「人は過去を縛り、過去もまた人を縛る」ダゲレオタイプの女 浮遊きびなごさんの映画レビュー(感想・評価)
人は過去を縛り、過去もまた人を縛る
『回路』『叫』の異才・黒沢清監督が海外資本を受けて
フランスで撮った本作。出演陣もロケも言語も勿論
フランスざんすということで彼の個性が活きる作品
になるや否やと思っていたが、蓋を開けて一安心。
黒沢清はフランスで撮ってもやっぱり黒沢清だった。
見えない空間、光の揺らぎ、風のざわめきが醸し出す不穏さ。
何かに固執したが為に魂を失ってゆく人々。
どこまでも曖昧な生者と死者の境界線。
青いドレスの女のぞくりとくるような存在感は流石で、
アウトフォーカスやスロー等の最低限の演出だけで
瞬時にその異様さが伝わるのは彼の真骨頂。
『回路』の赤い女を彷彿とさせるあのシーンなんて、
フランスのファンに向けたサービスかしらと思うほど。
* * *
1839年に開発されたほぼ最古式のカメラ・ダゲレオタイプ。
原理的な説明は……まあ割愛するとして(←逃げ)、
本作を語る上で確認しておくべきダゲレオタイプ
写真の主な特徴は以下の点かと思う。
・焼き増し不可=世界に1枚しか存在しない
・通常のカメラと違い、撮影したフィルムは光の
明暗が反転しない=被写体をそのまま再現する
・露光時間が長い=20分程度は同じポーズで
待っていないと写真にうまく写らない
写真に魂を吸われるなんて言い伝えがあるが……それが
本当ならダゲレオタイプくらいにぴったりのカメラも無い。
思えば土地と写真は似たものなのかもしれない。
露光時間が長ければ長いほど克明に焼き付けられる
ダゲレオタイプ写真と同様、ひとつの地に留まれば
留まるほどに、人はその地に縛られ動けなくなる。
あの幽霊。
夫への復讐だけが目的であれば娘を手にかける
必要はなかったはずだ。娘はきっと、あの土地を、
あの屋敷を、離れたがっていたからこそ死んだのだ。
一方頑なに土地を手放すことを拒んでいたあの父親が唯一
土地を手放すことを考えるなら、それは娘の為だったろう。
結果として彼は娘の死で土地を手放すことを止め、
最終的にはあの屋敷の中で、自らの命を断った。
あの幽霊は、家族をまるごとあの場所に永遠に
焼き付け繋ぎ止めたかったのではと感じている。
人は過去を縛ろうとし、過去もまた人を縛る。
印象的に登場する工事現場の風景。再開発の進む街中で、
忘れ去られたように佇む古屋敷は、それそのままが
人の魂を縛る巨大な銀板だったのかもしれない。
* * *
他方、古典怪談『牡丹灯籠』『雨月物語』のように、
幽霊となったマリーと暮らす事となる主人公ジャン。
やつれた上に外部からの連絡も通じないということは
彼のアパートの部屋も既に異界と化してたんだろう。
彼にとって幸か不幸か分からないが、マリーは最後、
忽然と消えてしまった。あれは死者である彼女と
『死が2人を別つまで』という誓いを立てたが為
だろうか。それとも、マリーは夫婦の誓いを
立ててから彼の元を去りたかったのだろうか。
生きていても死んでいても消え失せても、
マリーはあのままジャンの魂を縛り続けるのだろう。
けどきっと、マリーの魂はあの屋敷に舞い戻っている。
可哀想なマリー。植物を愛した彼女は、自由になりたい
と願った彼女は、ずっとあの死んだ土地に縛られたまま。
みんな逃れられない何かに縛られたまま。
<2016.10.22鑑賞>
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余談:
同監督の映画に登場するロマンス要素はいつも
ストレート過ぎるように僕は感じていたのだけど、
フランス映画で観るとこれが驚くほど違和感がない。
監督って日本より西洋映画と相性が良いのだろうか……。
返信ありがとうございました。
浮遊きびなごさんの仰る通り、確かに過去の作品を振り返ってみると、黒沢監督が作品を撮るにあたって「土地」というものは重要な要素になっているのかもしれませんね。
とても勉強になりました。
今後の参考にさせていただきます。
僕も小津安二郎は数本しか観ておらず、その中に偶然「風の中の牝鶏」があり、覚えていただけです。
個人的には溝口健二の方が好きなので。
黒沢清がお好きであれば、ベルトルッチ監督の作品はかなりオススメです。
特に「暗殺の森」と「暗殺のオペラ」は素晴らしい作品だと思っています。
少し昔の作品ではありますが、観ると「ただの黒沢清じゃねーか」と思っていただけるかもしれません(笑)
おせっかいかもしれませんが、機会があればぜひ、ご覧になってみてください。
長々と失礼しました。
返信はお気になさらずに。
それでは。
お久しぶりです。ゼリグです。
BFGへのコメントありがとうございました。返信し損ねてしまい、申し訳ありません。
こちらのレビューを拝見させていただきまして、自分が見落としていた部分に気付く事が出来ました。
僕とは異なる視点から興味深い考察をされていて、やはり映画は人によって様々な解釈が出来るのだなと改めて感じました。
非常に面白い意見で、大変参考になります。
雨月物語からの引用という事は溝口健二へのオマージュなのでしょうが、ストーリー構成は全くもってそのままのはずなのに、なぜか思い至りませんでした。
今回の作品は小津安二郎の階段落ちも引用していましたし、自分のファン以外にもフランスを含めた海外のシネフィル向けに大サービスしているのは間違いないかと思います。
黒沢清の映画となると、無性に語りたくなってしまうため、思わずコメントさせていただきました。申し訳ありません(笑)
返信はお気になさらず。
また機会があればよろしくお願い致します。