沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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いつもと違う、スコセッシ監督の「法と信念」の描き方。
◯作品全体
個人的に考える、スコセッシ映画の特徴の一つとして「法と信念」の描き方がある。
『グッドフェローズ』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、『 キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。どれも主人公の信念と、それに対峙する法の存在があった。この三作はいずれも主人公がイリーガルな人間だ。しかしイリーガルでありながら自己実現への信念があり、法はそれを阻むものとして描かれる。法は主人公からすれば敵なのだが、法(それに従事する刑事や判事)は主人公に個人的な恨みをあまり見せず、粛々と法の力を行使しているのが共通点としてある。
そしてどの主人公も、現代の価値観からもイリーガルな信念であり、法によって裁かれるのが当然のように感じさせる。不思議な熱量と共に描かれる主人公の信念に贔屓したくなるが、そんな感情をも静かに沈めさせるような法の描き方もあって「当然の結末」のように法に屈するラストがある。
本作もスコセッシ監督の特徴である「法と信念」がある。
しかし上記3つの作品と大きく異なるのが、法の存在が現代の価値観とそぐわないところだ。信教の自由がなく、異教は悪という断罪を法は下していく。神父たちの信念と法の衝突、という部分だけで見れば同じ構図だが、正しさに曇りのない法の存在が時代を変えるとそれが曇り、強さだけが強調される。スコセッシ映画の「法と信念」という構図は同じなのに新鮮に感じられる作品となっていて、まずそこが衝撃だったし、とても面白かった。
自分や周りの幸福のために法と対峙していた上記3作に対して、誰も幸せになっていないのに法と対峙しなければならない、という構図も新鮮味があった。金があり、食べるものがあるという現実的な豊かさとは異なる、神の教えを受けることが幸せだとする神父たち。そこに直面する「現実的な幸せ」。家族を殺され、現実的な幸せの大切さを知るキチジロウの日和見的な行動や、棄教したフェレイラを通して「現実的な幸せ」に屈するという展開も見事だった。
物語中盤までは神父たちの行動こそが正しさだと感じるが、後半で「現実的な幸せ」を提示してくる法こそが正しいのではないか…作品を見ているこちらにも突き付けてくる、法による「当然の結末」。上記3作と異なるものは多けれど、結局はスコセッシ映画の持ち味にまんまと踊らされたような気がして、名監督の技を感じる作品だった。
中世日本を舞台にした宗教がテーマとなる本作。他のスコセッシ映画と並べてみると異質な存在だが、描くものにはしっかりとスコセッシ色がある。時代や構図を変えて描かれるスコセッシ監督の「法と信念」はどこまでも真新しく、どこまでも見事だった。
〇カメラワークとか
・スコセッシ監督ってトリッキーなカメラワークとか、これが特徴っていう演出はないんだけど、制作側の見せたいものと視聴者側の見たいものの映し方とか映す時間が絶妙だと思う。
五島へ向かう船上のシーンとか不穏に見せるカット割りだけど、映すものは霧がかかった周りの景色とか、無表情で船を漕ぐ人の顔とか、周りの違和感だけでそれを見せているのが凄い。短いカット割りとか、人の顔のアップショットとかで不安を煽りたくなるような場面だけど全然そういうことをしていない。音楽にも頼ってない。野暮ったさがないところがさすがだな、と感じる。
〇その他
・中世日本の描き方が邦画以上に説得力あった。多分必要以上に街や生活を見せていなかったからだと思う。人の所作や建物に「再現している」と思わせる要素が少ない。生活のための仕草があって、山があって海があって、寒村に点在する古い家がある。日本に限ったわけではない風景だけど、実際に生活しているという説得力という意味ではリアルに感じた。
・タイトルにも関連した「沈黙」というテーマ。スコセッシ監督に登場する人物は思い切ったアクションを起こすことで物語を動かしていくが、本作では「目の前で起こる惨事に沈黙し続ける神」によって神父たちの感情が揺らぎ、物語が動き始める…という構成にしていて面白かった。
映画の世界にずぶずぶと浸る、至福の2時間42分
出張帰りに、子どものお迎え時間を気にしながら鑑賞した。バタバタの生活の中の、2時間42分は大きい。ちょっと決意がいる。けれども、いざ踏み込んでみると、全く長さを感じることがなかった。どっぷり、ずぶずぶと映画の世界に浸る幸せを、存分に満喫した。
個人的に何より気になっていたのは、アンドリュー・ガーフィールド(以下、敬称略)の出演。彼を初めて見た「BOY A」の衝撃は忘れられない。キチジロー役の窪塚洋介と宣教師ロドリゴを演じた彼のツーショットを見て、「あ、二人とも黒目が多い、子鹿の目なんだなあ」と気づいた。(以前、冨永監督が、窪塚さんや染谷将太くんを「子鹿みたいに澄んだ黒目が多い人は、何を考えているかよく分からない、そこが魅力」といったことを、インタビューで発言していた気がする。)
若く青い使命を持って異国に来たものの、如何ともしがたい凄まじい現実に直面し、揺らぎ壊れていくロドリゴ。川辺に膝をつき水をむさぼるうち、水面に映る自分の姿にキリストの姿が重なり、ゆらゆらと揺れ動く。…あ、キリストも子鹿の目だ、と再び気づかされた。
もがきながら狂気をさまようキリスト教徒たちに比して、イッセー尾形や浅野忠信が演じる奉行所側は、全く動じない。余裕たっぷりに、一寸の隙なく自らの勤めを果たす。卑劣、残酷、老獪…ぴったりくる言葉がなかなか浮かばない。観ているときは、どうしてここまで…などと素朴に思ったが、思い返すにつけ、狂気も極限までいけば、静謐なまでの落ち着きを醸すのだと思いが至り、改めてぞわぞわとした。
言うまでもなく、日本人キャストはいずれも素晴らしい。片桐はいりはそこにいるだけで絶妙な味を醸し出しているし、小松菜奈は邦画では見せない田舎っぽさを発揮し、作品によく馴染んでいる。中でも光っていたのは、「六月の蛇」コンビと言いたい塚本晋也と黒沢あすかの存在だ。特に、ロドリゴの妻を演じた黒沢あすかは、セリフなしにもかかわらず十二分に背後の物語をにじませ、重要な役どころを果たす。「六月の蛇」のヒロインと重なるところが多く、「六月の蛇」あっての本作では、と感じた。また、冒頭と終幕の暗黒と自然音(風の音、虫の声…)のひとときは「野火」を彷彿とさせる。思いがけず、このような大作の対極とも言える、塚本作品との化学反応が垣間見られたようで、ほくほくとうれしくなった。…となれば、今度は、塚本晋也監督の次作に期待せずにいられない! 映画って、本当に空恐ろしいほど奥深く、面白いなあとしみじみと感じた。
これほど丁寧に、執念と尊厳を持って映画化されるとは思わなかった
原作小説が発表されたとき、神の沈黙というテーマは多くの教会でタブー視されたと聞く。そんな原作に大きく魂を揺さぶられたのが、全く異なるアメリカの風土で育った巨匠スコセッシ。その後、幾度も彼による映画化の道が探られては断念されてきた。原作発表から50年が過ぎ、今こうして完成版がお目見えすること自体、幻を見ているかのようだ。
それにしても、さすがスコセッシである。ここには「おかしな日本」など微塵もない。決して欧米式の安易な解釈に寄せるのではなく、当時のスペイン人宣教師やキリシタンの心のキャンバスに映っていたものをしっかりと研究し、理解した上で表現しようとする覚悟と執念がある。しかも原作を読んだことのある私が全く掴みきれていなかった情景さえも具象性を持って描かれている。そこに凄さを感じてやまなかった。私にとっては、スコセッシが辿った数十年に及ぶ映画化の道こそ、真の信仰のように思えてならない。
日本人社会の本質をあぶり出すスコセッシ監督の手腕
序盤、アンドリュー・ガーフィールドの「キチジロー!」とたどたどしく呼ぶ台詞が、シリアスな状況にもかかわらず微笑ましい。とまあ、そんな些細なことはさておき。
もちろん宗教と信仰が大きなテーマとしてあるわけだが、過去から現在まで不気味なまでに変わらない日本人特有の社会、支配と服従の構造と手法、個人が集団に属したときの暴力性と残虐性といったものが、外国人監督の客観性によって的確に――的確すぎて日本人観客には痛いほどに――描き出されている。その意味で、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」に通じる作品でもある。
日本人キャストも、とてもいい。イッセー尾形の役作り、窪塚洋介のしたたかな弱者っぷり、塚本晋也の凄絶な死にざま。彼らの熱演の前にややかすみがちだが、浅野忠信のつかみどころのなさ、厳しさと親しさを自在に使い分けて宣教師に棄教を迫る複雑なキャラクターも、確実に効いている。
観る者を選ぶが、重厚かつ素晴らしい人間ドラマだ。
17世紀初め、棄教したと言われる師に会うため、日本に渡った2人の若い神父の、過酷な運命を描く歴史ドラマ。原作は遠藤周作の小説『沈黙』。監督はマーティン・スコセッシ。
壮大なスケールで、宗教弾圧、心の信仰、裏切り、死と救済というテーマを、静謐なトーンで描き切っている。迫害、拷問、処刑シーンなど残酷な描写があり、日本ではPG12、アメリカではR指定となった。
本作に、娯楽映画を期待してはいけない。上映時間が長く(約160分)、抑制的に描かれた作品なので、単調で退屈に感じる観客もいるだろう。煽情的な高ぶりや大きな抑揚があるわけではない。
もっと短く出来たかもしれないし、真面目過ぎる作品かもしれない。それでも、映画的な美しさに満ちており、信仰や命とは何かを、真摯な姿勢で、見るものに重く問いかける、重厚な人間ドラマだといえる。
日本のイメージを壊す良作
今夜(2024/08/31)観ました。
雰囲気から救われない作品である事に勘付いていたので、敬遠していましたが、評価が高い事や、マーティン・スコセッシ作品にハズレ無しという先入観から観ることにしました。
1600年代の日本が舞台で、ポルトガル人がキリスト教を伝える為に長い船旅を経てやって来る話で、日本人が書いた小説が原作だそうです。
昨今国内外問わず、日本のイメージは良い傾向がありますが、実際は閉鎖的で、他国文化や言語を受け入れたがらない柔軟性に欠ける部分があります。
本作は、その点を包み隠すことなく映像や台詞にのせて表現していて、非常に好感が持てました。
寛大に見せかけた抑圧的な要求によって、ポルトガル人やキリスト教信者の日本人を支配する、イッセー尾形扮する井上公の優しそうな雰囲気からかけ離れた狂気を感じさせるキャラクターに怒りを覚えた程です😅
浅野忠信扮する通辞や、ドスの効いた声で村民を威圧する侍の指揮官扮する菅田俊は次点と言ったところでしょうか。キチジロー扮する窪塚洋介もなかなかのものでした。
とにかく、日本人キャストの演技に今回は脱帽です。
踏み絵を強制され、キリスト教の教えに背かざるを得ない局面を迎える終盤は、フェレイラや通辞の説得に意地でも応じないロドリゴの頑固さに、苛立ちを覚えました。彼の様な敬虔なクリスチャンならば、そうなるのでしょうね。しかしながら命あっての物種です。
予想通りスカッとするシーンも、大逆転も一切ないストーリーでしたが、ラストシーンでは息を呑みました。
3時間近い尺ながら、やはり観応えがあるスコセッシ映画です。一度ご覧ください🎬✨
やるせねぇなぁ…では片付けられない普遍的なテーマ
原作既読。
信教と正面から向き合い葛藤する、敬虔な宣教師ロドリゴ神父役にアンドリュー・ガーフィールド。切支丹でありながら幾度となく踏み絵に応じて生き延びていくキチジロー役を窪塚洋介。この配役は見事でした。イメージ通り……いや、それ以上。配役と演技だけでは無く、あらゆる面において原作以上の衝撃を受けました。
「神の沈黙」と「日本における異教の布教の難しさ」が本作のメインテーマにあると思いますが、非常に分かりやすく丁寧に描かれております。かなりの長尺ですが、全く退屈することなくぶっ続けで観れます。拷問や処刑のシーンにおける悲痛な叫び、踏み絵における極限の葛藤。これらの表現が非常に生々しく、残酷に描かれていて胸が締め付けられます。
前述した2人の俳優が素晴らしい!原作以上にロドリゴだし、原作以上にキチジロー。語彙力無さ過ぎてこんなことしか言えないのが悲しいですが、本当にそうなんです。
そういえば音楽ありました?終わった時にふと思ったのですが…。映画はやっぱりド派手なBGMで盛り上げてほしい!と、いつもは思っている私ですが、本作に関しては全く気にならなかったです。むしろその分登場人物に感情移入でき、心理描写を集中して観ることが出来たのかなぁと。しかし、160分をBGM無しで退屈させず、且つ緊張感を持続させて観せるというのは並大抵のことでは無い。マーティン・スコセッシ恐るべし。
ドストエフスキーも「カラマーゾフの兄弟」なんかで書いていた神の沈黙。百年以上前から問題提起されているこのテーマは、もはやキリスト教にとって普遍的な問題なのかもしれません。そして絶望の中に希望を見出し、盲信的になってしまう危険性も描かれています。その一方で、ある意味キチジローは賢く生きていると言えるし、卑怯ではあるかもしれませんがどこか現代的な印象もあります。
俳優の名演、途切れない緊張感、あまりにも残酷なキリシタン弾圧のストーリー。とてつもない重厚さで映画化された「沈黙」は紛れもない名作でした。
これが真の役者
イエスは自分を神とは思ってない
キリスト教への脅威
仏とイエスキリストの違いを語る場面があったが、イエスキリストは自らの命を捧げ、その死をもって沈黙することでその後、神となった。
当時、命を賭けて海を渡り、東の果の日本にまで布教するというキリスト教宣教師がいるということだけで、キリスト教の恐ろしさを感じる。
神の元でひたすら救いを求め、自己犠牲を厭わないクリスチャンそのもの、そうさせてしまうキリスト教という日本にとっての新興宗教が、当時の日本から見て脅威であったに違いない。
げんにそれらは貧しい農村部から拡がり民衆か一揆を起こすこともあったのだから。
そんな時代に翻弄されたポルトガル宣教師たちがいた事を初めて知った。
信仰の意味について深く考える契機となっている
キリシタンの弾圧に対して殉教する者、棄教する振りをして迫害を避ける者、神は救ってくれないと結論を出す者。様々なキリシタンの姿を通じて、信仰の意味について問う映画。
日本で囚われているキリスト教の師を助けるという純粋な気持ちから、弟子2人は日本に来た。その彼らが日本におけるキリシタンの惨状を見て、そして自分達も迫害に遭った経験をしたことで、これまで以上に彼らがキリスト教の意義について深く考える契機になったと思う。と同時に、それらの経験によって純粋な信仰心を持てなくなったのだから、知りすぎたことがかえって不幸につながっていると言える。救いをもたらすはずの信仰が、かえって彼らを苦しめることになっているのが哀しい。
今作は、外国人の監督ながら当時の日本の様子を上手く再現できていると思う。また、OPとEDでひぐらしの鳴き声や雨の音をBGMとして使用しているのが、日本の夏を感じさせられて良かった。
人々に必要とされる神父の喜び
ちょっとドライ
見初めて10分くらい。
この話記憶にある気がする、と思ったら
同原作で70年代に既に映画化されていたのですね。
その過去作のほうも随分前に観ていたのでした。
なのでその記憶とどうしても比較しながら見てしまったのですが、
どちらかといえばこのスコセッシ版のほうが見易いです。
篠田監督版のほうは見ていてじっとりと
嫌な汗が常に付いて回るような、湿度が感じられて陰鬱。
むしろ拷問の惨さと転んでしまう
無念や惨めさ、無力感はたまらないやりきれなさで
その陰鬱さにとても合致していたのですが、
スコセッシ版はとても自然で比較的描きかたは
サラリとしています。
それでもちゃんと宣教師たちの苦悩は伝わるけれど、
強烈な印象は篠田版のほうでした。
ただし篠田版が描くのは明確に転ぶところまでで、
パードレの生涯までではありません。
原作未読でありますが、生涯の最後が
この映画版のオリジナル演出だったなら
スコセッシの優しさ、同情、敬意を込めたものでしょう。
キリスト教と日本の土着宗教観にとどまらず
人間パードレを描くと言った点では
スコセッシ版が特出していると感じました。
宗教を捨てさせる、歴史の残酷さがメインテーマというよりは
ある意味禅問答のような、
キリスト教の教えとは?仏とは?
信仰とは?にその雄たる司祭が直面し話し合うところが
一番のメインテーマなのでしょう。
神の沈黙とはいったいなんなのか。
神などいない
そこにあるのは生まれて、ただ死ぬだけ。何故なら人もまた動物で他の生き物となんら変わらないのだから。
虚しい。空しい。映画が?ちがう、脳みそが空しいのだ。何故か?私は日本という大変恵まれて治安の良い土地で生まれながら、
幸福感がイマイチ湧かない。幸せと思うべき環境なのにだ五体満足で食べるものにも困っていないのだから。幸せなのに幸せと思わない自分に対して虚しさをおぼえる。
俺はリーアム・ニーソンと窪塚洋介を尊敬している、いや、窪塚洋介は好きだ、(ルックスが)
スパイダーマンの俳優すきだよ❕この映画でさらに大人になったね❕演技派俳優👀🍿*゜
満点?人の作品に点数だと?,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、(ノ∀`)'`,、'`,、'`,'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、'`,、笑わせるな、そもそも裁判等も滑稽だ人が人を裁くとか笑わせるなホモ・サピエンスよ
アダム・ドライバーが死ぬ時のガーフィールドの演技はセブンのクライマックスに近づくほど泣ける演技力だ
映し出された全てが美しく荒々しい。
迫害の論理と日本主義の精神
あまりにも古い時代の話である。17世紀、日本では江戸初期のころだ。なぜこの時代に日本でこれほどまでにキリスト教が迫害されていたか。理解に苦しむ。今の価値観で捉えれば、「踏み絵」なんて大したことには思えないが、当時のキリスト教徒にとってはこれを行うことにものすごい心理的葛藤が伴った。この時代の人々の心持ちはよほど純粋だったのだろう。宗教に迫害はつきもので、度重なる試練に直面するのはどの宗教も例外ではない。現代でいえば、創価学会。叩かれれば叩かれるほど強靭になっていき、ついに日本の政治の中枢に到達した。
「この国は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる・・・日本の信者たちが認識している「神」はわれわれの「神」とは違うものだ。」
今まで日本にもたらされた外来文化はことごとく日本式に姿を変えていった。近代でいえば、資本主義や民主主義。日本独自のものとなり、その風土や伝統、そして国民性に深く根ざしたものに変換され、本来の思想はあまり議論されることなく、日本流が当たり前のものと日本人には認識されている。そもそも本質はこうだと心の中で論じるのは勝手だが、郷に入れば郷に従え、その国に生きる者はその国の慣習に従うほかない。
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