「無門は怠け者じゃない」忍びの国 ちゃいむさんの映画レビュー(感想・評価)
無門は怠け者じゃない
初回は、ただ、ただ、おもしろかった!!
びっくりしたり笑ったり、ドキドキしたり、イライラしたり、、、
大感動!!とはいかないけれど、なぜか後を引いて、再度見たくなる。
見終わって、友達に変なところはないかと聞かれ、答えに詰まる。
変なところがない。
いや、実はおかしな所ばっか。
監督も言うように、ワイヤーにしても忍びの術にしてもわざとらしい(笑)
それをすんなり受け入れてしまっている自分に驚いた。
ドラマやアニメでも細かいことが気になる質なんだけど気にならなかった。
「忍びの国」は史実ではあるが、
忍び達は私の考えの及ばない世界で生きている、
ある意味ファンタジー的な、つまり「人間ではない」存在であると捉えてしまったのかもしれない。
十二家評定衆、まじ、妖怪並に怖え~し、
忍び達も、金、金、金の人非人だけど、どこか愛嬌があって全力否定できないし、違和感も感じない。
喋りひとつとっても現代風だし、いわゆる「時代劇」感はあんまなくて
凄惨な出来事も、冷酷無比な行いも
そういう風に描かれていないので、その残酷さが伝わってこない。
笑いながら見ていて、ふと、
それを残酷だと思うことなく見ている自分に怖くなる瞬間もあった。
映画を4回見た後で
原作小説流し読み →コミック →原作小説
と読んだ。
映画では描ききれていない背景もわかって、キャラが肉厚になった気がする。
その上で再度、映画を見ると、また余計にぐっとくるものがあった。
無門は怠け者じゃない
私の結論。
「切り合いなんかしたら、死ぬかもしれん」
門を開け、帰ろうとしたところを呼び止められ、そう答える。
映画では出てこなかったけど
無門はお国をさらって来て2年、仕事(殺し)をしていないらしい。
忍びの生業は、術を買われて他国に行き、
諜報活動や暗殺などを行う。
凄腕の無門ならば、引く手あまたで稼げる筈なのに
それをしないのはやっぱり・・
お国の為、それ以外にない。
(原作で) 小屋に来た木猿と入れ代わりに外に出ようとするお国に
「三間より離れんでくれよ。気配がつかめん」
いやいや。5メートル離れるなって・・・ 子どもか!(笑)
一瞬くすっとしたけど、
よくよく考えると夜だし、ここは伊賀だ。
そして、無門は、里の者からつま弾きにされているともあった。
それでなくてもよそ者の女
そして、つま弾き者の無門が連れて来た気位の高い女
里の者がよく思っているわけがない。
心配で仕方ないんだね。
もし、無門が他国で死んでしまったら、
お国はこの虎狼の族の中にひとりで残されてしまう。
無門が働かない(刀術を使わない)のは
自分の命が惜しいのではなく
お国の傍にいる為なんだと思う。
お国に惚れる前は、他国での仕事のついでに
女を術にかけ、遊んでいた。
しかし、お国には術がきかず
あれこれ口説いているうちに「夫婦に」と言ってしまった。(笑)
映画では二回とも術に失敗し、見ていた息子は「下手すぎ」と呟いていたが
原作では、「無門はしくじったことはない。」とある。
思い通りにならない女は初めてで、が故にどうしても手にいれたかったのかもしれない。
くどき倒した挙げ句、「夫婦に」などと口走っちゃったんだね(笑)
で、術のかかってないお国ちゃんと一夜をすごし、完全に虜になったんやな(笑)
お国もさらわれたというよりは自分の意志でついてきたみたいだし。
だいたいその気がないなら、口説かれてる間にいくらでも人を呼べた筈だから
なんならお国が「夫婦になれ」という言葉を誘導したんじゃないかとすら思えてくる。
要するに、お互い一目惚れじゃんか。
One day One way One time
「つなぐ」の歌詞
無門の人生は、まさにその通りだった。
次の瞬間、死ぬかもしれない身
今日、この一瞬が楽しければよかった。
「名前がないってどういうこと?」
私は、不思議で仕方がなかったが、やっと合点がいった。
ハサミやボールペンには名前をつけない。
上忍にとって、下忍は、本当にその程度の価値しかないのだと。
原作に、無門は
「この男は自らの心を欺き続けていた。この男がもし自らの半生を直視していたならば、とうの昔に狂い死にしていたことだろう。この男の半生は直視するには余りに過酷であった。やがて一人前の忍びに成長し「無門」という道具としての名を与えられたとき、この男は自らを韜晦していることにも気づかぬ男になり果てていた。」
とある。
だから、無門には平兵衛の悲しみが理解できなかった。
下山と百地の戦で、忍び達がゲラゲラ笑って人を殺している。
何人やっつけたかで高得点が出るゲームをやっているような感覚かもしれない。
人を人として見ていない。
彼らは自らをすら「人間」として扱ってないんだろう。
人を愛すると、世界が違って見える
大切なものができると、他人の痛みにも鈍感でいられなくなる
お国と接するうち、無門の何かが少しずつ変わって行ったんだと思う。
原作では、「無門の想い女」と表現されている。
絶妙な表現だと思う。
まだ女房でもなし、恋人というには奇妙な関係だし(笑)
うっかり「夫婦に」と連れてきてしまった彼女だったかもしれないが
日に日に存在が大きくなり
おそらく、お国の為に生きているといっても過言ではないだろう。
まるで幼児が母親の顔色を伺うが如く、お国の機嫌を気にする無門。
叱咤激励し、無門を導こうとするお国は、
母を知らない無門にとって「母」をも思わせる存在だったのかもしれない。
自分よりもお国。
ただ、彼女が笑顔でいてくれたらいい。
「愛」だ。
「わかってたまるか」
北畠の牢で平兵衛の言葉にそう呟き返していたが
たぶん、自分の本心に気づかぬように吐いた言葉なのでは?
平兵衛の言葉に納得するということは、
自分の今まで、存在を否定することになってしまうから。
気づき初めてはいるが、それを意地でも認めたくないのだ。
平兵衛との「川」のあと
原作では、
"信雄よりお国を危険に晒す事態を招いた十二家評定への怒りを優先した"
ってニュアンスで書かれていたけど
私は、何度見ても(映画の)平兵衛と無門は戦いを通して何かしら繋がった気がしてしょうがない。
伊賀一というのだから、互角に戦える相手は少ないだろう。
確実にどちらかは死ぬ。
紙一重の死闘の中で平兵衛の心に触れたんだと思う。
険しい表情で戦っていた二人が
ふっと緩い顔になってお互いの力量を認め合ってた。
瀕死の平兵衛が降り下ろした鞘をよけなかった無門。
勝敗は決まっており、容易によけられるのに。
鞘が木っ端みじんになったときの無門の平兵衛を見る目が好きだ。
「わかったから もう怒るな」
無門の顔が切なすぎる。
殺した平兵衛を哀れに思っていることが既に周りの忍び連中とは違う。
無門は静かに怒っているように見えた。
激しく怒っているというよりは、悲しすぎてどうしていいかわからない。
昔の無門には「悲しい」という感情すらなかっただろう。
自分の中に沸き立っている初めての感情。
なぜ、人を殺してこんな気持になるのか、わからないから余計に苛立つ。
そうだ、やつらだ。
全て十二家評定が余計なことをしたせいだ
そして、伊賀にも、自分にも、戦国の世にも
いろんなものに苛立っているように見えた。
平楽寺で上忍のひとりを刺したのが
平兵衛のクナイ(短刀)だと気づいたとき、はっとした。
はやり、無門は「思い」を受け取ったのだと。
刺したあと、平兵衛のクナイをしばらく見つめる無門に胸が熱くなった。
「虎狼の族か・・・」
共に戦い、伊賀を守り、今しがた連れ立って帰ってきたばかりの者どもが、金の為に自分に刃を向ける。
以前の無門ならば、それが当たり前だと感じただろう。
しかし、無門は、ほんの一瞬落胆してしまったのかもしれない。
そして、落胆した自分を嘲る。
そうだった、こういう奴らなのだ。そもそも腹を立てることが間違っている。
ついこの間までは自分もあっち側だったろうよ。
そんな複雑な思いが混じった言葉に聴こえた。
「わしはなんという馬鹿だ─── 」
上忍からは道具として扱われ
他国の武将からは蔑まれ
同じ里の者からも孤立している無門
お国は無門を「人」として扱ってくれる唯一の存在だった。
心の拠り所だった。
それに失ってから、やっと気づいてしまった。
次郎平兵衛を殺された平兵衛は無門に切りかかった。
無門は、それすらもしない。
ただ、お国を抱えて去っていく。
人間、本当に大事なものを失ったとき、心に穴があく。
最後の瞬間にも無門に人として「名」を聞いてくれたお国。
殺したヤツらよりも、そんな事態を招いてしまった、自分に怒っていたんだろうか。
そして、無門は人間として生きる道を選ぶ。
原作では、「鉄」という鍛冶屋の子どもを連れて伊賀を出るが、
映画では、お国が気にかけていた「ネズミ」という子になっていて、「父」「母」と呼ばせていた。
原作よりも、より人らしく描かれていると思った。
無門は、少年を育てることで人として生きた。
助けるというよりは、無門には少年が必要だったんだと思う。
映画のエンドロールで
手を引いていた少年が「離せよ!」と言わんばかりに手を抜き離れるが
やがて、自分から近寄り、無門の手を握る。
このときの無門の気持を思うと涙が止まらなくなる。