「すべてを映し出すがゆえ すべてを取り逃すカメラ」イレブン・ミニッツ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
すべてを映し出すがゆえ すべてを取り逃すカメラ
「11分」の間に起きたことはすべてが克明に「記録」されている。スマートフォンからハンディカムから8ミリから監視カメラまで、あらゆるカメラが「11分」をさまざまな方面から切り取っている。時にはイヌの視点になって主人を見上げたり、上空から街を見下ろしたり、とにかく手段を問わず現実を映し出し続ける。
しかし、そうであるにもかかわらず、この映画には人間的な感触がない。仮にも同じ時空を経験している人々の動向を描いた群像劇のはずなのに、人物の心情の掘り下げはほとんどなされない。話が進むにつれて各々の目的意識のようなものがなんとなく明らかにはなっていくものの、それらがどのような蓄積に基づいたものなのかは判然としない。
人間を語り出す装置としての機能を十全に果たすべくカメラは多種多様な撮影機器を忙しなく行き来するのだが、それによって映像の持つ説得力はかえって摩滅していくという悲痛な逆説性。人間不在のサスペンスはやがていかにも人工物めいた粗雑なラストシーンへと墜落する。役者のオーバーな演技やスローモーション演出はこのシーンの人工性を強調しているといえるだろう。
技術が発達すればするほど眼前の物理現象を捉える方法は増えていくが、そういうテクニックばかりに終始しているうちに「人間っぽさ」はどんどん抜けてつまらなくなっていく。本作を通じて私が受け取ったメッセージはそんなところだ。衝撃的なラストシーンが監視カメラのモニターのうちの取るに足らないワンシーンへと後退していく描写は、「カメラ(=語りの文法)」それ自体にこだわることの不毛さを表しているのではないか。
一方で、この映画の網羅力をもってしてもなお最後まで映し出されることのなかった「空の黒点」の存在はある意味で希望だ。たとえ世界の全てが監視カメラによって余すことなくモニタリングされていても、決して可視化されないものがあるということ。これは人間の心情も同じだ。存在はするが、目には見えない。しかしそういった不可視性を、それでもなお何らかの形に捉えようと足掻き続けてこそ、傑作と呼ぶに相応しい文芸が生まれるのだと私は思う。
印象深い挿話がいくつかあったが、とりわけ映画プロデューサー(監督?)と新人女優のやりとりは昨今の邦画業界における諸問題を彷彿とさせた。女優側がなんとなく自分の身体を売ることについて諦観的になっていたのがなんともやるせない。プロデューサーのあまりのクズっぷりにはもはや失笑すら湧いてこないが、こういうことが実際に起こっているのだと思うと戦慄する。