政治の中枢に到達した。
「この国は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる・・・日本の信者たちが認識している「神」はわれわれの「神」とは違うものだ。」
今まで日本にもたらされた外来文化はことごとく日本式に姿を変えていった。近代でいえば、資本主義や民主主義。日本独自のものとなり、その風土や伝統、そして国民性に深く根ざしたものに変換され、本来の思想はあまり議論されることなく、日本流が当たり前のものと日本人には認識されている。そもそも本質はこうだと心の中で論じるのは勝手だが、郷に入れば郷に従え、その国に生きる者はその国の慣習に従うほかない。
日本人とキリスト教の関わり方
キリスト教を主題にした本作品だが、作者の遠藤周作は、著名な作家であるし、その代表作として、「沈黙」が挙げられることも、多くの方がご存じかと思います。
ただ、原作小説をどれだけの日本人が読んでいるかは、よく分かりません。
少なくとも、私は未読でした。
キリスト教を題材に、ということから、原作小説は、欧米でよく読まれているようです。
本作品の監督も、かなり以前に原作を読んで、映画化を長年考えていたとのこと。
ストーリーとしては、舞台は江戸時代初期。
ポルトガルの宣教師のロドリゴとガルベは、恩師の宣教師、フェレイラが、日本での布教中に、棄教したとの情報を得て、自ら日本に渡航する。
そこには、激しい弾圧を受けながらも信仰を続ける村民たちがいて、彼らに匿われる形で、布教をすることとなった。
果たして、フェレイラの棄教は事実なのか?そして、恩師に会うことはできるのか…。
この物語は、キリスト教をよく理解している日本人が原作だからこそ成立したものと思います。
物語では、キリスト教の宗教観と、日本人の宗教観が激しく対立する内容になっています。
しかし、キリスト教圏の国民が原作者であれば、日本人の宗教観を描けなかったでしょうし、逆に、一般的な日本人であれば、キリスト教の宗教観をここまで表現できなかったでしょう。
私は純粋な日本人なので、自分の宗教観を述べてみます。
仏教に関して言えば、親族の墓は、仏教寺院にあることから、仏教への関わりはあると思います。
また、神道に関して言えば、初詣に神社にお参りしたりするので、神道への関わりはある。
と、いうことで、神仏両方を信仰しているが、ただ、それほど熱意のある信仰ではない、というもの。
こんなところが平均的な日本人の宗教との関わりなのではないでしょうか。
しかし、こうした態度、つまり二つの宗教の掛け持ちもOKなどというのは、キリスト教信者からは考えられないことだと思います。
本作品では、この一つの宗教を徹底的に信奉するという宗教観を持つ信者が、その宗教が弾圧された時、信奉する神は、どんな救済をしてくれるのか、ということに真面目に取り組んだ作品であり、キリスト教とは無縁の私にも、その苦悩や辛さというのは、十分に伝わってきたと思います。
本作品は、宗教というものについて、深い思索を巡らした作品として、キリスト教の信者であるかどうかに関わらず、一見の価値のある作品だと感じました。
162分という長い作品ではありますが、緊張感が途切れることなく、鑑賞することができ、良作と言えると思います。
信仰に対する苛烈な葛藤と苦悩
もっと宗教色の強い作品だと思っていたが、予想以上の衝撃作だった。本作は、17世紀、江戸時代初期の江戸幕府によるキリシタン弾圧を通して、主人公の若きキリスト教・宣教師ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)の信仰に対する壮絶な葛藤と苦悩を真正面から描いた人間ドラマである。
若き宣教師、ロドリゴ、ガルペ(アダム・ドライヴァー)は日本の長崎で布教活動をしていた師匠フェレイア(リーアム・ニーソン)が棄教(転び)したという情報を入手し、真相を確かめるため、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本に潜入する。そこで、彼らは、日本信者たちの過酷な現状を目の当たりにして、次第に信仰と救いの矛盾に苦悩していく。ついには、主人公は捕らわれの身になり、幕府の役人達(イッセー尾形、浅野忠信)に棄教を迫られる。そして、主人公の前で、キリスタンという理由だけで信者達が無残に殺戮されていく。信仰によって何故信者は苦しめられるのか、こんなに信者が苦しめられても何故神は救いを与えないのか、沈黙したままなのか、という疑問が彼の心を苛んでいく。探していた師匠フェレイアにも会えるが、師匠の心境の変化に主人公の動揺は更に増していく。ついに、彼は神の声を聞き、ある決断をする・・・。
娯楽作品ではない。信仰を貫こうとする主人公への極限の試練、激しい問題提起に圧倒され、立ち竦むしかない。若き宣教師を演じる二人が、人間らしい喜怒哀楽を持った、聖職者然としていない、普通の人間として描かれているので、素直に感情移入でき、主人公の心情と一体化できる。主人公とともに、我々観客も、自分の価値観を根こそぎ揺さぶられる。従来の洋画では、信仰は絶対であり、それでもなお、というストーリーが多いが、神の存在を問うた、ベルイマン監督の“処女の泉”を思い出した。宣教師という聖職にある主人公の決断は、あまりにも酷であり、彼は、何故ここまで苦悩しなければならないのかと思うと涙が溢れてくる。ラスト近くまで、主人公の本心は分からないが、ラストシーンで明かされる。鑑賞しながら、そうあって欲しいと思い続けた通りの幕切れだった。救われた思いがした。
信者たちに加えられる拷問は凄まじく目を覆いたくなるほどであり、彼らの信仰心も揺らぎ、キチジロー(窪塚洋介)のような棄教者、密告者も出るが、それでも、多くの信者は信仰を捨てない。死ねば苦役や飢饉もないパラダイス(天国)に行けると信じている。それだけ、当時の人々の日常は過酷なものであり、信仰は、彼らの見出した唯一の光明だったことが推察できる。彼らは、罪人ではない。信仰の自由という扉を開こうとしただけである。本作のような自由を行使した者たちへの弾圧は、洋の東西を問わない。戦後生まれの我々は、生まれた時から、思想信条の自由など、様々な自由を当然のように謳歌してきた。しかし、その自由を獲得するまでには、本作のような過酷すぎる道程があったことを決して忘れてはならないだろう。
きりきりと心がいたむ
ん、日本が舞台?あー、「沈黙」って、遠藤周作が原作の作品かー。 私...
ん、日本が舞台?あー、「沈黙」って、遠藤周作が原作の作品かー。
私は無神論者です。宗教、大嫌いです。なぜって、他を認めないから。世の中の争いの原因の大部分を占めてもいます。
本作でも随所に、「どうしてそこまで信じ込める?(そうさせられている?)」
踏み絵なんて踏めばいいじゃん、だって殺されるんだぜ、自らの命をもっと大切に!司祭もそう言ってやれよ、お前らのせいだぜ!本作の司祭2人の意見が分かれてたのが面白かった。本作、そういう意味では考えさせられること多し。キチジロー(窪塚洋介)こそが人間。
信仰は自由でそれを否定する気は毛頭ありませんが、自分の命だけは大事にして欲しいです。
興行的には大失敗だったようですね。そらそうです。重くて見て面白いものではない。
評価高いですねー。こういう作品こそが意義深いって評論家が言いそうですね。
長い(笑)
「とある男の奇譚」程度で終らせておかないと、あまりにもつらく哀しいお話
『マークスマン』からの流れでリーアム・ニーソンさん(危うく“ニーアム・リーソン”と書いてしまうところでしたぁ!)ご出演作品ということで1000円で買った中古Blu-ray購入で観直してみました。
雑談の中でやっちゃいけないことのトップに君臨する“宗教”という物を題材とした映画です。
レビューもそれなりに言葉を選んで書かないといけないと思うのですが。
序盤から「これがええんか!これがええのんか!」と文字通り地獄の責め苦の連続です。
観ている途中で、日本におけるキリスト教迫害の歴史だとか、キリスト教の教えだとかを、さらりと読み流してみました。
難しい!ややこしい!全く理解できない!
そしてあまりにもヘヴィーな内容ですので「とある男の奇譚」という感想程度で終わらせておかないと、後々厳しくなる作品ですね。
“神の沈黙”がテーマだったのだろうと、簡単勝手な解釈をしていますが、最後の最後のカットが、何よりもこの男の生涯ついて雄弁に語っていたような気がします。
そして、そこでやっとこの物語の救いを見た気がしました。
キリスト教的救済については、全く理解できないままでしたけれど。
あれぇ?今回はやけに真面目なレビュー書いてるぞぉ(笑)
この流れからの1971年版の『沈黙 SILENCE』を観て、からの『パッション』をまた観直してみたい気がしてきました。
マゾか!自分!←やっぱりこうでなくっちゃ!
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