「ピースは埋まったが、ピースは埋まらない」イレブン・ミニッツ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
ピースは埋まったが、ピースは埋まらない
ポーランド(かどこか)の都会、午後5時。
教会の鐘が五つ鳴り響く。
映画のオーディションに、監督の待つホテルの部屋を訪れる女。
嫉妬深い彼女の夫は、彼女の後をつける。
ホテル近くの道端でホットドッグを売っている、刑務所から出所したばかりの男。
4人の尼僧が残りわずかのホットドッグを買い、そののち、犬を連れた若い女が残りの二つを買う。
人妻と情事に耽っていた配達員の青年は、5時の鐘とともに慌てて飛び出し、荷物の配達に向かう・・・
と一見関係なさそうな男女十数人が、最終的に、ある悲惨なアクシデントにより一堂に会してしまうといったハナシは、まぁ、これまで幾度となく見てきたハナシ。
この手のハナシだと、並行して描かれる男女のハナシに面白み(個人的な面白み)がないと、かなり退屈してしまうが、残念ながら退屈してしまった。
出てくる男も女も、ほとんど共感を抱けないし、なんだか買ってしておくれ、みたい。
なので、その手の、いわゆる「群像サスペンス」としては、いまひとつ。
なんだけれども、どことなく、脳裏に(まさしく、脳の裏側あたりに)漠然とした不安のようなものが貼りついてしまって剥がれない。
その不安の元となるものが、映画では直接描かれないから、少々やっかい。
そいつは、登場人物の何人かが目撃する「空中の黒い点」である。
「空中の黒い点」って、なんとも不条理な・・・
これが、M・ナイト・シャマラン監督だったら、「あれは宇宙船、もしくは未来からやってきた飛行船。普通は見えないが、見えると災厄をもたらすものだ」とかなんとかいって、常識的な怪奇映画に落とし込んでくれるので、観ている方としても安心できる。
しかし、スコリモフスキ監督は具体的に描かない。
描かないので不安になる。
起きてしまう出来事は、天変地異かテロか・・・なんて気になってしまう。
でも、起こるのは、いわば「すっとこどっこい」なことが原因の災厄なのだ。
その災厄が起こった後が、この映画のいちばんの見どころ。
災厄の写る画面が、いくつにもいくつにも細分化されていき、最後には災厄が起こったかどうかがわからなくなってしまう。
その細分化されて、何が写っているのかがわからない画面は、モニターの一部で、そのモニターには一部のドット滑抜け、「空中の黒い点」がくっきりと映し出される。
劇中、何度も何度も鳴り続ける5時を報せる鐘の音は、教会の鐘。
何が写っているかわからない画面は、たぶん、神の目からみた世界の暗喩なのだろう。
「空中の黒い点」は、たぶん、神の啓示の暗喩ではありますまいか。
いや、もしかしたら、災厄は「神の不在」によるものかもしれない。
はたまた、神の目から見たら、ひとびとの災厄なんて、「ないに等しい」のかもしれない。
並行して描かれる物語のひとつひとつのピースはカチリと埋まったけれど、それでもピースが抜けている。
この映画は、そんな「不安を掻き立てる」映画であることは確か。
<追記>
とはいえ、カチリと嵌ったピースそれぞれが、あまりにもつまらないので、81分という短い尺ながら、半分ぐらいのところで飽きてしまったのも事実。