沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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人間は諦めないし救いはある
残酷な映画、というのが率直な感想です。
キリシタンがまるでごみのように拷問されていく様は
人間が無価値なものと錯覚してしまいます。
あの時代、人は秩序の為にしか存在しなかったのかと
百姓の生きる意味は幕府にとって
年貢を吸い上げる虫程度の意味しか持たなかったのかと
知識として知ってはいたものの
映像を前に絶望感と無力感に苛まれました。
その中でパードレを迎えるとき礼拝を行うときの
モキチやお爺が頬の緩んだ明るい笑顔が
印象的でした。
キリスト教を知らずにいたらこの人たちは一生
笑うことを知らずに寿命を全うしたのかもしれません。
またイッセイ尾形演じるイノウエが
パードレに棄教を迫るあの巧妙な話術は
詐欺師のようでありやくざのようであり魔王のようでもあり
圧巻でした。
あの映画の中で正しかったと思えるのは
ロドリコ神父です。
形だけ、表面上神を棄てても
神を口に出来なくても
神を裏切るような行為に及んでも、
洗礼できなくても告解できなくても
礼拝が出来なくても
キリスト教の教えである
腹を立ててはならない
姦淫してはならない
復讐してはならない
離婚してはならない
敵を愛しなさい
などの諸々のキリスト教義を守って
生活されたのではないでしょうか。
その姿を妻が息子が周囲の人が見ることは
それだけで布教になったのではないでしょうか。
だからこそ最後にあんな救いがあったのだと思います。
どれだけ迫害されても自分の大切なものを捨ててさえ
何としても生きようとすることが正しい生き方なのだと
思わずにはいられない映画でした。
映画を見終わってから頭の整理が出来ずにいたら
隣の席のピンクのニット帽を被った
年配の女性に素敵な笑顔で
映画どうだった?
と聞いてくれて簡単な感想を言えて
頭がクリアになりました。
女性は
これから色々考えてね、と言って映画館を出ました。
何だか神様はいるかもしれないと思いました。
どのようにも解釈できる奥の深い映画でした。
久々に生きる意味を考える機会が持てました。
ヘビーな感じ
なかなか、ヘビーな内容でした。沈黙という題名の意味を知らずに観ましたが、信仰というものの本質を言いえて妙です。キリスト教徒でなくても、昔の過激な仏教徒にだってあった話かもしれません。神や仏は答えてくれないのは同じです。
しかし、宗教的信念で、極東の島まで危険を冒してくるというのは、恐ろしくもあります。共産中国や、その昔のソ連が宗教を禁じたのは、当然なのでしょう。
一度見ておいて良かった
重く苦しい題材でしたが、一度見て良かったと思える作品でした。また作中で沈黙がとてもうまく使われていて、世界にどんどん引き込まれていきます。
沈黙したままの神にどう信仰を見出すのか。キリシタン弾圧の進む江戸時代、それはとても難しい問題だったでしょう。司祭達にとって、神を疑うことはとても苦しいことであるし、棄教をしなければ信者達が殺されていき、それでも救いの手は差し伸ばされない。「私は無に話しかけているのだろうか」と悩み、しかしなお信仰を捨てられない。どんなに辛いことだったであろうと思います。
この作品を見ていて思うことは、誰も間違ってはいないということです。信者を殺す側も決して快いわけではないし、棄教をしろという言葉に屈することも悪くはない。色々な考え方があってどれも否定することはできないのだと思います。
この作品を見て私が思ったことは、私たちが言葉や形に表さずとも「神はいる」ということです。それがこの作品の唯一の救いでもあるのではないでしょうか。
観終わった後の静寂
とっても苦しかったです。
観ている途中で辛すぎて席を立ちたい気分になりました。
最後の最後に救いがあったので良かった。
たまには静かに、重い題材を扱ったものを観るのも大切と思っています。
でも、辛かった!
わからない・・・
何を描いた映画なのか?
ただ単にキリスト教について言えば、やはり日本人には理解できないものだと思います。まさに「泥地」。ユダにも例えられる最低の男キチジローの生きざまが正解なのではないのか・・・?そう思ってしまうのです。
それにしても、私も最後のシーンは蛇足だと思います。
重い
マスコミも取り上げていませんが、かつて原作が話題になった頃、篠田監督が映画にしました。何十年という月日が経ち原作も映画も克明には思い出せませんが、クリスチャンがどう撮るか比較したくて見に行きました。スコセッシ監督のほうがやはり的を射てると思いました。アメリカ国籍でも、聖職者かマフィアかになっていたかもというイタリア人と分かって納得しました。
映画としては確かに最後の20分は蛇足の感がします。が、最大の疑問は、原作のまさに神の沈黙の頂点?を思わせる、静かな怖ろしい場面、孔つりの場面のうめき声だけの静寂な世界が騒々しい場面となっていたことです。神の沈黙があの場面に集約されているのが原作だったと思います。サイレンスという副題も気になります。沈黙は「沈黙」です。何も英語を付け加えることはないと思います。
巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」を観た。結論から言うと、映...
巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」を観た。結論から言うと、映画は観ずに遠藤周作さんの小説を速読でも良いから読んだ方が良い内容だった。
何が期待を裏切ったか?それは「徳川幕府時代に長崎を通じて入ってきたキリスト教に何故長崎の人々があれだけ心酔したのか、そこが全く無い」から。いきなりキリシタン( 切支丹 )に踏み絵をさせる場面が出て来て分かります?僕は分からないと思う。
日本という異国・異文化圏にたちまち浸透して徳川幕府もその拡大を怖れたキリスト教。これをスコセッシ監督の目から見て描いて欲しかったが全く欠落している。多分そこの史実( エピソード )が伝えられないと日本史を学習しなかった人も海外の方々も理解出来ないと思う。とても残念だった。
人の心を考えさせられる映画
題名は「沈黙」
誰の沈黙だろう。
追い詰められる日本人キリスタンの沈黙、
祈る伝教師の沈黙、
そして神の沈黙。
伝教師はどんなに祈っても、何も変えられない。だが、後半で彼は、神の声が聞こえるように...
「試練」に堪え、信仰を抱きつづいていた。
そもそも、信仰は何だろう。
信じることかなー 何かを信じて、そしてそれほど強い意志を持って信じる自分が好きになる。生き甲斐を感じる。
それが始まり。
一種の命より大事なアイデンティティのようなものだろう。
だから神の肖像のある鉄板を踏むことは、何度しても許されると思うことなく、踏む時点でその行為が人生の汚点になり、人は自分が好きでいられることもできなくなる。むしろ罪の塊となる。
面白いのはこの映画にはキチジロウという日本人は、何度も棄教徒になるが、何度も神父の許しが欲しかった。彼は神を信じるというより、神父の祈りに託したのでは。まさに「本当のキリスト教徒ではない」の典型だろう。
日本は沼だ。神父のこの一言は無力感を出してよかった。
あと浅野忠信演じた通訳はとても良かった。英語が喋れる日本人が多すぎるが、この通訳は映画の中に重要な役割を果たしている。 彼は、ただの意思伝達の存在ではなく、日本という沼の中の一人として、自身の意思も彼の言葉からわかる。
最長老監督だけに老練!160分でもだれません!
スコセッシ監督御年75歳。おそらく最長老クラスでしょう。劇場経営上の理由で長尺映画の嫌われる昨今、159分って相当長いです。でも作っちゃうんですねえ。映画愛です。前作「ウルフオブウォールストリート」なんて179分ですよ!3時間って考えらんないです、大作です。デジカメになってフィルム経費気にせず作れるようになったのでしょうか。愛がほとばしっております!でも長いからって決してダレないのが老監督の名人芸。1つ1つのシーンにドラマが込められております。字幕追いかけて観てると気付けないようなこまかい演技演出をしてるんですよ。日本の俳優ってこまかいこと器用に表現するんですが、それをちゃんと映像に拾えるのがスゴイなあと。
そういうとこ探して観てると時間長いの忘れます。結構難解なセリフ回しなんで字幕読んでたら、ちっとも面白くないですよ。自分は、外人ってやっぱ大雑把なんだよなあ、訳わかんないこといってらあ、ってなもんでボヘエっと見てました。カルト宣教師の言ってることに意味はありません。やっぱ浅野忠信さん(の役)がいいんだよなあ。
ただどうしても気になることが一点!
緊縛シーンが多々でてくるのですが、全部ユルユルなんです。縛ってないやん・・・。簀巻のシーンなんて縄ほどけてるやん!
海に放り込む場面なんで、おそらく役者の安全のためなんでしょうが、本気で縛らんかい!と団鬼六と黒澤明が私に発破をかけるのでした。
強い物語となって
もう何十年も前の記憶なので正確ではないが、遠藤周作の沈黙は弱くて卑怯な心に向き合ったもっと、じめじめした情けない話、そこに救いがある話だった。それが一転、映画は強い心を持ったパードレの話になっていて、それはそれでずっしり心に問いかける重い映画であった。
監督は今なぜこの映画を作ろうとしたのかな。今の宗教に絡んだ世界情勢と、鎖国の日本で隠れキリシタンとなって自分達の信じるキリストを守る姿は距離がありすぎて、比較にはならない。
もう一度本を読もう。
一晩たって思うのは、井上さまとキチジローの役者が、それぞれ十分力を出しきっていたのだろうけど、どうしてもその演技に注目してしまって、物語が中断する、そこが、私が映画に入り込めなかった理由。演技がちらつくとお芝居になってしまうのよね。ここは小林薫と柄本さんにやってほしかった。
追記
本を再読したら驚くほど本に忠実に映画が作られていた。でも心の弱さや葛藤は、映画では見るひとの想像力に委ねられていて、私は全然この映画を理解できていなかったのだとわかった。何事もわかったようでいて、何もわかっていないのだった?
心を征服する者、心を蹂躙する者
心を征服しにきた宣教師と、心を蹂躙する為政者と、どちらも同じ穴の狢。
どちらかというと、日本人の私としては、やはり一神教のお仕着せがましさが鬱陶しい。
神に代わって汝を許すなどと、神の声を聞いたこともない同じ人間に言われたくはない。
劇中の浅野忠信の言葉を借りると、仏教は「自分の力で悟りへの道を学び仏に近づく」ものだが、一神教は「神の教えに盲従しろ」というもの。
縁もゆかりも無い顔かたちをした男性に「汝の罪は既に私が背負っている」などと言われても、じゃあなんで今苦しいわけ?と突っ込みたくなる。その点「人間が苦しいのは自分の欲からである」と説く仏教の方が、より普遍的に思える。
ただ、武士階級など生活に余裕のある者は、「苦しみは己の欲から生ずる」という教えに向き合う心の余裕もあろうが、重税に苦しみ、ひたすら現実から目を背けたい農民にとっては、「何も考えずに心を委ねる」一神教は乱暴な言い方をすれば楽ですよね。
その点を武士もきちんと心得ていて、農民が本当の意味ではキリスト教の教えを悟っていないこと、そしてだからこそ洗脳されやすい危険があることを承知している。
農民を苦しめている根源であるにも関わらず、「我らも嫌なのだ」「取り合えず形だけでいいのだから」と甘言で体裁を整えようとする嫌らしさ。形だけの行為が、じわじわと彼らを蝕むことも知っている。
そんな農民に「主は許してくださるから踏み絵をしてもいい」と救いの手を伸ばすどころか、神罰と背教を恐れて真の慈悲を見失う宣教師。イコンに執着する心の弱さよ。
本当に信仰しているのなら、胸を張り毅然とした態度で踏み絵をすればいい。
結局人を救えるのは人だけであるということ。
私は、神よりも人の内に宿っている善意を信じたい。
余談だが、最後の20分は蛇足。ロドリゴが踏み絵を決意する緊張の「サイレンス」の演出で終幕すれば、傑作になったのにと思った。
重くて長い純文の結晶
人は弱そうで強い。人は強そうで弱い。
宗教とは何か。信じるとはどういうことか。
正義は1つではない。艱難辛苦を受ける者にも、与える者にも、それぞれに正義はある。
そして、生きるとはどういうことなのか。何を求めて生きるのか。生きることと死ぬことはどう違うのか。同じじゃないのか。この世に生まれる意味は何なのか。神はいるのか。
それらを詰め込んだ映画でした。テーマが重厚で映像に魅入る暇なんかなかった。終わり方も重い。心にドシーンときて沈殿してる。
ニーチェのツァラトゥストラはかく語りき支持者からすれば答えはこの映画とは異なる。目指すべきは超人なのだから。
転びバテレンにも聞こえたかもしれない沈黙の声
塚本監督の約作りが物凄いモキチの殉教シーンは必見です(インパクトは加瀬亮に軍配w)情熱的な宗教家にとって【殉教】というのはある種の救いであり憧れでもあり(死ねばぱらいそに行ける理論)現代でも自爆テロが教義と合致してしまう恐ろしさがあります。島原の乱後の日本においてもその恐怖が身に染みているのか、為政者が宗教的指導者を殺さずに【棄教=転ばせる】選択をしたという設定は凄い説得力があり、作中でリーアム・ニーソンが再登場したときの絶望感はハンパないです。しかしいわゆる【転びバテレン】にも彼らなりに辿り着けた境地があるかもしれないという遠藤周作がいうところの弱者の声を見事に拾い上げたスコセッシ監督に拍手です。しかし窪塚洋介が何度も踏み絵をして褌一枚で走り去る姿は何かだんだんほっこりしてきて良いですねw
沈黙・・・
原作は読んでいないが、とても気になり鑑賞。
ところが・・・
キリスト教弾圧の酷(むご)さが描かれる。
冒頭から、雲仙にて張り付けられたキリシタンに、源泉の熱湯を浴びせるシーン。
柄杓に穴をあけ、熱湯を少しずつ。。。
じわじわと痛みつける。
他にもモキチの殉教のシーン、首を刎ねられるシーン、
さらには宙ずりになったり、ととにかく酷い。
ただ、この映画からはいろいろなものを考えさせられる
神の声とは・・・
信仰とは・・・
そして、人の心の強さ、弱さは・・・
様々な試練に対し、そして神の「沈黙」に対し、ロドリゴはどう思ったか。
そして棄教、転ぶことを選択したが、その後の彼の思いは・・・。
とにかく奥深い映画であった。
それに日本人俳優の熱演、キチジローもよかったが、井上様を演じたイッセー尾形が素晴らしい。
当時の人はあんなに英語を話せたんだな(笑)
なぜ桎梏を回収するのか
最後の30分は無駄。
せっかくの作品を台無しにしている。
自らの栄誉と名誉のため、信仰のために人を犠牲にできるのか、
それを神は黙するのか。信仰は、誰のためにあるのか。
遠藤周作は、この問いを未回収のまま我々に投げかけた。
なのに、これをこの映画は無残にも、整理し回収してしまった。
最後の30分は、回収されてしまった「言葉」の物語であって、この小説からは大きく外れてしまっている。
#だから、全てを「英語」で回収しようとする、最もしてはならない愚をこの作品は犯している。残念ながら、この作り手は遠藤のこの作品を自分の
「マスターベーション」にしている。わかったつもりになっているだけだ。まさに、全てを回収しようとするこの作品は、「イノウエさま」そのものなのだ。
沈黙は神もまた苦しんでいたからか
日本におけるキリスト教信者への迫害は、1587年豊臣秀吉による、伴天連遂放令に始まる。秀吉は、唯一の絶対君主となるために一斉に刀狩りを行い、20万人の兵を率いて九州に侵攻、島津藩を降伏させて,天下統一を図った。1592年には,16万人の兵を朝鮮に出兵させ、明との友好的国交を絶ち、植民地化への道を探った。彼は早くから、スペインと、ポルトガルが日本を征服しようとしている意図を察知していた。それに対抗するために、彼は琉球王国、朝鮮、明の国を植民地化し、さらにポルトガル領インド、スペイン領フィリピンを征服する予定で居た。
そもそも秀吉を怒らせたのは、バテレン宣教師たちが、当時の習慣になかった牛馬肉を食べ、キリスト教を唯一の教えとして他の教義を否定し、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買し、巨利を得ていることが発覚したからだった。秀吉の命令を受けて、1597年2月 長崎西坂でスペイン、ポルトガル、メキシコの司祭と20人の日本人信者、合計26人が焚刑に処されたことは、クリスチャンでなくとも人々を恐怖に陥れた。
秀吉の死後、徳川幕府は、さらにキリスト教信者への弾圧を強め、1614年1月にはキリスト教禁止令を発した。このときから実に1873年明治政府がキリシタン禁止令を撤廃するまでの長い間、政府はキリスト教を禁じたのだった。
1610年にポルトガル人、クルストファ フェレラ司祭は他の司祭たちと共に、マカオから日本に入国し、20年余りの間イエズス会地区長という最高の重職について、布教を続け。他の隠れ残っていた37人の司祭たちや信徒を統率していた。迫害が始まる前の日本には、九州から仙台まで、たくさんの教会が建ち、いくつもの神学校が作られ、40万人もの信者が居た。しかしその後、弾圧と迫害の嵐が吹き荒れ、1637年には島原の乱が起こり、3万7千人の一揆に参加した信者たちが惨殺された。
クリストファ フェレラ教父が20年余りの困難な布教ののち、幕府に拘束され、拷問を受けた結果、棄教したという信じがたいニュースがローマ教会に伝えられた。
と、いうところから、遠藤周作の1966年に発表された小説 「沈黙」が始まる。
映画はこの原作を忠実に制作されている。
ストーリーは
フェレラ教父を心から尊敬し慕っていた弟子のセバスチャン ロドリゴ司祭は、彼が棄教したというニュースが信じられず、事実を確かめようと、フランシス ガルべ司祭とともに、日本に密航する許可を教会から得る。彼らは舟で1638年、ポルトガル リスボンからポルトガル領インドのゴアを経て、マカオに着く。そこで二人の司祭は、出会った日本人キチジローを案内人として、九州五島半島のモトギ村に潜入する。彼らは隠れ信者たちのために洗礼、布教をするが、弾圧は激しく困難を極める。村では司祭や信者を見つけて、役人に密告すると、莫大な謝礼金が出るといった密告社会が出来上がっていて、告発された信者たちには、踏み絵をはじめとして見せしめのための、激しい拷問が待ち構えていた。
ロドリゴ司祭は、キチジローの密告により逮捕され、長崎奉行;井上越後守から尋問を受ける。この男はロドリゴ教父を改心させた男で、それまでの宣教師や信者たちへの迫害はかえって信者の信心を強化する役割しか果たしていないことを知っていた。そして、より効果的に司祭を改心させる手立てを考えていた。
拘束されたロドリゴ司祭は、自分が拷問されるのではなく、自分をかくまって、食べ物を差し出し世話をしてくれて信者たちが自分の代わりに、目の前で拷問を受けることに苦しみ抜く。問答無用に踏み絵を踏んだ信者たちが、許されることなく首をはねられ、海に突き落とされて死んでいく。唯一の仲間だったガルべ司祭も、信者を追って水死した。激しい拷問にあとで殉教していく信者のための彼の祈りは、神に聞き届けられない。
ロドリゴは井上越後守の計らいで、日本に渡航する目的だったフェレラ教父に会う。かつての師に棄教するように勧められるが、しかしロドリゴは、フェレラに軽蔑と、憐憫の情しか持ち得なかった。まして、自分を裏切ったキチジローというユダを赦すことができない。神は何故祈りを聞き入れてくれないのか。神は沈黙を守り、信者の祈りに応えてようとしない。
ロドリゴ司祭は長崎中を裸馬に乗せられ引き回しの刑をうけたあと、暗闇の牢のなかで人々のうめき声を聞く。3人の信者がロドリゴ司祭が棄教しないために穴吊りの刑で死につつある。自分が棄教しさえすれば信者たちの命は助かる。ついに、ロドリゴはフェレラに押されて、踏み絵を踏む。
その後、ロドリゴは岡田三右エ門という日本名とともに、幕府から住居と給与を与えられ妻帯する。先に沢野忠案庵という名を与えられていたフェレラとともに、幕府に請われるまま、翻訳やキリスト教関係の執筆などをした。ロドリゴは30年余り生き、江戸で病死する。死ぬときに彼は殉教した信者からもらった十字架を持っていて、棄教したのは偽りで、偽装転向していただけだったことがわかる。
というストーリー。
フェレラとロドリゴの棄教とは、異なる。フェレラは絶望から棄教した。3日間汚物をつめた穴の中で逆さに吊るされ、耳に開けられた小さな穴から少しずつ血を流し続け、自分と同じように5人の信者が吊るされているうめき声を聞きながら、彼は神に絶望する。「神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必死で祈ったが神は何もしなかったからだ。」「司祭はキリストにならって生きよと言う。もしキリストがここに居られたらたしかに、キリストは彼らのために転んだだろう、」とフェレラは言う。
ロドリゴが踏み絵に足を乗せたのは、「銅板のあの人は言った。踏むがいい。お前の足の痛さはこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負たのだ。」という声を聞いたからだ。そして彼は、悟る。「神は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。神は弱い者のためにあるのだから。」 ロドリゴは決して絶望していない。神は弱い者のために一緒に苦しんで、沈黙していたとわかったからだ。
自分の信心と志を曲げずに殉教していった信者たちよりも、痛みや恐怖から自分の信念を捨てた弱い者のために神は居る。という思想は作者、遠藤周作の一環したキリスト者としてのテーマだった。
当時、重税にあえぎ、貧困に苦しみ抜いていた人々にとって、生きていても良い事はない。死後に苦労が報われて、救われると信じたいという他力本願の思考は、限りなく仏教の親鸞の教えに近い。すなわち、「善人なおもて往生を遂げる。いわんや悪人をや。」という思想だ。
来世を信じて神に祝福されて死んでいきたいと願いながら殉教していく信者を前にして、「それは、神の教えとは違う」、と、ロドリゴは言うことができなかった。来世に行くために踏み絵を踏まずに拷問を受ける心の強い信者も、踏み絵を踏む弱い信者も、同時に神から赦されるべきだと、ロドリゴは考える。そして、ロドリゴは、自分を密告したキチジローのために、懺悔を聞き、赦しを与えた。
わたしはクリスチャンでも、親鸞の浄土真宗信者でもない。聖書は13歳のときに一度読んだきりだ。
人は宗教を持とうが持つまいが、人として、「良き人でありたい」と願いながら生きるものだ。「人は他人のために生きて初めて生きたことになる。」 というトルストイの言葉が好きだ。良き人になろうと努力をして、良き人として生き、良き人として死んでいきたい。踏み絵を踏むか、踏まないかは個人の問題だ。弱い人、強い人というものがあるわけではなく、人には誰でも弱い時も強い時もある。だから、遠藤周作が、この作品を発表したとき、カトリック団体から厳しい批判が出て来たことが不思議でならなかった。
人々がみな鉄の意志を持ち、正義と、神への愛のために生きることができるのであれば、文学や詩などありえない。芸術など成立しないではないか。
井上筑後守を演じたイッセー尾形の演技が冴えている。残酷な指導者ほど物腰が柔らかく、ねこなで声で優しい。そんなコントラストのある役を、ひょうひょうと演じていた。キチジローの窪塚洋介は、とても良い役者だ。
でも日本人役者の中で一番良かったのは、通辞役の浅野忠信。彼の日本人なまりのない英語が耳に快い。すばらしい。通辞役は、はじめ渡辺謙がやるはずだったそうだが、撮影スケジュールの関係で浅野忠信になったそうだが、これが正解。
この通辞は、自分もはじめは神学校で洗礼を受けたクリスチャンだったが、宣教師たちの白人至上主義の差別的態度や傲慢さに嫌気がさし、棄教した人物。貧乏侍の子供が食べていくのに有利なように、ポルトガル語を習熟したという秀才で屈折した男、という難しい役を浅野は淡々と演じていて、とても魅力的だ。
監督はフェレラ役を、はじめはダニエルデイ ルイスと考えていたという。本当に彼がやっていたら、もっとフェレイラの裏切る姿に複雑な陰影が現れていて良かっただろう。彼の心の葛藤なども、うまく表現されていたに違いない。
主役のロドリゴ役の アンドリュー ガーフィールドは今や一番輝いている若手の役者だろう。ことさらカメラが、彼の顔のアップを捕えているシーンが多かったが、さすが舞台俳優、、、苦悩する人の表情、心を痛めている表情が存分に表現されていて共感を呼ぶ。
この監督は、作品を、実に巧みな映像の力で、効果的に人に訴えることを得意とする監督だ。最高のテクニシャン。天才的なストーリーテラーだ。彼の手にかかれば、どんなつまらないお話も、わくわくどきどき連続、時には恐怖のどん底に突き落とし、時には最高の幸せ感で一杯にしてくれる。フイルム「シャッターアイランド」では、出だしから不安感をあおり、究極の恐怖感まで上り詰めさせてくれた。「ウルフ オブ ウオールストリート」では、裸の女の肛門に置いたコカインをレオナルド デカプリオが吸い込むシーンで始まり、終わりまでアメリカ的なアメリカのためのアメリカンテイストのシーン満載で、ゲップを連発させてくれた。
「ヒューゴの不思議な発明」では、映画というものの素晴らしさを、バケツ一杯の涙が出るほど巧に見せてくれた。彼は映像の魔術師。本物の映画屋だ。
その彼が1991年から「沈黙」の構想を持っていて、映画化することが念願だったという。日本の17世紀初頭を映像化するのに資金がかかりすぎるため、すべて撮影を台湾で行なった。それが、とてもとても残念。海と山の場面は良い。しかし、フェレイラが住居としていた西勝寺や、長崎奉行、井上筑後守の屋敷などが、安造りでがっかりした。
日本の四季の移り変わり、木漏れ日、真白の障子、欄間を通して光る陽、襖に描かれた山水画、生け花の楚々とした美しさ、淡い空気の変化、真新しい畳の香り、畳の縁飾り、磨き抜かれた廊下の輝き、瓦屋根に沁みる雨、緑の鮮やかさ、淡い色の花々、行灯の淡い影、朝夕の寺の鐘、本堂に至る石段、苔に覆われた庭、、、日本の屋敷、日本の生活様式の美しさ、、、、、。映画を作る前に、2日でも3日でもマーチン スコセッシ監督に、日本家屋での生活を体験してから撮影に取り掛かって欲しかった。そうすれば撮影を予算節約のために台湾のセットで行うなんてことはなかっただろう。残念だ。
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