「誰かに違う音色を奏でてほしい」だれかの木琴 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
誰かに違う音色を奏でてほしい
人間は問題を抱え続ける生き物だ。まず衣食住が不足していれば、自分の生まれや不運を嘆く、または絶望する。そして衣食住が足りると、さらなる不足を感じ、欲求不満が心に渦巻く。〝衣食足りて礼節を知る〟というのは表面的で、内心では決して礼節を知っている訳ではない。
仏教では、こういったことを煩悩と呼ぶ。煩悩は人をこの世のありとあらゆる欲望に執着させるものであり、欲望から自由にならなければ悟りの境地に達することはできず、涅槃に至ることもない。そもそも衣食住の不足を不満に思うことさえ煩悩であり、衣食住の束縛から解放されなければ、精神的な解放もないのだ。
東陽一監督が仏教を意識していたかどうかはともかく、この映画は現代の煩悩のありようをストレートに描いた作品だ。
郊外の一軒家に移り住んだ不自由のない専業主婦が、変わり映えのしない毎日に倦み、他人との関わりに充足を求めようとする。ストーカー行為は悪意から生まれるのではなく、自分への不満が動機なのだ。
人には能動的な人と受動的な人、積極的な人と消極的な人がいる。社会的な価値観について言えば、たいていの人が受動的であり、消極的である。自分の価値観だけで生きていくのは非常に困難で、社会の価値観に認められる必要がある。自己の価値観を確立して実行するよりも、社会的な価値観に従順に生きるのが楽なのだ。
そのような従順な生き方が、誰かに演奏されない限り音を発することがない木琴に例えられている。子供が無作為に演奏すると、乱雑な音を出すが、洗練された演奏者に叩かれると、美しい音色を奏でる。
そして木琴のような女性を、美しい常盤貴子が静かに、静かに演じている。自分には、現在の夫には奏でられない音色があるかもしれない。誰かに違う音色を出してほしいのだ。その静かな演技が底知れぬ狂気の膨張を感じさせ、女というものはこういう生き物なのか?と思わせる。
相手役の池松壮亮は、どこまでも普通の常識人である若い美容師を自然に演じていた。この俳優さんは随分うまくなった。
悪人は誰も出てこないのに、何故かいろいろなことが悪い方向に進んでしまう。19世紀のフランス文学に似ている印象のある映画で、「谷間の百合」のバルザックに倣って、「C'est la vie」(「これが人生なのです」)と言い切ってしまいたくなる。
静かではあるが人生の深みを覗き込ませるようないい作品である。