ダゲレオタイプの女のレビュー・感想・評価
全32件中、21~32件目を表示
雰囲気抜群も長すぎるかな…
寒々とした空気感がよく伝わってくるし、無人の空間を何度も凝視するような絵づくりに感服。
なんでフランス?っていう単純な疑問も作品を体感すればすぐに監督がやりたかったようなことを漠然と掴めるような気がする。
ただ、日本映画にあるような生っぽさがやや欠けているような気がして、その分、恐怖感も半減していたように思う。絵があまりにも美しくなりすぎるからなのだろうか…
個人的にはもっとダゲレオタイプそのものを見たかった。あの写真だけで驚きで、なるほどこれはタイトルにするよなぁと納得したけれど、長すぎると思ってしまった。
ダゲレオタイプの等身大のカメラがドーンとあるだけで、もうザ・フライ...
ダゲレオタイプの等身大のカメラがドーンとあるだけで、もうザ・フライのテレポッドに見えて仕方ない。それらの機器、薬品がもうマッドサイエンティスト。
ゴースト描写はベスト版キヨシクロサワみたい。
とにかくコンスタンルソーの高速で動く目がね、とにかく凄くてこれは怪奇映画として真似出来ない凄さだと思います。
人は過去を縛り、過去もまた人を縛る
『回路』『叫』の異才・黒沢清監督が海外資本を受けて
フランスで撮った本作。出演陣もロケも言語も勿論
フランスざんすということで彼の個性が活きる作品
になるや否やと思っていたが、蓋を開けて一安心。
黒沢清はフランスで撮ってもやっぱり黒沢清だった。
見えない空間、光の揺らぎ、風のざわめきが醸し出す不穏さ。
何かに固執したが為に魂を失ってゆく人々。
どこまでも曖昧な生者と死者の境界線。
青いドレスの女のぞくりとくるような存在感は流石で、
アウトフォーカスやスロー等の最低限の演出だけで
瞬時にその異様さが伝わるのは彼の真骨頂。
『回路』の赤い女を彷彿とさせるあのシーンなんて、
フランスのファンに向けたサービスかしらと思うほど。
* * *
1839年に開発されたほぼ最古式のカメラ・ダゲレオタイプ。
原理的な説明は……まあ割愛するとして(←逃げ)、
本作を語る上で確認しておくべきダゲレオタイプ
写真の主な特徴は以下の点かと思う。
・焼き増し不可=世界に1枚しか存在しない
・通常のカメラと違い、撮影したフィルムは光の
明暗が反転しない=被写体をそのまま再現する
・露光時間が長い=20分程度は同じポーズで
待っていないと写真にうまく写らない
写真に魂を吸われるなんて言い伝えがあるが……それが
本当ならダゲレオタイプくらいにぴったりのカメラも無い。
思えば土地と写真は似たものなのかもしれない。
露光時間が長ければ長いほど克明に焼き付けられる
ダゲレオタイプ写真と同様、ひとつの地に留まれば
留まるほどに、人はその地に縛られ動けなくなる。
あの幽霊。
夫への復讐だけが目的であれば娘を手にかける
必要はなかったはずだ。娘はきっと、あの土地を、
あの屋敷を、離れたがっていたからこそ死んだのだ。
一方頑なに土地を手放すことを拒んでいたあの父親が唯一
土地を手放すことを考えるなら、それは娘の為だったろう。
結果として彼は娘の死で土地を手放すことを止め、
最終的にはあの屋敷の中で、自らの命を断った。
あの幽霊は、家族をまるごとあの場所に永遠に
焼き付け繋ぎ止めたかったのではと感じている。
人は過去を縛ろうとし、過去もまた人を縛る。
印象的に登場する工事現場の風景。再開発の進む街中で、
忘れ去られたように佇む古屋敷は、それそのままが
人の魂を縛る巨大な銀板だったのかもしれない。
* * *
他方、古典怪談『牡丹灯籠』『雨月物語』のように、
幽霊となったマリーと暮らす事となる主人公ジャン。
やつれた上に外部からの連絡も通じないということは
彼のアパートの部屋も既に異界と化してたんだろう。
彼にとって幸か不幸か分からないが、マリーは最後、
忽然と消えてしまった。あれは死者である彼女と
『死が2人を別つまで』という誓いを立てたが為
だろうか。それとも、マリーは夫婦の誓いを
立ててから彼の元を去りたかったのだろうか。
生きていても死んでいても消え失せても、
マリーはあのままジャンの魂を縛り続けるのだろう。
けどきっと、マリーの魂はあの屋敷に舞い戻っている。
可哀想なマリー。植物を愛した彼女は、自由になりたい
と願った彼女は、ずっとあの死んだ土地に縛られたまま。
みんな逃れられない何かに縛られたまま。
<2016.10.22鑑賞>
.
.
.
.
余談:
同監督の映画に登場するロマンス要素はいつも
ストレート過ぎるように僕は感じていたのだけど、
フランス映画で観るとこれが驚くほど違和感がない。
監督って日本より西洋映画と相性が良いのだろうか……。
後半、妖しさや怖さが減速していく
世界最古の写真撮影技法(ダゲレオタイプ)を用いて娘の写真を撮り続けているステファン(オリヴィエ・グルメ)。
高齢の助手に代わって採用されたのがジャン(タハール・ラヒム)。
被写体になる娘マリー(コンスタンス・ルソー)は、撮影の都度、長時間にわたり器具に固定を強いられている。
ジャンは写真撮影にも魅入られるが、マリーにも思いを寄せていく。
そして、ステファンは、かつてのモデル=妻のことが忘れらないでいた・・・
という設定の物語は、写真という「時の停まった女性」に魅入られる妖しい怪談である。
前半は素晴らしい。
これまでの黒沢監督以上に、美術や画面の印影が冴えている。
そして、ゆっくりと意味ありげに動くカメラも、また、傑作誕生を思わせる。
しかしながら、後半になって、その妖しさは失速していく。
事故で死んだと思われたマリーが息を吹き返し、ジャンと暮らし始めるあたりから、闇は消え、物語も破綻していく。
まぁ、息を吹き返したマリーが実は幽霊で・・・といったことが物語の(ひいては映画の)破綻ではない。
ダゲレオタイプという写真撮影方法が、後半ほとんど活かされておらず、そこのことで物語の説得力を欠いていくことに由来するのだろう。
写真、それも等身大の銀板写真によって永遠の命を得ることと、幽霊として現れることの関連性がわからない。
いや、わかるんだけれど、妖しくない。魅力的でない。
なんだか、1足す1は2みたいな、幼稚な算数みたいにしかみえない。
たぶん、後半、あまりにも娘の登場シーンが多すぎ、かつ明るい日常で世俗的すぎて、なんだかなぁ、なのである。
西洋における幽霊は、闇に潜むものでないにしても、である。
後半、あまりに語りすぎて、それが怖くもなければ、美しくもないという結果になったのかもしれない。
これはエンディングも同じで、あまりに見せすぎ、芝居しすぎで、説明しすぎ。
もっとさらりと締めくくった方が、怖さや美しさや切なさがあらわせたのではありますまいか。
131分の尺だが、少なくとも20分ぐらい(欲を言えば40分ぐらい)詰めて、小品に仕立て上げた方が良かったかもしれない。
黒澤清作品としては、平凡な出来。
ラジカルな映画ですが----
蓮實先生の一番弟子の面目躍如たる問題作であるのは間違いない作品かな?
虚と実の狭間に漂う映画とは何か?
カメラは何を型取り掬い上げるのか?
そのテーマにこれまで以上にダイレクトに挑んだ身振りは素直に感動しました。
またラストショットがエンジンキーを掛けた所で暗転してのエンドはさすがだと感じいりました。
でも,やはり面白くないのです。
虚と実で二者択一すれば、やはり実にものたりなさを感じるからでしょうか。
彼女の「存在」は変わらない
黒沢清という監督は、生者と死者の境界を曖昧に描いている事が多い。
観ている側にとって、本当にその人物が今そこに存在しているのかと疑わせるような、不穏な演出がとても優れている。
回路、岸辺の旅、叫など、多くの作品で見られ、それこそが黒沢清の求めているテーマだと言っていいかもしれない。
そういう意味では、この作品も間違いなく「黒沢映画」なのであって、こんな映画を撮れるのは恐らく、世界でも黒沢清ただひとりしか居ないだろう。
要するに「死」とは何なのかという事である。
まず、マリーは「植物」に思い入れがあるように描かれている。
この「植物」というものこそ、屋敷という地に根付き、ステファンによって身動きの取れない母子の暗喩そのものである。
植物のように枝分かれした拘束器具に繋がれ、彼女達は芸術家の言いなりになり、苦痛に耐えていた。
昭和の日本家庭のような亭主関白ぶりである。
そこから逃げ出すにはどうすればいいのか。
「死」しか無いのである。
少なくともこの作品では、そういう選択肢しか無いように描かれている。
この死者の描き方がまた、いつものように良い。
シーンが変わった時、またカットの始まりにおいて、死者と生者の視点がズレているのだ。
例えばシーンの始まりでマリーが居れば、ジャンは後から画面内に入り、ジャンが画面外に話しかければ、マリーがスッと画面内に入ってくる。
観ている側からすると、そこに話している相手がいるかどうかわからない、宙に浮いたような不穏な時間というか、奇妙な時間のズレがあるのである。
実際に居るか居ないかの問題ではなく、そういったズレた演出が素晴らしいのだ。
だからこそ、彼女の「不在」が見る側に明確となった時のやるせなさも際立つのだろう。
得意の長回しもまた、不穏さを引き立てている。
不穏さと言えば、いつものような揺れるビニールカーテンであったり、芸術家のアトリエとは言い難い、廃墟のような空間であったり、暗闇から人がぼうっと現れる場面の照明の凄さであったり、ワンカットで見せる痛々しい落下であったり、黒沢演出の満漢全席だった。
また、左右に揺れるランプ、カサカサと舞う落ち葉など、どう見てもベルナルド・ベルトルッチの模倣としか思えない演出があった。
余談だが、前作クリーピーにも、死=胎児(ラストタンゴ・イン・パリ)というイメージや、ラストシーンで舞う落ち葉(暗殺の森)など、ベルトルッチ演出が使われている。
別にオマージュ自体はベルトルッチだけでは無いし、クリーピー以外でも使われてはいるが。
だが、フランス映画でここまでの作品が作れたのなら、次はベルトルッチの本場イタリアで映画を撮ってもらいたいものだ。
この作品と同様の、とてつもない傑作を撮ってくれるに違いない。
どこで撮ろうと黒沢清は黒沢清である幸福
ホラー、ラブストーリー、サスペンスといったジャンルを行き来しつつ、最終的な感触は幽霊奇譚といったところか。
屋敷を吹き抜ける風に揺らめく白いカーテンとビニール。闇に浮かび上がるコンスタンス・ルソー。『叫』葉月里緒奈/『トウキョウソナタ』井之脇海/『リアル』綾瀬はるか/『岸辺の旅』小松政夫らのアクションを彷彿とさせるシーンなどいくつもの黒沢清的モチーフを経て、紛れもなく黒沢清でありながら観たことのない映画へと誘われている。ついにスクリーンプロセスでない車の疾走が。
全32件中、21~32件目を表示