「ディストピアSF作品はもはや時代遅れ」ダイバージェントFINAL 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
ディストピアSF作品はもはや時代遅れ
このシリーズもやっと終わりである。
原作小説を読んでいないのでどういう終わらせ方をするか興味があったが、案の定と言おうか『ハンガー・ゲーム』シリーズと同じだった。
外部に大きな権力を持つ監視者や抑圧者がいてそれを打倒するという展開である。
前述した『ハンガー・ゲーム』にしろ『メイズ・ランナー』シリーズにしろどれもいっしょの構造である。
まずは自分の閉じ込められた世界を壊す。そしてその世界を作った相手を倒す。
もちろん全てディストピア作品だ。
映画を観る限りは全く読む気がしないが、世界中でこの原作小説が3部作累計で3700万部も売り上げているらしい。
しかし映画だけで言うなら『ダイバージェント』シリーズは『ハンガー・ゲーム』シリーズに比べると主演俳優の演技力や物語の仕掛けや豪華さ、全てにおいて劣って見えてしまう。
そもそも3作品全てについて共通して言えることになるが、まずは思いつきで1作目を書いて、売れたから続編を書く際に困ってその世界を作った真の相手を倒す展開にしているように思えてならない。
そしてこの3部作という構成はなんだかんだ言いながら『指輪物語』を踏襲している。
原作は小説だが、3つのシリーズ全てが映画の『マトリックス』シリーズの影響を受けているようにも思える。
全ての作品がアメリカ発の作品である点も面白い。
アメリカは表面的には民主主義が大事だと言いながら、心のどこかで自分たちが選挙を通じて選んだ政府を信用していない。
そもそもアメリカは建国の理念として政府や王が暴政を振るうなら銃を持って抵抗する権利を許しているからなのだろうか。
この手の映画を観ていると政府や権力者たちは常に人民を抑圧する悪党に描かれていてむしろ共産主義や独裁主義の国家像に近い。
まあ逆説的に強大な権力者たちを倒す登場人物たちが民主主義を体現する正義のヒーロー(ヒロイン)を表しているのかもしれないが。
海外の人が日本の漫画やアニメを観るとなぜ日本の作品は血筋にこだわるのか?と疑問に思うらしい。
おそらく日本には神話の時代から現在まで2000年以上連綿と続く皇室があり、江戸時代までは清和天皇の血統である源氏しか幕府を開けなかったように、知らず知らずのうちに日本社会では血筋が安定をもたらすことをわかっているからだろう。
もはや近未来ディストピアSF作品は日本では受けなくなっているのではないだろうか。
今のアメリカ人の大半はアメリカ大陸に何の関係もない外部から来た人たちで構成されている。
しかしアメリカ大陸で生きている以上はその土地が太古から持つ歴史や自然、伝統に耳を傾けなくてはあまり幸せにはなれないような気がする。
個人的な見解になるが、自分たちがほぼ絶滅させた後ろめたさからインディアンを居留地に押し込めるのではなく、むしろ彼らに古くから伝わる神話や伝統に教えを乞い、それをヒントにして国家経営を考えていくべきではないかと思う。
本作や他のディストピア作品では自然破壊が相当深刻であることが多いが、たしかにこれ以上自然を破壊した先に幸せな未来が待っているとは思えない。
筆者個人だけなのか他にも同じような考えの日本人がいるのか知らないが、以上のような理由からアメリカのディストピアSF作品では結末が幸せであってもなんとなく釈然としない。
本作で「ピュア」な異端者はトリスだけというのもあり得ない。
確率的にはもっといるだろうし、最後に登場する記憶を消すガスも取って付けたような設定である。
それにあれだけどこでも監視できる万能な科学技術があればトリスたちの行動も未然に防げそうなものである。
原作小説にはもう少し説明があることで説得力があるのかもしれないが、なんだか全てがこじつけの上にこじつけを重ねているようでよくわからない世界になってしまっている。
本作の最後に次回作も制作できそうな余韻は残しているが、続編はこれ以上創らない方が賢明だろう。
本作は映像以外で良さを探すのがなかなか難しい作品であるが、何も考えずにポップコーン片手にお決まりのアクションと恋愛劇を観る分にはいいかもしれない。
ただし1800円を払う価値があるかどうかには疑問符が付く。
主役が撮影中に負傷したことで『メイズ・ランナー』の完結編?の上映が来年に延期されたが、どういう結末になるのかある意味楽しみである。(原作小説を読む気はない)