「確信犯=それが正しいことと信じて犯す罪」エリザのために 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
確信犯=それが正しいことと信じて犯す罪
親が子に対して言う「あなたのため」の落とし穴。親から子への愛が、親のエゴの押しつけに変わり、その独善的な正義に気づかない「誠実」さ。
人は主人公のことを「誠実な人」と語る。しかしその誠実な人が、小さなきっかけ(それさえも自分自身では正義感ゆえ)で倫理を外れていく。根回し、収賄。それらすべてが「エリザのため」というエクスキューズで許されると男は信じ込んでしまう。誠実な人の正義が大いに揺らぐ様を、物語はしっかりと凝視する。その人間観察の鋭さに感服。
カメラワークはひたすらに主人公の背後に立ち、彼の背中を追いかけ続ける。全てのシーンが主人公の一人称で切り取られていく。それはまるで、彼の視点で物語を見るようにも見えるが、しかし観客は客観的な目でそのカメラを見つめる。主人公の主観を、観客は客観的に見据えるようなカメラの位置。主人公は自らの主観でものを見る。だからこそ時に冷静さを欠き、判断を誤り、大事なものを見落としてしまう。そしてその様子を観客は客観的に見据えるため、それらに気づいていく。気づかないのは主人公だけ。この主体と客体、主観と客観を巧みに操ったようなカメラワークは容易く真似できる技ではない。
それでいて、物語は主人公を安易に糾弾したりなどしない。誰でもが陥りかねない小さな罪の背徳の積み重ねを冷静沈着に理路整然と描き出す。人間が、自分は正しいと思い込んだまま静かに着実に道を外していく様子に、思わず自らを戒めたくなる。ルールを守らない子に石を投げた少年と、石を投げてはならない理由を説明しない男。こういう巧みな構図が、映画の随所に散らばっていて、ひとつひとつが効いてくる。
こういう映画は、やっぱりヨーロッパが強い。勧善懲悪が得意なハリウッドなら最終的に主人公に罰を与えるだろう。しかしそれをしないところに、ムンジル監督の人間のありのままを濁りない目でしっかりと見つめる感性の鋭さを感じる。