「映画『沈黙 サイレンス』評」沈黙 サイレンス シネフィル淀川さんの映画レビュー(感想・評価)
映画『沈黙 サイレンス』評
映画『沈黙-サイレンス-』(米2016/マーティン・スコセッシ監督作品)評
-音が探求する真実を映像に求める時観る者は捜索者として君臨する自己証明の有りかを液体の変容過程の中に見出だすのである。その時人は映画が炎という記号が醸す光の存在である宿命を認識するであろう。それがリュミエール兄弟への潔い諦念である事を再認識させるに足るこれは映画の原点を光と影に求めるまさしく探求者の映画である-
深い霧が立ち込める地獄温泉での宣教師の棄教の為の熱湯による苛酷までの拷問作業に従事する幕府方の周囲には霧深さを浸透する湯気の荒々しさまでもが加担する蒸気と大気のあくなき交錯が醸されそれは映画に独特のダイナミズムの発生装置を担わせる。
マーティン・スコセッシ監督はこの膨大に廻したであろうフィルムから元編集マンの実績からも無駄を省いた自己の映画論を宣うべくキリスト教がヤソ教と蔑まれ禁令さえ発する日本の江戸時代との確執の中でまずポルトガル宣教師の強靭なる意志力によって耐え抜く為の力学を五島列島のかくれキリシタンに伝授してゆく。筑紫守の強硬な踏み絵作業に加担しない人間への痛烈なシウチには宗教戦争の過酷さを知る事だろう。
さわさわと騒ぐ虫の音がピークを迎えた途端なりやむ時映画はタイトル『サイレンス』だけが黒画面に描かれる。この時この映画が例えモノクロであっても何等不自由しないとも謂えるほど血の赤さが鮮明さを誇示するのも幾度も踏み絵の対象となるイエスの肉体そのものの静止がまさに沈黙という二字に纏わる事でこの映画が沈黙と深く渡り合う時こそが映画の説話的磁場である筑後守の制度との沈黙の闘争劇として成功している。これはそんな音の探求が映画という視力を得たものの特権を担う観衆自らがこの宣教師に擬え音から派生する映像に於いて真実への捜索者を施行するノエマによる自己証明へのあくなき探求を量る事となる。
それは主題とも関わる記号体系としての液体による変容が映画の進行により様々な形態を示唆するプロセスを歩む時のキリスト教に於けるナチュラリズムの根源を伺わせる。島雨特有の冷徹さに満ちた水の表情はやがて神の沈黙に於ける宗教が切り捨ての被写体と成るときこそかくれキリシタン達の責め苦の材料として十字架に張り付けられ冬の高波に浴びせられ死んでゆく凶器とも謂えるだろう。または宣教師の喉の乾きを癒す為の雨水からそれが人間誰もが流す体内の血肉が拷問の一環として役人がかくれキリシタンの若人の首を撥ね囚人達の罵声と泣き声のカオスからその身体を引きずる時の血の轍が死生観を喪失させる唯物的描写はいかにもユマニストに
徹するスコセッシらしい呆気ないそぶりが潜んでいる。
そして行方不明のフェレイラ神父の回想場面での拷問として逆さ吊した時に耳に開ける傷から自然に漏れる血の色にはキリストのたっ形を倒錯させた拷問形態としてその苛酷さが窺えるのだがこれこそは彼の踏み絵と棄教の原因ともなるまさに人間回帰の原点的な血でありこのキリシタン狩りによる自己犠牲の儀式の終焉としての収束した血でもある。
然しそれは決して最期ではなくスマキにされた女達を舟からふるい落とし海水による溺死へと導く時の凶器の海水そのものが晴天下に行使される時映画はマリア不在の悲劇的クライマックスを向かえる。
スコセッシはこの液体の変容過程からも自らを宗教映画監督とは決して見做さず虚構的空間に於ける唯物史観に則ったイタリアン・ネオ・レアリズモの申し子或は末裔として任ずるこの水にキリストの顔を浮かばせるほど些かシニカルな視点を有しており決して審美観でフィルムを廻してはいない。そこが似た題材を映画に持ち込んだタルコフスキーへのシニカルな一瞥でもあろう。
マーティン・スコセッシ監督はこの雄大な土地を背景とした映画の中で自然が創造したキリスト教の当時の位置をその自然界を司る天・地・水・風そして映画誕生の兄弟リュミエールへ敬意を払うべくラストの宣教師の収まった棺を炎で焼く場面にカメラまでもをその中まで侵入させる時晩年は棄教し検閲等で余生を暮らしていた死んだ彼のその手の中に光る木彫りの十字架のイエスに接近する時この映画の主題体系が実はフランス語リュミエールの意味に自然と繋がるのだ。もうお分かりだろう。それは常に女性名詞(マリアに代表される)である所の「光」の存在であるからに他ならない。
(了)