「クリスチャンとして。。」沈黙 サイレンス しゅんいちさんの映画レビュー(感想・評価)
クリスチャンとして。。
皆さんおっしゃる通り「重い作品」です。
そして、私は心に刺さりました。
今、通ってる教会が九州の教会で韓国から宣教に来られて、教会も出来たばかりで信者さんも少ないとこに通ってます。
日本のクリスチャン人口は全体の2%と言われてます。
韓国やアメリカは恐らく50%以上はクリスチャンではないでしょうか
アメリカの教会も今、いろいろと揺れ動いてまして、事件も絶えません、韓国での教会も信仰なのかショービズなのかわからない状況にも来ております。
エルサレムを聖地とするキリスト教ですが、エルサレム自体もとても不安定な現状です。
クリスチャンだからこそ、そういった背景を感じ取れるので、同じクリスチャンであるスコセッシ監督なら熱望された映画化だと思います。
なぜ、今「沈黙」なのかではなく・・逆にやっと・・満を持して映画化されたんです。
僕自身も教会に通いながら牧師先生(プロテスタントですので神父さんではないです)の話に宗教的疑問を感じることも多々ありますが。。私は福音派(聖書に書いてる事を絶対的に信じる宗派)なのでイエス様の教えや、主の導きに関しては凄く生活に密着してます。 死んだら天国にいけるといった話が沢山出てきますが。。
平和な世の中で生活してるので、やはり「死んだら天国」という思想に関してはいまいち、執着しておらず。
イエス様の導きの元、苦難も恵みも全てを主が与えてくださってるという考えなので・・「私の人生は主のもの」「全てを捧げます」といった信仰生活を送ってます。
もっと、宗教感のお話は深いのですけど。。
そういった背景の元・・鑑賞したので
「踏み絵」のシーンは酷く心が痛かったです。
主が沈黙してるという部分に関しては、私たちクリスチャンにとってよく語られる名作の中にメルギブソン監督の「パッション」というイエスキリストの処刑までのお話を映画化した作品がありますが
そこでも、似たような描写がされます。
クリスチャン的教えとして、「主の大事な独り子」として遣わされたイエス様が処刑されてる間、主はイエス様の処刑を「沈黙」して耐えておられたという解釈があります。
そのため、主はいつも我らと一緒におられます。
そこで・・後半のロドリゴが踏み絵を実行するときに
「神様の声:福音」がします。
主は常に我らと共おられるからこそ、我らの苦しみも主は感じておられる、その苦しみは十分にわかっておられるからこそ、
「私を信じなさい、そして踏みなさい」とおっしゃっておられたのだと思います。
主イエスキリストとの関係性を維持したという描写が・・
皆さんが・・最後の描写はいらなかったんじゃない?だらだらと・・と思ってる部分ですが。。
クリスチャンとしてはとても、あのシーンは重みがあるのです。
私たちは、今でも小さな迫害はあります。
いじめられることは無いですが・・さすがに、受け入れてはもらえません。
同じキリスト教でも沢山の宗派があり、社会問題にもなってしまった残念な宗派もございます。
そのため・・よく勘違いもされますし、「アーメン、ソーメン」などともじられたりもします。
弾圧まではいきませんが、やはり日本にはまだまだそういったキリスト教への反発は根強いです。
そんな中で生活をしてると・・例えば食事の前のお祈り、寝る前のお祈り。。やはり色眼鏡で見られます。
だからこその、最後にロドリゴ牧師が十字架を持って埋葬されたシーンについては・・何度も踏み絵をさせられて、何度もくじかれそうになり・・仏教の思想を押し付けられた人生の中で。。
恐らくロドリゴ牧師は・・棄教したときは30代ぐらいだったのではないでしょうか?
バチカンに帰ることも許されず、宣教師としての目的も果たせずに、ひたすら最後まで生きるだけのための人生を主に捧げたのです。
その長い年月を思うと・・涙なく見れません。。
だからこその、最後のエンドクレジットで立つことも出来ずに
その場で僕は黙想(祈り)をしました。
場内が明るくなるまで・・黙想しました。
そのため、最後に「日本に来られてる宣教師・牧師に捧げる」とメッセージが添えられてました。
ここまでは・・クリスチャンとしての立場で観た感想です。
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ここからは。。
映画ファンとしての意見です。
マーティン・スコセッシ監督作品は、一通り見てきました。
そのうえで申し上げますと
個人的には「グッドフェローズ」が一番好きな映画なんですけど
「ウルフオブウォールストリート」がその次に好きな作品。
そして・・そういった部分も見事に塗り替えて
「スコセッシ最高傑作!!」と思いました。
サントラも、あるにはあるのですけど。。
今作、極力・・背景に音楽を置いてないです。
タイトルの「沈黙」をしっかりと根底に置いて・・
音のデザインが秀逸です。
自然の音の使い方がもう・・絶妙で。。
感嘆いたします。
あと・・日本人役者のポテンシャルを余すことなくどころか引き出し方が上手いというか・・こんなに凄いんだ!!日本人!!ってくらいに・・登場人物の演技がどの方も素晴らしすぎます!
まさに、奇跡の映画です。
カメラワークですが。。
1人称視点のカメラワーク恐ろしくリアルで、ロドリゴの視点そのもので「追体験」をさせられましたが・・「見てるしか出来ないジレンマ」がじわじわと・・心に負担をかけていきます。
登場人物のアップも、必要不可欠な感情表現のアップや
光と影を絶妙に取り入れての撮影など。。あらゆるところに芸術性の高さも見て取れました。
時代背景としては1640年なので、前の年にポルトガルからの船を禁止して鎖国が完了した年の翌年にあたり。
3年前には天草四郎が率いての農民一揆が起きてるので。。
江戸幕府としても、もっともキリシタン弾圧が激しい時期だったんだと思いますが。。
その江戸時代の長崎周辺の再現度が半端ないです。。
もう、これを見せられたら・・日本映画の時代劇がなんて酷い作りなんだと思わざるおえない。。
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観る人によって感じ方が分かれるのは当然なのですけど。。
どちらかの視点によらないと、痛烈に刺さる作品の成立は難しいとは思うのですが・・どちらの言い分も丁寧に描いてる作品だなとは思いました。
ポップコーン片手にビールでも飲みながら観れる映画ではないですね。
厳粛に真面目に、向き合う覚悟で、そこからすべてを拾う覚悟で挑まないと・・何も伝わりませんし。。
斜に構えてみてしまうと・・うっかり拾い損ねる部分が大いにあります。
また、宗教映画なので・・信仰がなくても観れるのですけど
信仰がないと深いところまでは理解出来ないので意味不明な部分が何か所も出てくるかもしれません。
哲学的な部分も含まれてるので、一言一句に自分なりの解釈や思考を織り交ぜながら鑑賞しないと、下手すると寝るかもしれません。
全体的に、脚本も原作も素晴らしいので、真剣に見ればしっかりと最後まで観れる作品なので。。
万民向けではないかもしれません。
それでも、「人生に残る映画」のひとつになりうる衝撃は与えられる作品としてのパワーは計り知れないですね。
私もこの映画には大変感動させられました。カメラワークへの言及など、この映画のどこがどう優れているかのしゅんいちさんの言及は、本当に的確で、素晴らしい!有難うございます。素晴らしいレビューに、乾杯です。映画の理解がさらに一層膨らみました。
rindoさんへ
素晴らしい解説とコメントをありがとうございます。
まさしくおっしゃる通りです
「踏み絵」は「偶像」だと思いますよ。
「踏み絵」を踏むことが「棄教」ではないという「本質」の部分がわかってたとしても。。
クリスチャンの歩みとしては、究極のところは「イエス・キリスト」と同じ道を歩む道が究極のクリスチャンの道だったりします。そこにいたるまでは、「求道者」「信徒」という位置づけになります。
私はクリスチャンです。という発言が意味するところというのは、「イエス様の導かれるすべての道を信じて同じ道を歩みます」と宣言するような部分があります。
そのため、イエス様を信じて、イエス様のあとをついて・・最後は殉教するというのがクリスチャンの生き方だと、僕は教えられました。
そういった背景のもと、「踏み絵」というのはとても、ずるい方法なんですよ。
「踏む」事は・・もちろん!!棄教ではないと思いますが。。
それを・・他の信者が観てる前で「踏ませようとする」事で心理状態ががらっと変わってきます。
「自分は信仰に熱いクリスチャンだ!」と言ってた人が・・命惜しさにイエス様を踏んだ!と思われるのが嫌なんです。
ならば・・潔く殉教の道を選ぶという・・
「人の目」という恐ろしい効果があるんですよ。
割と・・私たちは実生活でも、そういった「プライド」がにょきにょきと顔を出す瞬間ってあるんですよ
この映画の時代が「天草四郎」が農民を率いて、長崎で一揆を起こして、沢山のキリシタンが処刑された3年後の長崎ですしね。
そういった心境や。。
「主こそ、われらが王」といった讃美歌も毎週歌ってます。
そうやって刷り込まれていくのも・・信仰です。
信仰の道を歩きだしたら「自分の中に神がいる」なんてすごくおこがましい言い方は決してできないです。
むしろ・・自分を捨てて「神様に明け渡す」という考え方がクリスチャン的なので。
だからこそ・・「踏み絵」はある意味「自己否定」でもあるから
実際にその場で、僕も踏めるかどうか? となると難しいですね
それでも、キチジローの気持ちも痛いほどわかるのです。
それだけ・・議論したくなるような凄い映画に出会えたことに感謝です。
詳しい感想がよかったです。
この「沈黙」という映画のキリスト教の真理にかかわる深さ、そして重厚さ、さらにその映像や音の用い方等々の卓越性に深く感じました。これは、徹底して当時のキリシタンの迫害を受けての苦悩、それにもかかわらず命をかけて信仰を守ろうとする燃えるようなその信仰―しかも最後に背教したとされる宣教師の火葬される手の中に 光る十字架があった―それは、いかなる迫害や時代の状況にも関わらず、十字架で象徴されるキリスト教の真理は破壊されることなく続いていく―ということを表していると感じます。
キリスト教の二千年の歴史はそのことを実証してきたのでした。
そうした映画の内容とはべつに、踏み絵について考えていたことを書きます。
踏み絵を踏む―それ自体は、神をけがすことではないはずです。神は霊であり、本来目に見えるものではないから、踏み絵に描かれたキリストやマリヤ像などは単に人間が作った一種の偶像的なものです。聖書では繰り返し言われているように、神の存在はいかなる人間的な権力、暴力によっても微動だにしないが、偶像は、簡単に打ち壊される。
また、キリストは、目に見えるもの、口から入るものによってはけがされることなく、心からでる悪しき思いによってけがされる―と言われました。
パウロも、偶像に捧げた物を食べると汚される―と考えた当時のキリスト者たちに対して、そもそも偶像の神などはない、天地創造をされ、真実と愛の神以外には神はないから、偶像に捧げたものといっても何ら人をけがす力をもっているものではない―と書いています。
こうしたことからわかるように、踏み絵を踏んだら、背信行為といしことではあり得ないことです。真の背信行為―神をけがすとは、ユダのように意図的に計画的にキリストを金で売り渡すような行為だといえます。キリストが 聖霊をけがす罪は赦されないと言われたことも思います。どのような罪が聖霊をけがすことになるのか、それはただ神が御存じで、外面的行為だけを見て他者を裁くことはできないことで、私たちは悪しき人たちのために その人がよき人に変えられるようにと祈ることだけがなすべきこととおもわれます。
この映画、そして信仰のゆえに踏み絵を命にかけても、耐えがたい拷問を受けてもなお守り抜こうとした当時のキリスト者たちは、崇高な証し人となって歴史に輝いていると感じます。