「権威を讃える不自由な精神」ローマ法王になる日まで 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
権威を讃える不自由な精神
キリスト教は自由と平等と寛容を説き、欲望を超越することで魂の平安を得ようという宗教である。教え自体は仏教とあまり変わらない。違う点は布教の姿勢だ。仏教は布教よりも修行を重んじるのに対し、キリスト教は布教を熱心に行なう。イスラム教も布教には熱心だ。
それは教義の違いに由来する。仏教は菩提薩埵が修行を通じて涅槃を極めたのに習い、般若波羅密多を唱えて恐怖を克服する修行を行なって悟りに達することが目的とされる。しかしキリスト教では、聖書に「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とある通り、寛容の精神を説く。できれば多くの人々に、互いに寛容になってほしいのだ。そのためには不寛容で頑なな人々を啓蒙し、教え導く必要がある。
ところが、宗教活動が社会的になると、布教や伝播という目的のために人を組織する必要が生じる。そして組織は権威と服従の構造を生む。
宗教のはじまりはすべて個人の活動だった。経典などはなく、口伝で広まった。歌を歌っていたという説もある。誰かが後世に残そうとして聖書や経典を書き残してから、宗教には文化の色が付きはじめた。同好の士が集まって活動を盛り上げようとすれば、おのずから組織が形成され、権威と服従の構造が生まれていく。複数の組織が形成されると、複数の権威が生まれる。すると今度は権威同士の争いとなる。
原始キリスト教、原始仏教の教えはどこへやら、自分たちの正当性をひたすら主張する俗物たちの舞台となってしまうのだ。
つまり宗教は、聖書や経典が作り出され、組織化されたことで、本来の個人的な救済から遠く離れ、儀式と偶像崇拝に堕してしまったのだ。形骸化して権威同士の争いとなり、紛争を防ぐどころか、逆に戦争の主因ともなった。代々のローマ教皇がいかに政治的であったかは、高校の世界史の授業でも教えている。
権威が成立する原因は人間の弱さにある。権威は組織から生まれ、組織は神ではなく人間が作り出したものであるにもかかわらず、人は自由の重味に耐え切れず、権威の前にひれ伏してしまうのだ。
本作は独裁政権のアルゼンチンを生き延びてきた非暴力の神父の生涯を感動的に描いている。しかしそこかしこに、キリスト教の権威が見える。管区長の権威、枢機卿の権威、そしてローマ法王の権威。
「今から枢機卿がミサを行うから、ありがたく聞きなさい」
そんな風なシーンがある。そこにイエスがいたら、どのように反応するだろうか。仰々しい着物を着て、多くの飾りや讃美歌の合唱などの舞台装置を備えた上でのミサ。襤褸をまとって裸足で歩くイエスには、それが自分の教えを受け継いだ者たちに見えるだろうか。
この映画が作られた精神的な背景には、権威に対する屈服がある。誰も自分たちが屈服していると思っていないところが恐ろしい。コンクラーベがAKBの総選挙と構造的には同じであることに、誰も気づかない。