名前のレビュー・感想・評価
全33件中、1~20件目を表示
【”アイデンティティの放棄と追求と再生。”独りぼっちの”男”と”娘”が未来の光を見つけ再生する様を描いたヒューマンドラマ。津田寛治さんは矢張り佳き役者であり、駒井蓮さんも素敵な若き女優です。】
■都会を離れ関東の田舎で暮らす中村正男(津田寛治)は、過去のある出来事で、名前や身分を偽って生きていた。
そんな彼の前に、見知らぬ女子高生葉山笑子(駒井蓮)笑子が現れる、彼の事を”お父さん”と笑顔で呼ぶ。
笑子は正男が周囲に名前を偽っていることを知りつつも、自分が何者なのか、何が目的なのかを明かさないまま正男と過ごすようになる。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・中村正男が、自分を偽って生きる中、劇中では過去に付き合っていた女(筒井真理子)が現れ、彼の過去がややうかがえるが、それ以上は描かれない。
・観ている側は、故に女子高生葉山笑子の父親が、中村正男ではないかとミスリードされるのである。
■この辺りの描き方が、巧いのである。更に言えば葉山笑子を演じた駒井蓮の、大人びた風情が良いし、邦画の名バイプレイヤーである津田寛治さんが、流石の演技で孤独だった男を演じている。
<ラスト、真実が明らかになる中で、中村正男は晴れ晴れとした顔で、”お前は天国のお父さんと、俺と二人のお父さんに見守られているんだぞ。”と笑子に言い、笑子も又、学校の正門で喧嘩していた友人(松本穂香)が駆け寄ってくる中、別の生徒に”あの人、お父さん?”と笑子を笑顔で見送っていた中村正男の事を聞かれて”ううん、この人は違います。”ときっぱりと答えるのである。
今作は、独りぼっちの”男”と”娘”が未来の光を見つけ再生する様を描いたヒューマンドラマなのである。>
やっと本当の自分に向き合える
どうしてこんな事になったのか…。
え?ひどい 中年男性目線の、都合よい視点がまじでキモチワルイ 可愛...
本当の自分が分からない。
3.2本当の自分
津田寛治が主演だが、いつも脇役の俳優だし、役柄も50代の冴えない男...
いい映画でした
人の気持ちを理解するとは
実際にありそうなストーリー
50過ぎのバブル世代を桜華した世代で、同じ様な境遇にあった方なら現在の自分と重ねて見入ってしまう、そんな映画だった。
「貴方は私のお父さん」と言われて泣くシーンは娘を持つ親父には涙もので、後にこの娘の実父は死亡している事を知っていたからこそ泣いていたんだと、この男の優しさに気付かされます。
最後で友人が駆けつけたシーンは、ハッピーエンドで〆る演出が良かったです。
何、本当の自分って?。
正直最初は「???」な展開。
①<中村正男>編
どこかうさんくさくて、捉え所のない中年男。
「なぜ3つも偽名を使うのか?」。「本当の名前は?」。と疑問符だらけ。
そこに「お父さん」と自分を呼ぶ、女子高生・笑子まで現れて。ますます???。
まあ、きっと実のお父さんなんだろうな。と勝手に納得。
②<葉山笑子>編
あれ、今度は女子高生がメインなのね、と驚き。
その話の中に①のいろんな場面が挿入されていくのが。
「もしかして、もしかして?!」と観ている側に、クエスチョンを出していくところが興味深い。
そして①➕②=の答え。
作品を通して、時間軸が交差している展開の幾多の疑問。
「あ、あそこで!」と脳内で小さな場面がフラッシュバックするところ。
わお、そうきたかー。なるほどねとじんわり。
津田さんの最初の「くたびれた中年男」が最後、「おじさんだって、それなりにやってるさ」という表情。
心に染みました。
単館映画的渋い作品でした。
負け組じゃ終わらない
妻に去られ、経営していた会社もつぶれ、実家に戻っていろんな名前を使い分ける生活をおくる主人公(津田寛治)の前に、不思議な女子高生(駒井蓮)が現れる。
二人が本当の名前で呼び合うまでを面白く描いていく。
現実をよく見ることで再度、立ち上がる勇気が湧いてくるかも。
トルコ行進曲よりもオリジナル曲の方が心に沁みる。
wowowで『食べる女』が急きょ放送中止となり、代わりに放映されていた。まるでドラフト会議で外れ一位指名したら、後に大活躍する選手であるかのような拾い物作品だった。
会社を倒産させてしまい、茨城で隠遁生活をする主人公中村正男。この平凡な名前が幸いしたのか、元仕事仲間たちには吉川、愛人には石井、ペットボトル・リサイクル工場のアルバイトでは久保と名乗るほどの偽名好き。お前は多羅尾伴内か!と、過去から逃げるためにその都度嘘をつきとおすには最適なのだろう。そんな津田寛治の演技が冴えわたり、女子高生・葉山笑子を演ずる駒井蓮の演技の方がもっと凄い(特に劇中劇)。
「わたし、あなたの娘です」と突如訪問してくることを想像することがある。子供がいない寂しい男の心境にちょっと共感してしまいますが、現実的には親と子供の両者がともに寂しさを埋める意思がなければ成り立たないのだろう。逆に妻子に逃げられて音信不通だという男の方が世の中には多いと思います(なぜか知り合いに多い)。
そんなある日、不思議な女子高生が現れ、「おじさん、おじさん」と付きまとわれ、嫌な気分もしないので、奇妙な関係のまま平穏な暮らしを送る。中村正男、葉山笑子の両サイドから描く手法によって、その心情が絶妙に伝わってくるのだが、このまま済し崩し的に疑似親子を演じ続けるのかと思えばそうでもない。特に多感な笑子の場合、友達も少なく、幽霊部員だった演劇部に誘われ、真剣に練習に励むのだが、先輩には偽物が演じていると指摘され、正男とのあやうい関係も見透かされた気分になるのだ。
もしや二人とも正体がわかり、わかった上で疑似親子関係を続けることを予想してしまうのですが、これだと、チャップリンの『キッド』になってしまう(ちょっと違いますが)。両者とも気づいた段階でどうすべきか選択を迫られる終盤、そっちか~と思わず作品の真意を知る。正男にしても元妻(筒井真理子)が流産した過去もあったし、笑子の本当の父親が亡くなっていたことも判明するため、肉親が死んだことによって互いの喪失感を埋め合うのも良かったのですが、笑子の将来を考えるとそうもいかない。そして決断を下したのは笑子自身。偽物の自分とはきっぱりと縁を切る選択が未来の明るさを物語っていたように思います。
しかし、ひねくれた目で見てしまうと、ポカーンとなった教師にしても、援助交際かな?などと下衆の勘繰りがあるに違いない。最初に登場し、スナックでも見かけた若い女だって笑子に似ていたし、津田寛治が引きつった笑みを浮かべるとそれっぽく感じてしまうのだ。43歳という年齢ならば、やっぱそうでしょ・・・
全33件中、1~20件目を表示