「ミクロとマクロ」イレブン・ミニッツ 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ミクロとマクロ
無関係な筈の11人、それぞれの11分間を描く。11人いれば11通りの時間の流れがある。
これ自体は手垢のついた手法なのかもしれない。だけども、何故かスリリング。
衝撃のラスト。陳腐すぎて、ええッ?こんなオチで良いの?という衝撃でもある。陳腐なんだけど、何故かウワっともっていかれる。
言葉で説明しだすと、まどろっこしくて意味のない映画。小説では絶対この感じは出せない、映画だからこそ成立する。すごく面白かった。
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一人の男ヘルマンが街を歩いている。街には騒音があふれている。
犬の鳴き声、救急車のサイレン、屋台の物売りの声。ヘルマンには関係ないノイズ。犬も救急車もその時は画面に出てこない。街のありきたりな音。
その後のシーンで、犬の飼い主や救急隊員のエピソードとなる。単なるノイズの先にあるもの。
だから、ちょっとした音が聞こえても、これも何かあるのではないかと身構えてしまう。単なるノイズが厚みを持ってくる。音が重層的だった。
まるで落ちそうなくらい建物ギリギリに飛ぶ飛行機の音、水に落ちる音、ガラスの割れる音、高圧洗浄機のシューっという音…。日常的なノイズを敢えて誇張していて面白い。
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妻の居るホテルの部屋を窺う男ヘルマン、ホットドック売りを遠くから窺う女(ポスターのように街並に同化していて後から人だと気付く)、河を眺める日曜画家など、何かを「見ている」登場人物が多い。だが、彼らも誰かから「見られている」。
ホテルでのヘルマンはあまりに不審で客やホテルマンから「何この人?」という感じで、視線を向けられている。
「見ている」と「見られている」の混在(同じ時間帯を11通り示すことでそれは誇張されている)。
空に浮かぶ黒い粒を見上げる者と、
黒い粒の視点から見下ろす者(モニターの羅列でそれは示される)。
「見ている」と「見られている」を行き来するダイナミズム。
仰視(見上げる者)と俯瞰(見下ろす者)が交差するカタルシス。
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この映画を観ていると、人や建物が粒みたいに小さく映っている航空写真を思い出す。
粒にクローズアップしていくと、そこに人が居てそれぞれの生活があって、単なる粒ではなく別個の時間が流れている。100万人いれば100万通りの時間の流れがある。
その100万通りの人・時間を限りなくズームアウトしていくと、単なる粒になってしまう。
ミクロとマクロを行き来する。緻密で大胆な映画だったと思う。
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追:こういう映画のオチに意味を求めて陳腐とか言ったりする方が陳腐だなあ。