劇場公開日 2017年1月21日

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「万人向けではないが,秀作」沈黙 サイレンス アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5万人向けではないが,秀作

2017年1月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

怖い

知的

当初、鑑賞するつもりはなかったのだが、「タクシー・ドライバー」の監督が、スパイダーマンやカイロ・レンやシンドラーなどの有名俳優を使って撮影したというので見てみたくなった。

遠藤周作がこの小説を書いたのは今から 50 年も前の話で、これまで一度映画化されている。信長が比較的寛大に接したキリスト教に対して、秀吉と家康は禁教にして非常に苛烈な処罰を行なったわけだが、これは、キリスト教の宣教師たちが日本人信者を奴隷として東南アジア方面に売り渡していたことが露見したことによるものである。だが、学校教育においては、長年に亘り、キリスト教の平等思想が徳川幕府の身分制度に反するためであると教えられてきた。 そもそも徳川幕府の身分制度と言うが、士農工商などという制度は江戸時代には実在せず、戦後日教組がでっち上げたものであることが明らかにされてしまっているのであるから、それに反する平等思想などという理由もまたでっち上げなのである。

禁教後のキリスト教徒に対する処罰が苛烈を極め、極めて残虐な方法で信者を殺戮したという事実は認めざるを得ないようだが、それは世界各地でキリスト教を弾圧した歴史においてほぼ同様であって、日本の場合が飛び抜けて残虐であったわけではない。キリスト教の教義においては、イスラム教のように弾圧して来る相手に対して聖戦を仕掛けろなどということはなく、試練だと思って非暴力で耐えろと教えられるが、それは教祖のイエスの最期そのものから来る教えであり、殉教者は聖人として崇拝される。宗教家にとっては魂の救済こそが最重要なのであって,魂か肉体のいずれかを選ばなければならなくなった場合は,魂を選ぶものなのである。

中世の宗教改革において、それまでの腐敗を糾弾されて行き場を失ったカトリック派は、イエズス会を立ち上げ、ヨーロッパを離れて新天地に布教すべく、アフリカや南米をはじめとして、遠くアジアの極東に位置する日本にまで宣教師を送って来た。イエズス会による布教活動においては,多くの場合、現地人から迫害を受けたり、無理解に晒されて多くの宣教師が悲劇的な目に遭っており、その南米を舞台にした映画に、1986 年に作られた名画「ミッション」があった。

どれほど宣教師や信者が酸鼻を極める迫害を受けようと、神は沈黙を守り続け、自ら信者たちを救ったなどという話は一度もなかった。実はこれこそが、近代科学を発展させるきっかけになったのである。ニュートンもケプラーも熱心なキリスト教徒であり、神が直接語りかけてくれないので、神が自ら作られたと聖書に書かれているこの世界を調べれば、神の意志が分かるのではないか、という推論に基づいて、理詰めで世界の成り立ちを調べて行ったら、皮肉なことに、聖書の記述と違う結論が多発してしまったということなのであるが、話がそれるので続きは別の機会にしたい。

遠藤周作は、母親によって子供の頃に洗礼を受けさせられたようだが、教義について熱心な信者とは言い難く、魂よりも肉体の救済を選択するというこの小説も、カトリックの名高い高僧からは異端的な考えとして批判されている。恐らく、この作品に出て来るキチジローは、遠藤周作の分身なのだろうと思われるが、踏み絵を踏んでは宣教師に懺悔するという行動を繰り返すこの男は、イエスを金で売ったユダのようにも思えるし、熱心な信者になれない自分を自虐的に描いたのではないかという気がする。

踏み絵を踏めないというのは、偶像崇拝を禁じられているキリスト教徒としては非常に奇異に感じられるのだが、この当時日本に伝来したキリスト教は、布教のために教義の一部をローカライズすることがあったようで、例えばキリストは太陽神であるといった教えもあったようだ。これではまるで大日如来を本尊とする真言宗のようになってしまうが、そうした先行宗教になぞらえて教えるというのは、布教上のテクニックとして妥協の産物だったのだろう。そのため、仏像を熱心に拝んで来た日本人には、踏み絵を踏めない者が多発したのかも知れない。ただ、宣教師の方も「踏むな」と教えていたのは解せなかった。

理想に燃える若い宣教師が、世界の果てに渡って布教するというのは、いかにも頭でっかちな考え方だと思わざるを得ない。まず、言葉が通じないのをどうするつもりだったのだろうか?この作品では英語に置き換えられているが、登場人物の多くが英語を話していたことには目が点になった。ご都合主義の最たるものである。問題はそこではないという趣旨なのかも知れないが、言葉も通じない世界に渡って来た宣教師たちは、猿の惑星にでも来てしまったと思ったに違いない。なので、猿が迫害された時と、仲間の宣教師が迫害された時とで、あれほど態度が違うのだろうと思わざるを得なかった。

迫害する日本の役人は、鬼のような悪役として描かれるのかと思ったら、物腰が柔らかく、どちらかというとにこやかな表情を見せていることの方が多かったのには驚かされた。必ずしもキリスト教徒に悪意を持っている訳ではなく、役目上止むを得ず取り調べを行なっている立場なのだということなのだろうが、だからと言って信者に同情して見逃したりすると、自分が責めを負わされるのである。イッセー尾形が演じた井上筑後守は、にこにこしながらユダヤ人を大量に殺戮したアウシュヴィッツ強制収容所のヘス所長を彷彿とさせるような恐ろしさがあった。

英語の発音は、浅野忠信が一番上手く、流石に通詞役に相応しいと思った。イッセー尾形の発音も、アメリカ暮らしの長い人にもああいう話し方をする人はいるので、非常に自然に聞こえた。一方、キチジロー役の窪塚洋介の発音はかなり問題があると思った。音楽は聞いたことのない名前の人だったが、ハンス・ジマーを彷彿とさせるような見事な音楽を書いていた。ただ、音楽の出番があまりなかったのが、ちょっと気の毒だった。エンドタイトルに音楽が流れない映画というのはあまり記憶にない。

演出は、スコセッシらしく、暴力表現には容赦がなかった。拷問シーンの割合も高く、重い映画であった。日本人の描写は、侍は清潔ななりで描かれていた一方で、百姓の姿を汚く描き過ぎではないかと思った。いくら土にまみれた百姓でも、お祈りをするときや十字架を手に取る時まで手を汚いままになどしていたはずがないだろうと思った。原作にはなかったのに、最後に追加してあったシーンによって、主人公の後半生が偲ばれたのは、恐らく監督のアイデアなのだろうと思うが、慈悲のようなものが感じられる良いシーンであったと思った。
(映像5+脚本4+役者5+音楽4+演出5)×4= 92 点

アラカン
アラカンさんのコメント
2017年2月1日

汚れているようにしか見えませんでしたが。:-D

アラカン
tasukuさんのコメント
2017年2月1日

長い間農作業していると手は土色に染まります。まるで染料のように。しわの溝や爪の間に。汚れているわけではありません。

tasuku
アラカンさんのコメント
2017年1月31日

身に余るお言葉、大変恐縮です。

アラカン
takidegesoさんのコメント
2017年1月31日

>イッセー尾形が演じた井上筑後守は、にこにこしながらユダヤ人を大量に殺戮したアウシュヴィッツ強制収容所のヘス所長を彷彿とさせるような恐ろしさがあった。

同じ感想を持った方がいたとは、驚きです。全く同感です。アウシュビッツもこのように事務的であったらしいです。官僚機構の典型的な弊害ですね。

ざっと皆さんの感想を読んだ中では、最も秀逸な評論でした。

takidegeso