劇場公開日 2017年1月21日

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「クリスチャンとして。。」沈黙 サイレンス しゅんいちさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0クリスチャンとして。。

2017年1月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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しゅんいち
Kazu Annさんのコメント
2017年4月16日

私もこの映画には大変感動させられました。カメラワークへの言及など、この映画のどこがどう優れているかのしゅんいちさんの言及は、本当に的確で、素晴らしい!有難うございます。素晴らしいレビューに、乾杯です。映画の理解がさらに一層膨らみました。

Kazu Ann
しゅんいちさんのコメント
2017年1月26日

rindoさんへ
素晴らしい解説とコメントをありがとうございます。
まさしくおっしゃる通りです
「踏み絵」は「偶像」だと思いますよ。

「踏み絵」を踏むことが「棄教」ではないという「本質」の部分がわかってたとしても。。
クリスチャンの歩みとしては、究極のところは「イエス・キリスト」と同じ道を歩む道が究極のクリスチャンの道だったりします。そこにいたるまでは、「求道者」「信徒」という位置づけになります。

私はクリスチャンです。という発言が意味するところというのは、「イエス様の導かれるすべての道を信じて同じ道を歩みます」と宣言するような部分があります。

そのため、イエス様を信じて、イエス様のあとをついて・・最後は殉教するというのがクリスチャンの生き方だと、僕は教えられました。

そういった背景のもと、「踏み絵」というのはとても、ずるい方法なんですよ。
「踏む」事は・・もちろん!!棄教ではないと思いますが。。

それを・・他の信者が観てる前で「踏ませようとする」事で心理状態ががらっと変わってきます。

「自分は信仰に熱いクリスチャンだ!」と言ってた人が・・命惜しさにイエス様を踏んだ!と思われるのが嫌なんです。
ならば・・潔く殉教の道を選ぶという・・
「人の目」という恐ろしい効果があるんですよ。

割と・・私たちは実生活でも、そういった「プライド」がにょきにょきと顔を出す瞬間ってあるんですよ

この映画の時代が「天草四郎」が農民を率いて、長崎で一揆を起こして、沢山のキリシタンが処刑された3年後の長崎ですしね。

そういった心境や。。
「主こそ、われらが王」といった讃美歌も毎週歌ってます。
そうやって刷り込まれていくのも・・信仰です。

信仰の道を歩きだしたら「自分の中に神がいる」なんてすごくおこがましい言い方は決してできないです。
むしろ・・自分を捨てて「神様に明け渡す」という考え方がクリスチャン的なので。
だからこそ・・「踏み絵」はある意味「自己否定」でもあるから
実際にその場で、僕も踏めるかどうか? となると難しいですね

それでも、キチジローの気持ちも痛いほどわかるのです。

それだけ・・議論したくなるような凄い映画に出会えたことに感謝です。

しゅんいち
rindoさんのコメント
2017年1月24日

詳しい感想がよかったです。

この「沈黙」という映画のキリスト教の真理にかかわる深さ、そして重厚さ、さらにその映像や音の用い方等々の卓越性に深く感じました。これは、徹底して当時のキリシタンの迫害を受けての苦悩、それにもかかわらず命をかけて信仰を守ろうとする燃えるようなその信仰―しかも最後に背教したとされる宣教師の火葬される手の中に 光る十字架があった―それは、いかなる迫害や時代の状況にも関わらず、十字架で象徴されるキリスト教の真理は破壊されることなく続いていく―ということを表していると感じます。
キリスト教の二千年の歴史はそのことを実証してきたのでした。

そうした映画の内容とはべつに、踏み絵について考えていたことを書きます。
踏み絵を踏む―それ自体は、神をけがすことではないはずです。神は霊であり、本来目に見えるものではないから、踏み絵に描かれたキリストやマリヤ像などは単に人間が作った一種の偶像的なものです。聖書では繰り返し言われているように、神の存在はいかなる人間的な権力、暴力によっても微動だにしないが、偶像は、簡単に打ち壊される。
また、キリストは、目に見えるもの、口から入るものによってはけがされることなく、心からでる悪しき思いによってけがされる―と言われました。
パウロも、偶像に捧げた物を食べると汚される―と考えた当時のキリスト者たちに対して、そもそも偶像の神などはない、天地創造をされ、真実と愛の神以外には神はないから、偶像に捧げたものといっても何ら人をけがす力をもっているものではない―と書いています。
こうしたことからわかるように、踏み絵を踏んだら、背信行為といしことではあり得ないことです。真の背信行為―神をけがすとは、ユダのように意図的に計画的にキリストを金で売り渡すような行為だといえます。キリストが 聖霊をけがす罪は赦されないと言われたことも思います。どのような罪が聖霊をけがすことになるのか、それはただ神が御存じで、外面的行為だけを見て他者を裁くことはできないことで、私たちは悪しき人たちのために その人がよき人に変えられるようにと祈ることだけがなすべきこととおもわれます。
この映画、そして信仰のゆえに踏み絵を命にかけても、耐えがたい拷問を受けてもなお守り抜こうとした当時のキリスト者たちは、崇高な証し人となって歴史に輝いていると感じます。

rindo